6月15日の予定

来週の日曜日6月15日の大東の集会は第三日曜日ですので午前10:30~です。皆様お間違えのないようにお越しくださいませ。

聖書個所は第Ⅱサムエル記9章節で「メフィボシェテ~あなたも恵みに招かれている~」というタイトルでメッセージが為されます。皆さまお誘い合わせのうえ、是非お越しください。

又、その日は、東花園キリストチャペルでも14:00~メッセージが行われます。聖書個所と説教題は同じです。皆さま、こちらの方もお誘い合わせの上、ぜひお越しください。

七面鳥パイのある静物

ピーテル・クラース作「七面鳥パイのある静物」


プライドを傷つけられた時の救い(マタイ27:27~38)2014年4月13日のメッセージから

  • 肉体が傷つけられたこともキリストの受難なのですが・・・

今日のテキストは、まさにイエス様が鞭うたれ、十字架に付けられたその個所です。そして、この個所からキリストの血の滴る匂いのする説教を私は何度も聞いてきました。それは次のようなものでした。

この時打たれた鞭はローマ式の鞭だったと言われています。先端が分かれており、その先端には石やガラスやとがった骨などが結びつけられているのです。そして、一回背中に鞭を浴びれば、皮が裂けるだけでは済まず、石やガラスが背中の筋肉に食い込むのだそうです。イエス様の十字架をゴルゴダの丘に運ぶ時に、イエス様が途中でにないきれなくなったのは、それ以前にイエス様がその鞭打ち刑に何度も受けたからと推測できます。 また、十字架刑は人類史上もっとも残酷な刑罰の一つとされています。復活した後のイエス様が十字架上で受けた両手両足にうけた傷を「聖痕」といいます。そしてカトリックやギリシャ正教の聖画などでは俗に掌に描かれることが多いのですが、実際は手首に杭を打たれたそうです。なぜなら、掌に杭を打つと体重で掌が裂けて落ちてしまうので、手首にある骨の間にくぎを打ちつけたのです。大変肉体に苦痛の伴う刑罰ですが、実のところ十字架刑の直接の死因は呼吸困難だとされています。受刑者は腕に全体重がかかって筋が伸びきってしまいます。息をする時にわき腹の筋肉が動かなくなると横隔膜が動かせず、肺に空気を取り入れることが出来なくなって、最終的には窒息して死んでしまいます。流血による渇きや釘を打たれた所の痛みもありますが、死ぬまで呼吸をするために手を広げた状態で強制的に懸垂をさせ続ける刑罰なのです。 肉体の苦痛…イエス様の十字架上での苦しみを描いた映画や絵画ではその描写を事細かくします。

このような話を私も今まで主イエスの受けた御苦しみを出来るだけ伝えようとして、聴くだけでなく何度も私自身がしてきたのであります。

  • 聖書は主イエスの身体的苦痛に関心を持っていない?

しかし、聖書の本文には鞭打たれたことも、十字架に付けられたこともあっさりとしか書かれていません。一節にも満たない非常に短い文章です。四つの福音書とも一行足らずで簡潔に事実を述べています。でも、こうは思いませんか?

信者の、あるいは求道者の心に訴えかけたいのなら、ここでしょ!?イエス様の受けた痛々しい描写を細かく細かく描いて、この陰惨な情景を出来るだけリアリティーをもって人々にそ思い浮かべてもらえるようにし人々の感傷に訴えるべきだ。私が聖書記者ならそうするのになんでこんなあっさりしているのか?

この上記のような考えが血の滴る匂いのする説教をする遠因の一つなのでしょうが、なんと手前勝手なご都合主義なのでしょう。このような考えはやえもすると、主イエスの十字架の福音をまるで商品として売り込むための語り手側の、現代の教会側の傲慢とも思えてくるのです。私が今まで聞いてきた、そして私自身も数多く行って来た血の滴る匂いのする説教は、福音の中心である十字架でさえも、聖書に忠実であるよりも、伝えやすいように改変し、受け入れやすいように商品化されたものにしてしまってはいないでしょうか?いえ、聴き手だって教会に来て、神の言葉・聖書に忠実な福音よりも、少々聖書に不忠実でもわたしたちの心に訴えかけるエモーショナルな福音を求めているのかもしれません。

でも神様はそこに着目してもらいたくないのです。聖書によれば、父なる神は、御子キリストが十字架にかかっているその時、全地を暗くされ主イエスが苦しみに身悶えする姿をそれ以上、人々にお見せにならなかったのですから・・・。

私は何も十字架や復活が無かったとも、事実ではないとも申し上げたい訳ではありません。聖書に描かれている以上絶対にあったと確信しております。冒頭申し上げた血の滴る匂いのする説教の内容は2000年前に事実としてありました。しかし、事実だ事実だという方ほど聖書にかかれた事実を超えて、自分が信じたい十字架像を自分が語りたい十字架像を語ろうとしていることに危機を覚えるのです。神が隠されたものをこじ開け、覗き込み、神の意図を超えて見ようとすること、また他者に見せて関心を引こうとすることこそ、不忠実ではないでしょうか?私はただただ聖書の文脈に従って、神が目を注ぐように示されたところを見るようになりたいと願うのです。

  • 聖書が語るキリストの受難

マタイの福音書の語る福音とは、キリストは王としてこの世に来られたことを中心に語ります。そして、そのマタイの福音書が語るキリストの受難は肉体の苦痛ではありません。この世のまことの王となるべきるお方が、王服と王冠と王勺を持たされてそれによって、それによって侮辱される姿や、ユダヤ人の王と謳われながら、それを逆手にとって侮辱をされる姿を事細かく書かれています。マタイは肉体的な苦痛を描くよりも、「キリストこそ王である、その王であるお方の尊厳を奪うような侮辱をわれわれ人間はキリストに浴びせたのだ」という視点で福音書を進めています。それはイエス様が肉体的な苦痛を受けなかったという訳ではありません。もちろん肉体的苦痛も受けましたが、人間的な感傷に訴えるのではなくて、聖書記者がみた文脈にそって読むことこそがそのこと以上に重要なのです。

いや、もっといえばマタイ自身がそうしたのです。聖書記者マタイは直接イエス様の十字架を見たのでしょうか?ペテロとヨハネは刑場に赴いて主イエスが十字架にかかる姿を目撃しました。しかし、マタイをはじめとする残りの弟子たちは主イエスが捕縛された際に蜘蛛の子を散らすように逃げたではありませんか?で、あるならば、このマタイの福音書の記された十字架はマタイが自分の二つの眼で見た事実ではなくて、全てのことが終わった後に神様からマタイが教えられた十字架なのです。マタイもまた聖書を読んで聖書から教えられたキリストを聖書の文脈に沿って、神様の文脈に従って読者である私たちに伝えようとしているのです。

そして、お時間のある方は是非、詩篇22篇と併せ読んでみてください。マタイは明らかに旧約聖書詩篇22篇の視点からこのマタイの福音書27章を書いています。私たちの関心は、

  • 鞭うちの描写、
  • 釘打たれる描写
  • キリストの受けた肉体の傷

なのかもしれませんが、マタイが描く受難は(マタイの関心事は)

  • キリストが浴びせられた悪口
  • 十字架の下で行われたキリストの来ていた下着の刑吏がくじ引きしたこと
  • 十字架上でキリストが発せられた言葉
  • 口にされたぶどう酒の味…

キリストの受難…それは肉体的苦痛もさることながら、本来なら神の子、この世を統べられる王である方なのにその礼遇を受けずに侮辱されることの方が遥かに大きく、耐えられない苦痛、赦されない罪なのです。正直なところ下賤な私たちには、宇宙でもっとも高貴な方であるキリストが貶められるその苦しみはどうやったって理解しきれないところがあります。しかし、聖書は、その分かりにくいかもしれないがその御苦しみに着目し、鈍い私たちに『その部分を知れ』というのです。王なる神に仇するよりも、王なる神を王として礼遇しないことの方が大罪なのです。

  • それでも赦す神

されど、もう一言付言致しましょう。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。(マタイ12:31)

たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10)

  イエス様ご自身がかつておっしゃった言葉です。実は以上述べた堪えざる、赦されざる、イエス様に加えられた肉体的苦痛以上の精神的苦痛、侮辱の数々も、「神の前に赦される罪である」と主は宣言されるのです。ただ一つ、その「赦しを受け入れなさい」と呼びかける聖霊からの召命に呼応しないで拒み続けることを除いては…。イエス様ほどプライドを傷つけられた方はいません。だからこそ、主イエスはプライドが傷つけられて、どうしても人を赦すことができないあなたの気持ちが痛いほどわかるのです。だからこそ、このキリストに人を赦せない気持ちを吐露する時、このキリストに悩みを打ち明ける時、このキリストに委ね切った時あなたは赦され、また人を赦すことができるのです。

マタイがマタイ伝27章で十字架の描写と照らし合せたあの詩篇22篇は後半から詩の様相が一変します。それは徹底した晴々とした神賛美であります。キリストにお委ねし、キリストに赦され、人を赦すことが出来るようになった人の晴々とした神賛美であります。

感傷に訴えずとも、聖書を超えて事実を描写しようとせずとも、聖書の文脈に沿って聖書を説き明かそうとするのなら御言葉は人の意図を超えて、なお人の心に迫ってくるのです。(了)

黄色いキリストのある自画像ゴーギャン作『黄色いキリストのある自画像』

※ちょっとした蘊蓄・・・ゴーギャンによる本作は美術史における「総合主義」と呼ばれるものの一つの金字塔とされています。総合主義というのは写実主義に対するアンチテーゼです。門外漢である私なりの理解ですが噛み砕いて言えば、事実を事実として出来るだけリアルに描写することが美術作品として素晴らしいのであれば、写真が一番正確に事実を捉えている訳ですから、画家がわざわざキャンバスに描く意味がないわけですよね。そう言う意味でリアリティーを事実を忠実に絵の中に再現しようとする写実主義を嫌います。総合主義は絵としてキャンバスに表現する際に

  1. 描こうとしている客体そのもの
  2. その客体を画家自身がどうとらえているか
  3. その客体を描く上で美的センスとしてどこにその客体を配し、配色するかを技巧的に決めること

以上3つ総合しなければ絵を描く意味がないって考えるのが総合主義なんです。これって今回の話にもつながることで十字架や復活は事実なんですが、キリストをこの世に遣わした神様の意図を超えて、あるいあは聖書の文脈を超えて、その十字架のファクトを事細かく描きだそうとすることはどうにも人間の傲慢に思えてしかたがないのです。このゴーギャンの黄色いキリストが力強く迫ってくるのは、絵の作者ゴーギャンに迫ってきたことを正直にキャンバスに落とし込んだわけで、ある意味事実以上に事実だからなのであり、私たちも神様が伝えようとしている十字架に忠実でありたいと願うのです。