ザカリヤの賛歌(ルカ1:67~80)2013年12月8日のメッセージから

私は聖書を説き明かすときに、新しい視座をみなさんに提供することがしばしばあります。しかし、それとて、けっして無秩序に提示しているのではありません。例えば、皆さんの福音やキリスト教に対する固定概念に疑問を投げかけることがありますが、それはキリストの福音が私たちの手元に届く2000年間に、特に私たちに届いた福音は欧米経由で有りましたから、その間に福音がねじ曲がってアメリカナイズされている場合は聖書の原意からそれを矯正する必要からです。また、かといって日本礼賛をしたい訳でなく、私たちの目も日本人と日本文化によって色眼鏡がかかっていますから、その意味においても、聖書の原意から色眼鏡をはずすためでもあります。

その一方で、現代の思想を遡って聖書の中に読み込むような形での新しい視座の挿入は私個人としても、教会としても拒否します。例えば弱者の視点を謳って、聖書の文脈にない「階級闘争」の視点をことさらに読み込むような神学です。聖書を読むにあたって、神が絶対的な基準点であり、測量でいうところの「一等三角点」なのです。また聖書が神から私たちへの活きるべき標を与える啓示の書であり、「二等三角点」ということができます。その解釈の結果としての教理や教会が適用・実践してきた歩みは三等、あるいは四等三角点ということができるでしょう。そして、その教会の歩みは歴史上、悲しいかなある時点においては間違いを犯してきました。しかし、教会の歩みは、人によって形成され、人は相対的なものでありますから基準となる三角点(神・聖書)より劣後します。現代的な価値観や実践を正しい物として、聖書や神を間違いとするのは、「四等三角点を基準にして、一等三角点がずれている」と主張するような本末転倒なものなのです。

さて、ザカリヤの賛歌においても、まず、歌を詠ったザカリヤの意図、その詩を引用したルカの意図に沿って解釈するべきであります。

イ 訪れ(68b)・・・新改訳では「顧みる」と訳されている
ロ 民(68b)
ハ 救い(69)
ニ 預言者(70)
ホ 敵(71)
ヘ 手(71)
ト 神の契約と誓い(72b‐73)
へ’ 手(74)
ホ’ 敵(74)
ニ’ 預言者(76)
ハ’ 救い(77a)
ロ’  民(77a)
イ’ 訪れ(78a)

と、この賛歌は美しい交錯配列(chiasmus)構文(最も主張したいことを文中心にして、キーワードを対称に配置する聖書の文学的表現)になっているのです。ザカリヤは自分の身に降りかかった出来事を歴史を統べるイスラエルの神ヤーウェを一等三角点して、それを確かめるように歌い始め、自分の身近な出来事(自分の息子が預言者として生まれること)さらには、将来に置いてキリストが神の契約と誓いに基づいて救いを成就されることを歌います。それはまるで、私たちが車で道に迷った時に、まず最初にカーナビの縮尺を最も大きい状態から順次小さくしていくことによって現在地を確認し、再び縮尺を大きくしながら、目的地までの道のりを捉えようとするかのごとくです。

私たちは神によって位置づけられ、その人生も神によるのであれば、決して揺らぐことはありません。

洗礼者聖ヨハネの誕生

ティントレット作『洗礼者聖ヨハネの誕生』


キリストご自身によるクリスマスメッセージ(ヘブル10:5~7)2013年12月1日のメッセージから S兄による

はじめに:主イエス・キリストのご降誕に関して、福音書の中に詳しく書かれていますが、主イエスご自身のことばは福音書のどこにも記されていません。それに対して、このヘブル10:5-7 には、キリストご自身のことばが記されています。

第 5 節:「ですから」。このことばは、第1-4 節で述べられている律法の無力さと関連しています。すなわち、「後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない」(1 節)。「神に近づいて来る人々を、完全にすることができない」(1 節)。「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができ」ない(4 節)。それでは、キリストがこの世界に来られて言われたことばに注目しましょう。この手紙の著者は、詩篇40:6-8 を引用し、キリストにあてはめています。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで」。律法の下でささげられた多くの「いけにえやささげ物」を、神はもはやお望みになりませんでした。「わたしのために、からだを造ってくださいました」。神は、ご自分の御子のために「からだを」用意なさいました。そして、永遠の初めから神であられる方ご自身が、被造物である私たち人間と全く同じ肉体を持って、この世界に来られました(ヨハネ1:1、14)。

第 6 節:「全焼のいけにえと罪のためのいけにえ」は、神の無限の聖さを満足させることはできませんでした。

第 7 節:「さあ、わたしは来ました」。主イエスは、強いられていやいやながらではなく、自発的に喜んでこの世界に来られました。「聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり」。神は、旧約聖書において、来たるべきメシヤについて予告しておられました。その預言は、旧約聖書の中に約350 あると言われています。例えば、メシヤ誕生の時期や場所や方法、またその家系、さらには、その生涯についても、誕生から死に至るまで、詳細な預言がありました。「あなたのみこころを行うために」。このことばは主イエス・キリストのご生涯を要約しています(ヨハネ4:34、ヨハネ6:38)。神のみこころの中には、十字架で死ぬということも含まれていました。主イエスは実に、のろいの木での死にまでも全く従われました(ピリピ2:6-8)。その結果、全人類のための贖いのみわざを完成してくださいました。第 8、9 節:「後者」と「前者」は、それぞれ「新しい(第二の)契約」と「最初の契約」を指していると思われます。ですから、最初の契約(律法のさまざまな規定)は「廃止されるのです」(9 節)。なぜなら、律法によっては決して実現しなかった完全な贖いが、キリストの十字架上でのみわざによって実現したからです。終わりに:イエス・キリストは、「新しい契約の仲介者」と呼ばれています(ヘブル9:15)。それは、「ご自分の血によって」、「永遠の贖いを成し遂げられた」からです(ヘブル9:12)。私たちは、キリストが成し遂げてくださった永遠の贖いに一方的な恵みによってあずかりました。私たちは、キリストが十字架の上で成し遂げてくださった永遠の贖いのみわざをただほめたたえるばかりです。

クリスマス、七面鳥だよ

ソフィー・アンダーソン作『クリスマス、七面鳥だよ!』

 


インマヌエル( マタイ1:18~25)2013年11月24日のメッセージから

マタイ伝1章の後半にある「インマヌエル預言」の記事はキリストの処女降誕の教理の根拠として、また、キリストの神性を表す教理の根拠として長らく用いられてきました。そして、それを信じぬ者を切り捨てる教理として適用されてきました。勿論、私はその教理に全く同意しますし異論を挟むつもりはありません。しかし、もとい振りかえってみますと、このテキストは信じぬものを切り捨て、峻別するための教理としての『インマヌエル預言』だったのでしょうか?

ヨセフは正しい人でした。しかし、マリアの妊娠を知った時、離縁することを考えました。もちろん、当時の慣習に従ってマリアを姦通罪に訴えることもできたでしょうが、そうはしなかったのは彼の温情といえなくもありません。しかし、自分に手の負えなくなった者を切り離して自分の管轄外にしてしまう。彼の行動は非難されるべきことではありませんが、自分の価値観で正しく歩もうとする人間の限界を表しているようにも思えるのです。

 このマタイ伝のインマヌエル預言は旧約聖書イザヤ書7章からの引用です。当時、南ユダ王国は北イスラエル王国とシリアとの同盟によって侵略される危機にありました。しかし、南ユダ王アハズはまことの神に信頼を置こうとは考えず、あろうに両国よるもさらに北東にあるアッシリア帝国との同盟によってこの難局を乗り切ろうとしました。このアハズ王は自身の子どもですら人身供養として異教の神に捧げてしまうような悪王で、その時々の強い国が信奉している偶像と、その礼拝様式を導入する(但しヤハウエは除く)、定まった考えをもたない王様でした。預言者イザヤはアハズに「軍事力や外交力ではなくてただ神に信頼するように」、と勧めます。そして王は言います。「私は主を試みません」と・・・。一見すると非常に信仰深いように聞こえる体裁の良い言葉です。しかし、この言葉は「聖書の神様だけは、一切関与しません、頼ろうという選択肢すら持ちません」という、究極の不信仰の表れとしてのことばだったのです。その時イザヤを通じて告げられたのがインマヌエル預言です。「信頼できないというのなら、一度主を試みてみよ、それすらしないと言うのなら、主自らあなたが手を煩わしてでも信じられるように、しるしをみせよう。インマヌエル(主はおられる)という名の子どもが生まれる」…と。

そうです。もともと、「インマヌエル」というのはある教理を信じない者を切り捨てる為のリトマス試験紙として神が用意された教理ではなくて、元来は信じることが出来ない者のために信じることが出来るように神様の方から直々に下さる「しるし」を意味する預言だったのです。

 結局アハズは主の言葉を信じなかったのですが、イザヤ8章を見ると、この預言を託されたイザヤ自身が、弱さで心が折れそうななか「インマヌエル」を信頼して預言し続け、立つことができたこと、またこの預言を将来に託すために書き記したことが明かされます。

 それをふまえた時に、まさにヨセフは、自分の価値観、あるいは当時の環境に圧されて、マリアを離縁することが精いっぱいだったのですが、それは婚約者の生命を守るという方便を用いながら、彼女との関係を断ち切り、自らの保身を達成しようとする体裁の良い選択肢だったというのは少々意地悪な見方でしょうか?そんな彼に御使いはインマヌエル預言を与えます。そしてインマヌエルの約束を信じた時に、彼は婚約者マリアとの関係を断つのではなくて、神を信頼してマリアを娶り、彼女との関係をむしろ強化するという大変なリスクを伴う、決断を聖霊によって下すことが出来たのです。この時の彼は心の中は『はたして妻を愛し通せるか?』『生まれてくる子どもを愛せるか?』『妻子を世間の冷たい目から守ることができるか…』そんな不安が渦巻いていたはずなのです。しかし、インマヌエルの約束を信頼する時彼は決断できた。

私たちも告白しましょう。私たちの心は弱く、不安と不信仰の思いは今も一杯だけれども、インマヌエルの約束を神様の方から迫ってきて下さるとき、私たちはそれを信じ、信仰によって歩むことができると・・・。

聖ヨセフの見た夢

ジョルジュ・ド・ラ・トール作『聖ヨセフの見た夢』


取税人のかしらザアカイ(ルカ19:1~10)2013年11月17日のメッセージから S兄による

第 1 節:主イエスは、エルサレムに向かって行く途中でした。

第2 節:「ザアカイ」という名前は、「義人」あるいは「きよい人」という意味です。彼は、「取税人のかしら」という立場を最大限に利用し、かなりの利幅を取って、「金持ち」になりました。

第3 節:ザアカイは、主「イエスがどんな方」であるかということに関心がありました。彼は、たましいに飢え渇きを覚えていたのでしょう。彼は、主「イエスがどんな方か見ようとし」ましたが、「背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした」。

第4 節:ザアカイは、主イエスがどんな方であるかを見ようという気持ちを抑えられませんでした。彼は、周囲の目など全く気にすることなく、「前方に走り出て、いちじく桑の木に登」りました。彼は、「ちょうど」主「イエスがそこを通り過ぎようとしておられた」タイミングを見計らいました。

第5 節:「ちょうどそこに来られ」た主イエスは、木の上に登っていたザアカイに気づかれました。主イエスは、いちじく桑の木に登るという彼の奇抜な行動が好奇心からのものでないことにすぐに気づかれたのでしょう。そして、「上を見上げて」、「ザアカイ」と呼びかけられた後に、「急いで降りて来なさい。わたしはきょうあなたの家に泊まることにしてある」と言われました。これは、救い主なる方からの、何と幸いな招きでしょう。

第6 節:ザアカイは、自分の名前が呼ばれただけでも驚いたはずですが、きょう自分の家に主イエスがお泊まりになると聞いて、どれほど驚いたことでしょう。彼は、主イエスの命令に従って、「急いで降りて来」ました。そして、「大喜びで」主「イエスを迎え」ました。

第7 節:当時、ザアカイのような取税人はひどく嫌われていたので、人々は「つぶや」きました。人々は、主イエスの恵みや自分たちの罪深さを理解していませんでした。この地上で主イエスがだれの家に行かれたとしても、そこは「罪人のところ」でした。だからこそ、主イエスはこの世界に来られたのです。

第8 節:ザアカイの悔い改めは本物でした。以前のような金銭に対する執着心は、もはやなくなりました。彼は、「主よ」と呼びかけた後、自分の「財産の半分を貧しい人たちに施」す決意と、「だまし取った物は、四倍にして返」すという決意を言い表しました。しかも、それらを今すぐに実行するつもりでした。

第9 節:ザアカイが主イエスに対して言ったことば(施しや賠償の決意表明)は、「救い」の幸いな「結果」あるいは「証拠」でした。主イエスのことばに注目しましょう。①「きょう」。ザアカイの「救い」の原因は、ザアカイが「大喜びでイエスを迎えた」(6 節)こと、すなわち、主イエスを信じ、受け入れたことであると言えるでしょう。②「アブラハムの子」。アブラハムの信仰にならうことを意味しています。

第10 節:「失われた人を捜して救う」とは、主イエスの、何と幸いな使命でしょう。主イエスは、「失われた人」である「罪人」(7 節)の救いを実現するために、十字架にかかり死なれました。そして、今もなお、「失われた」罪人を「捜して」おられ、ご自分を信じ受け入れるすべての者を、一方的な恵みによって「救」ってくださいます。何と憐み深い救い主でしょう。

七つの大罪

ヒエロニムス・ボス作『七つの大罪』


民みなよろこべ(詩篇98篇)2013年11月10日のメッセージから

詩篇47、93、96~99篇は別名として「即位の歌」とよばれます。神である主が王として即位することを賛美する歌です。特に詩篇98篇は世界的に有名なクリスマスキャロル「Joy to the world」の元になった歌であります。日本語では「諸人こぞりて」として知られています。オリジナルの曲は詩篇98篇からインスピレーションを得た作詞家が、この王としてこられる神を再臨の主(即ち、キリストのこと)とダブらせて、詠んだのが世界的なクリスマスキャロルとなったのです。しかし、英詩と詩篇98篇と日本語の「諸人~」を読み比べてみて下さい。明らかに英詩と詩篇98には相関があるのですが、日本の「諸人~」とは歌詞の内容が全然違います。

実は、英国の讃美歌の文化として、曲と詞の結びつきはそれほど強くありません。韻律さえあえば、曲や詞を入れ替えて歌うのはもっぱらです。そのため、詩とは独立して曲そのものにも名前が着いている。因みにJoy to the worldの曲名(tune name)はアンテオケです。日本の讃美歌、聖歌で同じリズムで違う歌詞の曲がいくつもあるのはそれに起因します。

当初、日本で初めてJoy to the worldが讃美歌集で紹介された時は、「諸人こぞりて」と「民みなよろこべ」は音韻が一緒なので、曲を変えて奏楽可能であると付記していたのですが、日本には曲と詞は一体と捉える向きが強く、世界的な「Joy to the world」の訳詞とは違う「諸人こぞりて」の方が歌詞として有名になってしまいました。その為、この世界的なクリスマスキャロルを歌う時同じリズムなのに日本だけ違う意味の歌詞で歌われるという珍現象が生じてしまいました。これではイカンということで、98篇に準拠して造られたアイザック・ワッツのJoy to the worldの訳詞は聖歌に掲載されている「民みなよろこべ」の方なのです。

①民皆喜べ 主は来ませり      心を備えて 
      いざ迎えよ  いざ迎えよ  いざ  いざ  迎えよ
②地に下りませり  救い主は      野山も  流も
      声上ぐべし  声上ぐべし      声  声  上ぐべし
③罪の呪(のろ)いをば  解き給えば 憂(うれ)いも  悩みも
      皆消え失(う)せん 皆消え失せん  皆  皆  消え失せん
④主は世を統(す)べ給う  御恵みもて  主の愛  主の義を
      誉(ほ)め称えよ  誉め称えよ  誉め  誉め  称えよる。

さて、詩篇98篇の動詞はは1~3節は完了形(既に起こったこと)、4~6節は命令形(今命じられていること)、7~9節は、未完了形(未来に約束され、またそうなるように作詞者自身が願っていること)として書かれています。

そしてこの「民みなよろこべ」の訳詞もそのようになっています。1番が既にきたイエスの初臨をあらわし、2番は賛美を天も地も全人類も捧げることが求められ、4番は再臨の時主が王として世界を統べられることを謳っています。ただ4番を歌うその前に、アイザック・ワッツは3番で再臨の主、裁き主、王である御方が今、救い主、贖い主として私たち前におられる、罪を解決して下さる御方と同一人物であるという詩篇98篇には書かれていない側面を新約聖書の光を当てて見事に歌いあげているのです。言って見れば、Joy to the worldはアイザック・ワッツの詩篇98篇の講解説教のようなものなのです。

私たちは罪赦されてこそ、この王であり裁き主である神の前に臆することな進み出ていくことができます。そして、心から賛美出来るのです。救い主であり裁き主である神をほめたたえましょう。そして、これからクリスマスシーズンに突入し、デパートや商店街で嫌というほど商業主義に毒された「Joy to the world」を聞くことになるでしょう。その時、ただ、刹那的な快楽主義に踊らされるでもなく、また極端な厭世主義に陥るでもなく、創造の時から再臨に至るまでの遠大なる人類救済の歴史の中に私たちもまた結びあわされていること思いを馳せて頂ければ、きっと、私にとっても、作詞者アイザック・ワッツにとってもこれ幸いといえるでありましょう。

羊飼いの礼拝

ジョルジュ・ド・ラ・トール作『羊飼いの礼拝』