敬虔さがもたらす落とし穴(ガラテヤ1:6~10)2014年2月16日のメッセージから T氏による

ガラテヤの教会はコリントの教会よりもはるかに問題が少なかったようです。きっと私たちがその二つの教会に訪問しても、一瞥してその違いが分かったはずです。なぜばら、ガラテヤの教会の信徒はそれなりに律法にしたがって画一化されていましたし、一見するととても敬虔でいわゆる「問題行動」が少なかったようです。一方のコリントの教会はというと、不品行の問題、分裂分派、食事の配給の問題、教会内での重婚や近親相姦、さらには教会員どうしで裁判沙汰まで抱えていたらしく、私たちが考えつくところの「問題」は山積していました。

そして、手紙を見る限り、使徒パウロは両教会のそれらの事情を全てお見通しのようでした。その上で、パウロは教会と、その教会に集う兄弟姉妹に対する評価にぶれは有りませんでした。評価項目は唯一つ、「福音に拠り立っているるか否か?」でありました。多くの問題を抱えていたコリントの教会の兄弟姉妹に対して、決して問題を不問してしているわけではありませんし、訓告するのですが、次のように手紙の冒頭で呼びかけます。

コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。(Ⅰコリント1:2)

問題があろうとも、福音信仰の故にコリント教会を「神の教会」と呼び、そこに集う人を「聖徒」として召された人々と断言します。

一方でガラテヤの教会は、目に見える問題行動こそなく、敬虔ではあったかもしれませんが、福音以外に律法にもより頼もうとする信仰姿勢から次のように厳しく糾弾します。

私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。(ガラテヤ1:6~8)

当時のガラテヤ教会はエルサレムからきた割礼を重視する人達の意見になびいていました。福音は確かに信じてはいたのですが、しかし、それでも、主イエスの十字架の福音以外に混ぜ物をするのならそれはもう「別の福音」であり、それを吹聴するものは「かき乱すもの」であり、「呪いの対象」だというのです。ガラテヤの教会は律法に準則し、確かに敬虔ではあったのかもしれません。しかし、それが落とし穴となり、主イエスキリストの福音とは別のもう一つの福音にそれてしまったのです。

微妙なところは、実はガラテヤの教会の兄弟姉妹とて、福音の必要不可欠性は十分理解していたことです。ただ、彼らは救いには福音を信じるだけで「十分だ」とは言いませんでした。福音「+α(プラスアルファ)」がいるといったのです。これがガラテヤの教会の場合律法に従うと言う名の敬虔さだったのです。

この「福音+α」の問題は決してガラテヤの教会に限った話ではなく、現代の教会にも通じるはなしなのです。教会指導者が、「長老に従え」の御言葉を乱用して、「福音+α」を唱えるのならそれは現代の新手の割礼派であり、パウロの呪いの対象です。それでも、私たちの教会に割礼派になびいたペテロを面罵するパウロのような人間がいれば、少しは安心できます。が、現代の日本の教会にはそれも期待できないでしょう。私も含めて教会の中で福音よりも秩序維持の方に重きを置いてしまうのが常だからです。

今一度再確認いたしましょう。私たちの救いの土台は、恵みのみ、信仰のみ、キリストのみです。これこそ福音です。

敬虔であることはこの福音に混ぜ物をしたり、敬虔さが足りないからといって、この福音を信じているものが排斥されるようなことでは断じてないのです。

悪しき小径ルイ・ジャンモ作『悪しき小径』


2014年3月30日の予定

来週3月30日は大東キリストチャペルは14:00からの礼拝です。当日は大阪聖書学院学院長、旭基督教会牧師の岸本大樹氏を招いて御言葉を取り次いで頂きます。

メッセージの題は『主が求めておられること』聖書個所は(マタイ14:13~22)です。

皆さんお誘い合わせのうえ、ぜひお越しください。

説教者近影

説教者近影 


一番偉い人(ルカ22:24~30)2014年2月9日のメッセージから

最後の晩餐のあと、弟子たちは誰が一番偉い人かという議論「も」していました。主イエスの深い悩みは誰にも分かりませんでした。主は15節で「過越しの祭りの食事をどれほど切に願っていたか」と仰います。弟子たちとともにその念願がかなった訳ですからとてもうれしかったはずです。その一方で、イスカリオテのユダが裏切ろうとしていることに気づいていらっしゃいましたので、そのような人間がいることをただ悲しんでもいらっしゃいました。最後の晩餐の食後のキリストの胸中はキリストと父なる神以外はだれもご存じでなく、また理解も出来ないものでありました。この弟子たちの議論は裏切り者は誰かという議論から派生して、じゃあ一番偉い人は誰かという話になったと聖書は言うのです。

 この議論という言葉は「勝利」と「愛する」という言葉の合成語です。相手を論破し、勝ちにこだわり白黒はっきりつけようという思想が背景にあります。しかし、全てが野暮だし、無粋なことであります。

 聖餐式の意味をある人は、ぶどう酒とパンそのものがキリストの血と体として実体が変化したといい、ある人はただの象徴にすぎないというのです。実体として血に変わったのなら、ユダヤ教で禁止されている血を口に含んだことになりますし、かといって「ただの象徴」なら、形式的なパリサイ人の儀式をあれほど批判していたキリストが主の晩餐にここまでこだわることもなかったはずなのです。

 3年前、私は東北に震災復興のボランティアに行った際、現地の兄弟姉妹とささやかながら聖餐式を行い、その時使用したパンの残りを持って帰ってきてそれを用いて聖餐式をしました。俗っぽく言えば「甲子園の土を持って帰る高校球児」のようなことをしたのです。そのことに対して、無理に教理的な意味づけを問う者や、わざわざ震災直後の食糧難の時に東北にせっかく持っていたパンを持って帰ってくることの不合理を問う者がいるでしょうか?そのような議論をすること自体、野暮だし無粋なのです。

 私たちは理解することで信じたのではなく、信じたことで理解できるようになったのです。そして一見、聖餐式の不可解で不合理な儀式の霊的な意味を信じることで霊的に教えられました。そのことを、実体が変化したのだと理性に反する見解を無理に信じ込むことは野暮でありその必要はありませんし、象徴にすぎないといって、理性の範疇に閉じ込めることもまた無粋なことだと思うのです。

 主は、この最後の晩餐にに及んでもなお勝ちにこだわる論争に終始する弟子たちに対して、十字架にかかる直前まで、神の前には人間的な序列で貴賎が決まるのではないと根気強く教えてくださいました。

 その姿は神学論争に明けくれ、多くの教派に分裂し、キリストのからだなる教会をバラバラにしながらも、なおも自らの教派の正しさにこだわる現代の教会の姿ともダブるのです。

 そして、そんな、私たちに今日もイエス様は聖餐式を通して、十字架の意味を霊的に語りかけて下さっているのです。

最後の晩餐ティントレット作『最後の晩餐』


貧者の一灯(マルコ12:38~44)2014年2月2日のメッセージから

英和辞典を見ますと「やもめの献金」「the widows mite」は「貧者の一灯」とも訳されます。貧者の一灯とは、仏教の故事で、お釈迦様を思う気持ちが、長者が供えた一万もの燭台よりも、貧者が供えたたった一灯の方が優れていたというお話に基づきます。そして、仏教の説話らしくそこには、何故そうであるのかという説明はありません。教会でこのやもめの献金が語られるとき、どうしても、『だから金額の多寡に関係なく気持ちが大切だ』として、結局、貧しい者も少なくともいいから献金を出せるだけ出しなさいといって貧しい者から財物を絞り取る原理として悪用されてきた歴史があります。このやもめの献金は本当にそんなことを私たちにおしえているのでしょうか?
聖書は文脈が大切です。前段をみると、弟子たち向かって律法学者に注意しなさい、彼らの虚栄心がためにやもめの家を食いつぶすことになるという警告が語られています。その流れを受けての「やもめの献金」なのです。
この当時の献金箱(ガラ・フィラキオン)は「財産」と「見る」という二つの言葉の合成語です。献金額は本来なら人に見られないはずですし、主イエスも「右手でした(善行)を左手に知られないように」と仰って、良いことをひけらかすようなことをしないように仰っています。なぜ、献金箱は「財産を見る箱」なのでしょうか?実は、当時の献金箱は投入口がラッパ状になっていて、そのラッパに貨幣を投げ入れる仕組みだったのです。「ガラガラ、チャリーン」という音で献金額の多寡がある程度分かる仕組みだったのです。おそらく、この神殿の婦人の庭で行われていた献金はより大きな音を鳴らしてたくさんの献金したことを競い合う場所に成り果てていたのです。 主は献金をする人々の様子をみて、やもめの中に見栄を張ろうとするのではなくて、神様に完全な信頼を置いている信仰を見ました。そしてそのことに驚嘆し、「彼女が一番神様の前に献金をした」と宣言をされたのです。面白いことにこの宣言は、やもめに対してではなくて、弟子たちに対して行われています。やもめが何故、僅かであっても全額献金できたかというと、当時の神殿は形骸化して腐敗しきっていたかもしれませんが、彼女はそれでもその腐敗した宗教システムの施しによって、今日まで生きながらえてきたのです。彼女はそんないやらしい思考をせずに「神が明日も生きよと仰るのであれば明日、生きるための施しもまた受けることが出来るだろう」という純粋な信仰を持っていたのです。 腐った宗教システムの中にあってなおも純粋な信仰を持ち続ける彼女を見るにあたって、なおのこと、彼女ではなくて、弟子たちに、「教会では、神殿では、彼女のような全き信仰をもった人間が隅に追いやられるようなことがあってはならない。まことの宗教は、もしまことの宗教というものが存在するのであれば、それは弱者の声を神は聞き逃さないがそうではないか。弟子たちよ、あなた方も、弱者に注ぐ目と傾ける耳を失ってはならない」という主の願いであったのです。ですから、この故事はやはり貧者の一灯とは趣を異にすると言わざるを得ません。 しかし、次の13章を見た時に荘厳な建物に目を奪われる弟子たちをみてもわかるように弟子たちは主の真意を全く理解出来ていませんでした。それでも主は弟子たちを導いて下さる。十字架の三日前の出来事でありました。

エルサレム神殿の破壊

 フランチェスコ・アイエツ作『エルサレム神殿の破壊』


2014年3月23日の予定

来週3月23日は第4日曜日ですので大東キリストチャペルはいつもどおり14:00からの礼拝です。

当日のメッセージの聖書個所はマタイの福音書26:47~56で「剣を持つ者は皆剣によって滅びる」というタイトルでメッセージが為されます。皆さまお誘い合わせのうえ、是非お越しください。キリストの捕縛

カラヴァッジオ作「キリストの捕縛」