共にいる喜び(詩篇133篇)2014年4月6日のメッセージから


詩篇133篇はユダヤ教徒も、メシアニックジューもよく歌う愛唱歌です。インターネットで「Hine ma tov」 と検索すれば、賛美をしている映像がたくさん出てきます。特に1節の「見よ。兄弟たちが一つになってともに住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」を何回も何回も繰り返して歌います。表題には「ダビデによる。都のぼりの歌」とあるので、ここにある兄弟とは、肉の兄弟に留まらず、神の国の同胞としてとらえることができます。また、「住む」は「いる」とも「座る」とも訳せる単語ですので、都にある神殿、幕屋に集う姿、現代で言えば公同の礼拝に兄弟姉妹が一緒になって参加することとみてよいでしょう。そして、詩篇の著者(ダビデ)は詠います。そのように集まって礼拝することは、なんと幸せなことか、なんと楽しいことかと…。

全く以て、然り、アーメンです。日々、み言葉の奉仕をし、「また、教会に足を運んで下さいね」と申し上げている身としまして、その部分には完全に同意致します。

しかし、この詩篇133篇の著者ダビデはその礼拝の素晴らしさを現代人には理解しがたいさらに2つのことにたとえます。『アロンの髭に滴る油』と『ヘルモン山の露』です。何十節にも及ぶ何連にも渡る詩ならまだしも、詩篇133篇はたった3節しかないのです。そのわずか3節で礼拝の素晴らしさを語らねばならないのに、よりによって「アロンの髭に滴る油」にたとえるのです。

 モーセは80歳で召命を受けました。アロンが大祭司任職をうけたのはそれより後で、しかもアロンはモーセの兄ですから、大祭司の任職を受けて油を注がれたのは80歳を遥かに超えた時です。現代人からすれば、80過ぎたお爺さん(アロン)が油まみれになってベタベタになっているあり様はお世辞にも礼拝の素晴らしさと比肩出来ないように思われるのです。しかし、このベタベタにこそ素晴らしさが描かれているのです。大祭司に任職される情景は出エジプト記やレビ記にしるされています。祭服を来て胸当てをしたアロンに油が頭から注がれます。その油が髭を伝ってべったりとイスラエル全12部族を象徴する胸当てを滴らせるのです。

私たちは教えられています。教会はキリストのからだであると、キリストは教会のかしらであると、また新約聖書のキリストはヘブライ語ではメシヤであり、その意味は油注がれたものであると教えられています。(キリスト=メシア=油注がれた者) 新約聖書の時代に生きる私たちはキリストを中心に礼拝を行います。キリスト昇天の後、「助け手」として来られた聖霊による油注ぎが全てのキリスト者に臨み、キリストと一つにされるのです。この詩篇133篇のその礼拝の素晴らしさが旧約聖書の中で教えられている啓示のありたけを用いて表現されているのです。旧約時代、大祭司を中心にして礼拝は取り仕切られており、その大祭司の胸元にあしらった12部族を表す胸当てが髭を伝って大祭司アロンと一体となり、しかもそれは尊い油で、周囲にかぐわしい香りを放っていたのでした。

 匂いは記憶に直結します。この詩篇の作者ダビデも、第一読者もきっと、大祭司の任職式を思い浮かべて礼拝の幸いを思ったことでしょう。

また、「ヘルモン山の露」も温暖湿潤気候にすむ私たちには理解しがたいことかもしれませんが乾燥気候にすむ彼ら(読者にとっても著者にとっても)にとっては文字通り命の源の水であったのです。

 最後に、そのようやアロンの髭やヘルモンの露にたとえられる幸いな礼拝が、幸いである根拠は、ダビデの表現力や、私たちの理解力、私たちのモチベーションによらないとことであるとこの詩は宣言します。がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(3節)

私たちの礼拝が素晴らしいのは、主がここ、そこ、かしこに、もちろん、この大東キリストチャペルの礼拝も含めて公同の礼拝の中に、永遠の命を祝福として命じて下さっているからなのです。

あり得ないことでしょうか?にわかには信じられないことでしょうか?大きな大聖堂での礼拝ならいざ知らず、何千人も入るメガチャーチの礼拝ならいざ知らないけれども、こんなうらぶれた小さな教会で、こんなみすぼらしい少人数の礼拝に神が永遠を祝福として命じておられるなんて!

そのあり得ないことが命じられているのだとダビデはいうのです。実はイスラエルの地理を知れば3節はあり得ないことを詠っているのがわかります。ヘルモンの露はシオンの山には絶対に落ちないはずなのです。ヘルモン山はイスラエルの国土の北端に位置し、国の真ん中の都エルサレム近郊のシオンの丘とは全然水系が違います。ヘルモンの露はどこがどこにどのように流れてもシオンにはおりてこないのです。この詩は有りえないを歌っているのです。

そのあり得ないことが礼拝に関しては「そこ」でおきるのだ、神が命じておられるだとダビデは言います。

そこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

この詩は神の遍在をも詠っているのです。そして、主の命の祝福が命じられた礼拝に今日も兄弟姉妹が共に参加して、天国の前味を経験させて頂けることを感謝しましょう。

聖書が語る恵みは豊かです。僅か3節の詩篇でも多くの恵みを語ってくれます。

その恵みをともに味わいましょう。いや、たとえ、あなたが礼拝の素晴らしさを味わえる信仰の状態になくても、私が礼拝の素晴らしさを説き明かすほどメッセージがうまくなくても、なおも主はこの礼拝にそこにいのちの祝福を命じ、すばらしいと宣言されるのです。

イエスの名の礼拝

エル・グレコ作『イエスの名の礼拝』

 


2014年6月1日の予定

来週の日曜日6月1日(日)と、再来週8日(日)は、6月13日(金)から全国の映画館で映画『ノア~約束の舟』が公開されるのに合わせて、

映画公開直前企画、映画がもっと楽しくなる聖書が語る「ノアの大洪水(上・下)」

と題しましてメッセージを致します。

来週6月1日14:00~ 旧約聖書 創世記6章から「ノアの大洪水(上)」というタイトルで

再来週6月8日14:00~ 旧約聖書 創世記7章から「ノアの大洪水(下)」というタイトルで

それぞれ聖書から話が為されます。是非お越しください。

ノアの箱舟に乗り込む動物たちヤコボ・バッサーノ作「ノアの箱舟の乗り込む動物たち」

 


聖書の中のオリンピック(コリントⅠ9:24~27)2014年3月30日のメッセージから


本日の聖書テキストを見るとオリンピックを彷彿とさせるのではないでしょうか?パウロは信仰生活を歩むことを競技場で走ることや、拳闘(ボクシング)等のスポーツにたとえています。私たちも時節柄2014年ソチ冬季オリンピックで感動させられ、今日もその感動冷めやらぬうちに、そのブームに飲まれるように(?)メッセージをしています。普段から、メッセージの導入部分に冗長な例話をいれることに批判的な私が、最近の話題に流されてメッセージをすれば、『矛盾だ!』とお叱りを受けそうですが、今回ばかりはそうではないのです。

確かに、私が、聖書から意味を「読み取る」ときに私の表現力不足もあって「聖書の××は現代人が●●する時の感覚に似ています」といってたとえることはあります。

しかし、聴衆の心をつかむために、例話と称して聖書以外のわきの話をすることを嫌うのは、例話はたいてい聖書と時系列において数千年後もずれており、物理的な距離においても数千キロ離れた所の話をすることになるからです。そうすると、そのわきの話を聖書の話にあてはめるときにその「読み込み」が正しいかどうかが検証されなければならず、しかも読み込んだ話を、今度は聖書の文脈に沿って再び「読み取る」必要があって、その読み取り方、適用の仕方が正しいかを検証しなければならず、30~40分の間にその煩雑な作業をして、しかも聖書の真理を間違いなくする腕前は私にはないからなのです。

そんなメッセージはきっと「聴きやすい」し「分かりやすい」のかもしれませんが恣意的なものが入り込む余地が大きいのでどんなに感動的な話であっても「正しい」とはいえないし「聖書的」とはいえません。

そう言った訳で、時流に合わせた話はあまりしないのですが、今回ばかりは違うのです。オリンピックは紀元前776年まで遡ることができる、新約聖書よりもはるかに古く、旧約聖書の時代に一部が食い込むほどの古い歴史を持っています。そして、場所はヘロポネソス半島の西にあった都市国家エーリスであり、宗教的な儀式を伴うスポーツでした。日本の相撲はもともとは神事ですからそれに近いものがあるでしょう。 正確に4年に一回行われるのでギリシャ全土に通用する暦にも応用されたりしました。年を追うに連れ大会は拡大され、回数も開催場所も増え、以下の「4大大会」が催されるようになりました。

【1】オリュンピア大祭:開催地オリュンピュア 4年に1度開催 祭神:ゼウス。

【2】ネメアー大祭:開催地ネメアー 2年に1度開催 祭神:ゼウス。

【3】ピューティア大祭:開催地デルポイ4年に1度開催 祭神:アポロン。

【4】イストモス大祭:開催地イストモス(現・イストミア) 2年に1度開催 祭神:ポセイドン。

そして、この最後のイストモスは英語で「地峡」を意味します。そしてこのイストモスがあった地峡を「Isthmus of Corinth」(コリントス地峡)と言います。かつてはギリシャと縁もゆかりもなかったパウロがコリントに送った手紙の中でオリンピック競技に触れたのは、まさに宛先が古代オリンピックの開催地の一つだったからなのです。(そうです。パウロも時流におもねった話をしたのです。)コリントの町の郊外わずか数キロのところにこのイストモス競技場がありました。この聖書の中に出てくる競技場(スタディオン)は距離を表す単位でもあり、スタジアムの1周が約200メートルだったことに由来します。パウロのコリントの人達に少しでも自分の気持ちを分かってもらおうとしたのでしょう。

しかし、残念なことにこの聖句もまた、過去に教会が信徒に鞭打ち、ガンバリズムを惹起させるためにパウロの使った文脈から離れて誤用されてきました。特に9章27節の

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になることのないためです。

の部分です。私も例外ではありません。この御言葉を自分勝手に意味を読み込んで解釈し、自分よりも信仰の薄い(とみえる人達)のお尻にどれだけ鞭打って、教会に律法主義、ガンバリズムの嵐を吹き荒らしてきたか…私がその張本人でありました。

パウロの本当に言いたかったことは、9章の前段の文脈を読めば分かります。パウロは使徒としての権利を保持しているが、その権利を行使せずに留保しているというのです。そして、16節で「もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」とまで書いています。そして16節のこの一文、原文では言葉にすら成っていないのです。この部分を原文を直訳すれば

『もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はウェーだ。』

と書いてあるのです。「ウェー」ってなんやねん!って思わず突っ込みたくなりますが、その通り、ギリシャ語の辞書で「ウェー」を引いても意味は出てきません。意味のない感嘆詞です。(ね、無駄に導入で例話なんか入れて新しい意味を読み込んでいる暇なんかないのです(笑)むしろ、聖書の中のこのパウロが「ウェー」としか言いようがなかったこの言葉の意味を「読み取る」ことで私の場合は精一杯です。)

パウロが27節でいいたかったこと、それは「他者を鞭打ち、強制し、逆らえば失格者になるぞ」と脅しているのではなくて、「自分は福音を語る以外に何の益を生みださず、そうでなければ『ウェー』というよりほかどうしようも無いような者だと本気で思っている。そして、それくらいの心持ちで福音宣教していることをどうかコリントの兄弟姉妹よ分かってほしい。みんなに分かってもらえるなら諸君にとって身近なオリンピックのたとえを使ってでも諸君の理解を得たいと考えている。もし、読者諸君も僕の気持に同調し、少しでも宣教のために何かしらの自制をするなら、主イエスはそのわずかな自制であふれんばかりの恵みを携えて諸君に臨んでくれるはずだ。」

・・・そんなキリストの愛の深さとそれを伝えようとするパウロの情熱が詰まっているのが今日の御言葉なのです。

オリンピア

カール・ロットマン作『オリンピア』

 


2014年5月18日の予定

来週の日曜日5月18日の大東の集会は午前10:30~です。皆様お間違えのないようにお越しくださいませ。

聖書個所はマルコの福音書第5章25-34節で「十二年間も出血が止まらない女」というタイトルでメッセージが為されます。皆さまお誘い合わせのうえ、是非お越しください。

又、その日は、東花園キリストチャペルでも14:00~メッセージが行われます。出エジプト記 2:1~10 で「聖書に見る母の愛」です皆さま、こちらの方もお誘い合わせの上、ぜひお越しください。

病み上がりの画家の妻の肖像

フォード・マドックス・ブラウン作「病み上がりの画家の妻の肖像」


モルデカイの凱旋(エステル6:6~16)2014年3月16日のメッセージから

王は過去にモルデカイが国王暗殺を未然に防いだことを記録によって知ります。その褒賞がまだされていないことに気づいた国王はハマンに「最も栄誉を与えたい者にはどのように栄典を授けるべきか」を問います。ハマンはてっきり自分が栄典を受けると思い、王のマントをはおわせて、馬にまたらがせ、都じゅうを練り歩くことを提案します。後で栄典の対象が自分ではなくて、政敵モルデカイであることを聞いて仰天します。しかも、その栄典授与の手配を自分がしなければならないという屈辱を受けました。

次に、大臣ハマンはエステルから晩餐会の誘いを受けます。ここでも自分が特別待遇を受けるものだと思っていそいそと出かけますが、その晩餐会の席で王妃エステルが自身の親戚モルデカイと自身の出身民族であるユダヤ民族を大臣ハマンが謀略によって絶滅させようとしていることが暴露されます。

国王は怒り心頭でハマンの処刑を命じます。ハマンが将来モルデカイを磔刑にしようとして立てた木の柱に自分がつけられることによって…。

その後、警察権はモルデカイの元に移り、ユダヤ人を絶滅に追い込もうとしたハマンの出身部族アガグ人(アマレク人)が逆に駆逐されることになります。その昔、イスラエル王国のサウル王に神が聖絶を命じられて以来のユダヤ人の宿敵アマレク人がエステル記の時代に下ってその命令が達成されたのです。

エステル記は一文字も神という文字が使われていませんが、神の配剤がもっとも色濃く表されている巻の一つと言えます。聖書の中心メッセージは次のようなものです。

悪魔が人類の救い主イエス・キリストを謀略によって陥れ、全人類を滅ぼそうとし、また、そのことによって、神を欺いて自分が神から認められて栄光を受けようとしました。しかし、悪魔自身も思いを及ばなかった方法で、神の奥義によって、救いが成就されました。また、キリストに天上天下で最高の栄光が与えられ、逆に悪魔とそれにつき従う者たちは悪魔自身がキリストをつけようと企てた十字架に付けられて罪に定められ滅ぼされることになりました。それによって人類の堕罪以来の宿敵、サタンと罪が放逐され、神の民(キリスト者)は神の国で安住を得ることが約束されます。

それをエステル記はなぞるように展開します。

ハマンがユダヤ人のリーダーモルデカイを謀略によって陥れ、全ユダヤ人を滅ぼそうとし、また、そのことによって、ペルシャ王を欺いて自分が王から信認を受け最高の栄典を受けようとしました。しかし、ハマン自身も思いもよらなかった事態で、王の裁きによって、モルデカイとユダヤ人は救われました。また、モルデカイには国内最高の栄典が与えられ、逆にハマンとその出身部族アガグ人はハマン自身がモルデカイをつけようと企てた木の棒に付けられて罪と定められ、滅ぼされることになりました。それによって、往年のイスラエル王国建国以来の宿敵、アマレク人(アガグ人)はペルシャ帝国から駆逐され、ユダヤ人は帝国内で安住を約束されます。

このように、聖書の一部が聖書全体が伝えようとしている救済の業をつたえようとしていることを「予型論」とか「型」と、言います。聖書って奥深いですね。

モルデカイの凱旋

ジャン=フランソワ・ド・トロワ作『モルデカイの凱旋』(再掲)