2014年8月3日の予定

来週の日曜日8月3日の大東の集会は午前10:30~です。(8月から第3日曜日に加えて、第1日曜日も午前礼拝をすることになりました。お間違いのないようによろしくお願いします。)

申命記32章1~18節 から主なる神様は私たちを抱いて守られる」
というタイトルでメッセージがなされます。

皆さまお誘い合わせのうえ、是非お越しください。

また、8月から教会事務所の電話番号が変更になりました。072-396-2687
こちらにつきましても、皆さまお電話のおかけ間違いのないようよろしくお願いいたします。

ロバート・ホーカー・ドーリング作「ネボ山でのモーセ」

ロバート・ホーカー・ドーリング作「ネボ山でのモーセ」


ベレヤの人々(使徒17:10~12)2014年5月4日のメッセージから

使徒の働き17章にはパウロが3か所(テサロニケ、ベレヤ、アテネ)で伝道し、聴衆からそれぞれ異なった反応を受けたことが記されています。そして、この伝道方法が私が会社勤めをしていたころの営業方法と似ているのです。勿論、福音宣教は聖霊がお働きにならなければ一人として回心に導けませんし、進むことはないでしょう。しかし、神の次元において完全に聖霊により頼むことを理解するのならば、人の次元においては「宣教の愚かさ」を通じて行われる100%人の業であることも確かであり、その人の業の上にも神の配剤があることを信じなければなりません。

私が勤めていた会社の営業方法は2種類ありました。1つは自社でセミナーを行うことです。それによって、セミナー参加者に営業をかけることができます。母数は少ないですが、受注確立は高く、またセミナー受講者は商品の担当者であることが多いので最初から突っ込んだやり取りができます。もうひとつは、大きな会場で行われる合同の商品展示会にブースを設けて商品カタログを置く方法です。大きな展示会ですから沢山の人に営業をかけることが出来ますが、直接当社の商品に興味を持っている人が来ているわけでもなく「下手な鉄砲も…」になりがちです。パウロはテサロニケやベレヤで伝道した時は戦略的にユダヤ教徒(イースターの時にお話した、カミ・ツミ・スクイの構造を理解している人達)の会堂に行って伝道しました。ここでは、ユダヤ教徒の信じるメシヤ(救世主)がナザレのイエスであったことを聖書から論証するので、最初から突っ込んだ議論をすることができました。一方でアテネではユダヤ教徒ではない人を対象に(その代わり町の人々が沢山集まる広場で)伝道しました。パウロはここでは専ら入口であるカミの説明に時間を先、救い主に関してはとうとうイエス様の名前すら出さずじまいでした。

さて、ベレヤの人々はテサロニケに人達よりも素直で熱心に聖書を調べた結果、パウロの説教を真実として受け入れイエス様を信じたことが書かれています。これは大変すごいことなのです。私たちクリスチャンにとって復活は当たり前のことかもしれませんが、それは新約聖書と後代の教会の主張によるところが大きいのです。実は復活って旧約聖書だけで論証しようとするとかなり難しいのです。実際、旧約聖書には復活の記事などわずかしか書かれていません(ダニエル12:2等)し、高名なユダヤ教の学者でも復活を信じていない人がいました(サドカイは派は復活を信じず、パリサイ派は復活を信じていた)。旧約聖書に直接言及されていないイエス様をどうしてベレヤの人々は信じることができたのでしょう。

旧約聖書から分かることは次のようなことです。

1、人間は元来永遠に生きる存在だったが、罪のために死ぬようになった。(創世記2章)

2、どんな小さな罪の解決であっても命の代償が必要である。(創世記、カインへの宣告 ヘブル9:18~22 他)

3、罪から救いの為にダビデの家系から王・祭司・預言者としてメシヤが生まれる。(第二サムエル8章他)

4、メシヤによる救いの到来の後は私たちは死なない、もしくは生き返る…。(イザヤ書56章以降 他)

メシヤ自身が生贄として苦しみを受けて死に、かつメシヤ自身は罪がないから死に打ち勝って生き返って下さる…はず。そして、その通りの人生を歩まれたのはナザレのイエスを置いて他にいない。これがベレヤの人達の出した結論でありました。私たちも聖書を学び、救いを他の人に論証出来るようになりたいものです。

ピエロ・デラ・フランチェスカ作「キリストの復活」

ピエロ・デラ・フランチェスカ作「キリストの復活」


2014年7月27日の予定

来週の日曜日7月27日の大東の集会は午後2:00~です。

阿倍野キリスト集会の老松秀夫さんをお招きしてヨハネの福音書21章1~17節 から

「イエス様との食卓の交わりの中で」というタイトルでメッセージをして頂きます。

皆さまお誘い合わせのうえ、是非お越しください。

ピーテル・パウル・ルーベンス

ピーテル・パウル・ルーベンス作『奇跡の漁り』


十字架降架(マタイ27:45~56)2014年4月27日のメッセージから

ルーベンスの名作、十字架降架です。フランダースの犬の主人公ネロが『この絵を見ることさえできれば自分は死んでも構わない』とまで言わしめたものです。

実際にあり得ない身体の屈曲、中心のキリストへの強い光、インパクトを与えて荘厳さを伝えようとしています。バロック様式の代表作でもあります。聖画はルーベンスが作成した当時、言葉の通じない外国人に福音を伝えるための重要な「伝道用のツール」でしたので、聖書に著された正確さよりも、インパクトを重視に描かれました。
(つまり、人間的なテクニックで人の心情に訴えてイエス様を信じさせようとするために、イエス様のからだをわざと「歪ませている」訳です。)

一方、聖書に描かれた主イエスキリストの死はあまりにもあっさりとしています。第一、イエス様が十字架にかかって時正午ごろから全地が暗くなり、降ろす時も暗くて様子があまり見えなかったはずです。第一マタイをはじめ、弟子たちの多くは主イエスを守ることを放棄して、逃げたのですから、マタイ伝に描かれた十字架の場面は肝心のマタイ本人は直接見ていない可能性すらあります。しかし、このマタイ伝にだけは本日のテキストにあるように、イエス様の死の後に、地震がおこり、岩が裂けるなどの超常現象がおこり、さらには幾人かの聖徒が復活しエルサレムを闊歩したことが描かれています。

そして、神殿の幕が真っ二つに裂かれ、信仰によって救われるという全く新しい時代の到来を周りに起こった出来事を通じて知らせます。さらには、マタイは異邦人であるローマの百人隊長の口を通じて、キリストは神の子であることを告白させます。ルーベンスとマタイを十字架の伝え方は明らかに違います(そもそも聖書とそれ以外の絵画等を比べるまでもありませんが)。

マタイ伝のキリストの福音の伝え方は、死そのものは劇画的な物ではなく淡々としており、しかし、罪のない神の御子が死んでよみがえるということが示す意味内容自体は天地がひっくり返るほどの大きな意味を持っていることをその強烈なコントラストをもって伝えようとします。「イエスの受難~十字架~復活」までの間のマタイを含む弟子たちの恥ずかしいまでの無能ぶりを赤裸々に語っていることを通じて真実性を浮かびからせる影の役目を持っているのです。

主イエスは淡々と御父なる神から授かった使命を果たされた。私たち弟子はその瞬間、全くの体たらくとしか言いようがない状態で何もなしえなかった。しかし、確かに成就した。神の側から一方的に成就して下さった。異邦人であるローマ兵をも神の子と告白し、信じる者はみな死から甦るというその福音が、神殿の幕が裂けたように新しい時代が確かに「幕開け」したのである・・・。

キリスト降架

ルーベンス作『十字架降架』


為政者のための祈り(Ⅰテモテ2:1~7)2014年7月6日のメッセージから

1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
7そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。

 

  • 1、序論

世の中の教会では「社会派」と呼ばれて、社会問題を重視する教会があります。最も社会問題に御執心になり過ぎて、キリストの福音がおろそかになってはもとも子もないのですが・・・。昨今政治の世界では安全保障に対する問題で左右両派の対立が先鋭化しているように思います。ですから人によっては、なんでこんな時のメッセージが「為政者のための祈り」なのかといわれる人もいらっしゃるかと存じます。しかし、わたしは敢えて申し上げましょう。こんな時だからこそ「為政者のための祈り」なのだと・・・。私にだって現政権について特定の政見を持っていますし、兄弟姉妹の中にも色々なご意見がおありでしょう。ですから初めに皆さんに断っておきます。私はここで政治談議をするつもりはありません。そして、支持、不支持を披歴したり、特定の政治信条を強要したり、リードしたりしようとも思ってはいません。イエス様の弟子「十二使徒」の中にも、ユダヤ人にとって売国奴であるローマ帝国に魂を売った「取税人」マタイもいましたし、逆にユダヤ独立を訴える民族主義者、「熱心党員」シモンもいたのですから・・・

福音は特定の人のものではありませんし、パウロも本日の聖書テキストの中で「すべての人のために」と断っています・・・。

  •  2、更新センターでの出来事

で、パウロはこのわずか7節の中に「全て」という言葉を4回も使っています。この段落、為政者のための祈りを理解するためには、この「すべての人」とは何を指すのかについて考えなければなりません。

先日、私は運転免許の更新期限が近付いてきたので、大阪の門真にある免許更新センターに行って参りました。以前にも申し上げましたが、私は街に出ると、ホント、人に道をたずねられたりすることが多いんですね。それで、この免許更新センターに行った時も同様でありました。いきなり

「カジェ、ドウカキマスカ?カジェ、ドウカキマスカ?」

と、男性に聞かれたんです。 一瞬何事かと思いましたが、片言の日本語でのやり取りを要約すると次のようなことでした。つまり、彼は中国人で自分の名前に風という漢字を使う。しかし、中国では簡体字といった略字を正字としているので、風という漢字も「几」の中に「メ」を書くだけで日本とは別の漢字になってしまう。そして、日本語の「風」という字をど忘れしてしまったがために、免許を交付してもらうにも自分の名前が書けなくて申請出来なくなってしまった。更新センターの職員は毎日、何千人と免許の更新や再交付に来る人に追われて、そういうイレギュラーな事象には対応してくれない。自分の名前が書けないというなんとも情けない事態になって途方に暮れていたところに(親切そうな?)私が通りかかってきたので「風という漢字は日本で用いられている漢字でどのように書きますか?」と聞いてきたというわけなんです。

幸いにして私は大学時代、アルファベットから逃げるために第二外国語で中国語を選択していたこともあり、彼に「風」という字を教えて差し上げることができました。

生まれて初めて漢字発祥の国、中国人に漢字を教えてあげるという貴重な体験をしたわけですが、運転免許の更新手続き中、順番待ちでセンターにやってくる人を眺めていたのですが、本当に外国人(特に中国人)が増えていることに気がつきました。

そして、こうした場所に出てくるときに初めて体感外国人と実外国人の割合の違いに驚かされるのです。外国人労働者というのは言葉の問題もあるので、あまり接客業にはつきません。(それでも最近は夜中の牛丼チェーンやコンビニに行けば外国人の店員を見かけるようになりましたが・・・)とはいえ、例えば、コンビニ弁当も深夜に工場で中国人労働者が盛り付けしてくれています。日本経済は外国人労働者によって回っているのに、私たちはそのことに余り気づきません。実体のグローバル化と体感のローカル化というのは近年ますます顕著になっていると思うのです。

インターネットの世界もそうです。フェイスブック、ツィッター、ライン、グーグルプラス…私たちは一瞬にして地球の裏側の人とも交流できるようになりました。しかし、実際それはどのようにつかわれているでしょうか、同じ宗教、同じ性別、同じ世代、同じ国籍…、気心知れた同質の人達と交わることが心地よいがために、言葉を交わして交流する人々同質化というのが益々顕著になっていはしないでしょうか?

私もこういう立場上、一日中、クリスチャンとしか、会話しないなんて日が一週間に一日くらいあります。クリスチャン人口1%以下のこの国でそれは大変特異なことです。

皆さんも、職場、学校、地域の集まり…同質の人達としか話さないということが多くなってはいないでしょうか?

冒頭お話した、安全保障をめぐる左右の政治対立の激化はネットの世界で益々顕著です。それぞれがそれぞれの世界の中で互いに意見が同じであることを確かめあって、考え方の違う人達との対話がほとんどなされない。

世界中の色々な人達と交われるためのツールが、逆に考え方の同じくする人達の寄り合いとなっている…。そんな気がするのです。

 

  • (3)違う考えを持つ者との接触点

パウロは今日のテキストの中で特定の人のためではなくて、考え方の違う人達を含めたすべての人達のために祈れと勧めるのです。

じゃあ、今から安倍首相のために祈りましょうか?いや、私たちは、聖書のみを基準とした群で有りますから、そのような世のことについて教会で祈ることはしませんし、教会の中で為政者のために祈るとう考え方自体、私たちのそれまでの考え方とは違う異質なものの気がします。

他の教会では、Ⅰテモテ2章の為政者の祈りはどのように捉えられているのでしょうか?

私は、今日の聖書メッセージを作るにあたって、この聖書個所からメッセージをしている聖書ギリシャ語辞典を作ったギリシャ語の大家、故O氏のメッセージテープを聴く機会がありました。O氏がこの聖句をもとに、ギリシャ正教の礼拝の典礼文の中に為政者のために祈る一節があることを紹介されていました。

また、大阪聖書学院の大先輩、卒業後、アメリカに留学し米国監督派教会に通っていたK氏に問い合わせてみましたら、アメリカの監督派教会の祈祷書の中にも為政者のために祈りをささげる一節があるそうです。

改革派教会ではウェストミンスター信仰告白の中で為政者のために祈ることについて教えられています。

また、歴史的にもピリピ4:3に言及されているあのクレメンスが紀元95年に書いたとされるクレメンスのコリントへの手紙の中で為政者のために祈る祈り方についての言及があります。

ですから、やはり為政者のために安倍晋三首相の祈るべきなのでありましょう。

 

  • (4)私たちは何を根拠に信仰生活を実践すべきでしょうか?

こんなこと言いだしたら違和感を覚えますか?それならそれで結構です。といいますのも、

パウロは私はウソは言いませんと7節で言っていますが、彼は使徒であり、聖書記者でありますから、彼を導いた聖霊と、聖霊によって書かれた聖書には誤りはありません。しかしながら、私は罪ある、一キリスト者に過ぎず、私は聖書を読み誤り、解釈し間違えることがあるのです。ですから、毎度毎度口酸っぱく申し上げていますが

 私のいうことは一切信じないでください。

「講壇で語られたから・・・」、「私がいったから」といって、私に対する信頼感などというあやふやなものを根拠に、自分の人生を預けてはいけません。人間的な好(よしみ)などで私が講壇で述べる言説に対する賛否など決めないでください。

あなたが、私の言説に違和感を持とうが持つまいが、私の言説を根拠に信じる信じないを決めないで頂きたいのです。ただ、逆も真なりであります。

第一に聖書の釈義的に明示されていることであり、
第二に歴史的にも初代教会から聖書に従ってその実践が踏襲し続けていることであり、
第三に他教派も含めて教理的に信仰の先達が正しいと認めていることであるのに
…にです。にも拘わらず、その内容がたまたま虫の好かない私の口から出たという一事を以て、従わないというあなたは一体どういう了見でその決断をしたのでしょうか?また、自分の信仰生活の中ではそのようなことを実践したことがないので、違和感を覚えるというその一点で釈義的、歴史的、教理的な証拠を全て覆して「我が道を行く」と宣言されるあなたは、一体なんの霊に導かれてのことなのでしょうか?

 

  • (5)教理をどれほどの根拠として位置付けるか?

全世界的に昨今、教理が軽視されています。2000年間の教会の歴史の中で現代ほど教理が蔑にされてきたことはないのではないでしょうか?

誤解のないように申し上げておきますが、私は、伝統主義者ではありません。事実、教会会議の中で政治的要因で釈義的に歴史的にも誤った教理が教理としてまかり通ってしまったことは多々あります。しかしながら、私が、あるいはあなたが聖書を読んで感じたフィーリングや経験則と教理とが同列に扱われることは決してないはずなのです。

 

例えば、あなたが「聖書は信じるが●●という教理には同意しません」と告白したとします。確かに聖書は誤りがありませんが、教理は人が聖書を読んだ結果整理したものですから、間違いを含みうる訳です。ですから同意できないということはあり得ます。しかしながら、あなたが、あなたがある教理を同意しないと告白した瞬間、歴史上、その教理を教理であると宣言した数多くの教会指導者が間違っていたと宣言することになります。ギリシャ語やヘブル語の原典に遡って聖書を探求しその教理の策定に関わってきた聖書学者の全ての解釈が間違っていたと宣言することになります。ラテン語に精通して霊性豊かな過去の教会の先輩がどのような解釈をしたのかを精査してきた教会史家たちもみな歴史を読み間違えたと宣言することになります。また、祈りによってその教会会議が守られるように支え続けた執事たちの祈りも足らなかったと宣言することになりますし、そして、その教理を教理として現代まで受け入れてきた何千万人というクリスチャンたちはみな、聖霊の導きを読み誤ったのだと豪語することになります。

そこまで、断言できちゃう、あなたはさぞかし恐ろしく聖書を精通し、素晴らしい洞察力があり、日々祈りに精進し聖霊の導きを絶対に読み誤らない高い霊性をお持ちなんでしょうね。

ってことになってしまいます。ここまでいったら少々嫌みにすぎるでしょうか?

 

  • (6)「違和感」の正体

いや、ですから教理は絶対ではありませんが、正統的な教理を受け入れられないという場合、それは、往々にしてそう言う人の聖書の読み方に何かしら偏りがあったり、信仰生活の上で何かしらの障害があってそれが教理に対する歪みを生じさせていたり、長年属しておられた教会の指導者の歴史的批判的検証を受けない独自解釈のオンパレードだったりしていた結果だったりするのです。

私たちのこの集会も単立の新約聖書的な群だと自負していますが、例えばこの為政者の為の祈り欠如してしまっているのは、2000年間の教会の歴史の内、実はこの最後の200年の間におこった単なる英国教会への反発や、国家よりも先に教会が成立していたアメリカという極めて特殊な社会の影響をうけた、非聖書的な誤った伝統主義の結果だといえるのです。

だから、パウロが聖書の中で為政者のために祈るように言っているのに、その聖書通りにしようと呼びかけられた時、違和感を覚えるのです。(正直なところ、呼びかけている私自身、呼びかけながら違和感を感じています。ご心配なく…(笑))。その違和感はどこからきているのでしょうか、聖書に反するからでもなく、歴史に反するからでもなく、教理に反するからでもなく、単に自分が今まで教会生活の中で教えられてこなかった、経験したことが無かったというだけなのです。そして、根拠のない違和感は克服されなければなりません。さて、何を以て「聖書的」とし私たちの信仰生活の根拠をどこにおくかということに関してはこの辺にして、聖書のテキストに戻りましょう。

 

  • (7)為政者のためにどのように祈るべきか?

では、どのように為政者のために祈るべきなのでしょうか?世の中には「御用学者」、「御用組合」といって権力に迎合する組織がありますが、教会も「御用教会」になればいいのでしょうか?何分今まで私たちが学んできたことではないので、どのように祈ればいいか、皆目見当がつかないですよね。

先にご紹介したO氏のメッセージのテープは今から30年前のもので、そのテープの中で1数年前のギリシャ留学の時の話をされていました。そしてO氏がギリシャ留学中に実はギリシャで革命がおきて王政が廃止されたのです。そうすると、礼拝の中でそれまでコンスタンティノス2世国王のために祈られていたのに、いつしか革命後の制憲議会のために祈り始めたというのです。

また、K氏にも聞いてみると、アメリカの監督派教会では大統領選挙のたびに政権が交代するけれども、その政権が神の御心を行うように祈るのだそうです。

また、先述のクレメンスもコリント教会に「為政者のための祈り」の祈り方を次のように勧めています。

以下引用

地上にあって我らを支配する 君主たちや総督たちに

「主よ、あなたは偉大なる言い表しがたいお力をもって、彼らに王者の支配権をお委ねになりました。それは、あなたがお与えになった、栄光と栄誉を私たちが知って服するため、私たちがあなたの御意思に逆らうことのないためでございます。

主よ、願わくばこの人たちに、健康と平和と一致と安定とを与え、あなたが与えたもうた当地の権を誤ることなく果たすこと得しめて下さい

(中略)

主よ、彼らの思いとはかりごとを導いて、御前に受け入れられる正しい方向に向けしめ

あなたから授けられた権威を平和と謙虚をもって畏れかしこんで遂行し、あなたの憐れみに与らさせて下さい。

引用終わり

これら、三つの事象に共通することは、決して為政者のシンパになれだとか、与党になれとか、ましてや御用教会になるために祈れといっているのでは絶対にないことであります。いや、御用教会になりたくても成れませんでした。この第一テモテと言えば紀元60年頃でしょう。暴君ネロの時代です。

私は時間がある時は聖書メッセージのタイトルと聖書個所をホームページに載せ、挿絵として絵画を載せます。今日のメッセージに合わせて載せた絵画の題は「ネロのたいまつ」であります。ネロのたいまつとは何か?このネロはキリスト教を迫害し、クリスチャンにコールタールを塗って木に縛り付け松明代わりにして処刑したという大変残虐な暴君でありました。パウロはこの暴君ネロのために祈れと言ったのです。クレメンスがこの手紙を書いた紀元95年ごろもローマ帝国によるキリスト教の弾圧が苛烈を極めたころでした。

 

ヘンリク・シェミラツキ作 『ネロのたいまつ』

ヘンリク・シェミラツキ作 『ネロのたいまつ』

こんな時代、普通なら教会はなお一層、世と隔絶するではないですか?私たちの集会でも社会問題を教会の中で語ろうものなら、「それは世のことだから」といってアンタッチャブルにしておくのが得策のような言い方されますよね。私、冒頭でありとあらゆる政治信条に誘導するつもりはないともうしあげましたが、これだけは断言しておきます。社会問題に無関心を装ったり、ノンポリであることだけは間違いです。それだけは、このパウロの祈りに反します。聖書に反します。これだけは断言できます。

  • (8)パウロが語る世界観

何故、そうまでして断言できるのか?それは、世と隔絶し無関係を装うのは聖書の世界観に反するからです。パウロはどういう世界観をもってこの第一テモテ2章で為政者のための祈りを語ったのでしょうか?また、その世界観を共有してきたクレメンスを始め、初代教会から連綿と続く先輩兄弟たちはどのような世界観を共有してきたのでしょうか?

聖書は聖書から解釈されなければなりません。そのヒントとしてご紹介したいのが預言者ハバククの祈りです。めったに引かれない個所ですし、今すぐハバクク書を開けといってもおそらく開けない人も沢山いらっしゃるでしょうから(笑)、概要だけかいつまんでお話します。

まあ、ハバククは今風の言葉に直せば右翼なんです。民族主義者なんです。そして神の民神の国である選ばれしユダ王国がバビロンによって滅ぼされるというのがどうにも納得できないので彼は神様に不平不満を言います。すると、神様は答えます。「神の民といっても神に逆らい神の前に罪を行ったのでバビロンによって滅ぼされるのだ」と。しかし、ハバククはなおも神様に食い下がります。「罪を犯したといってもユダはまかりなりにも『聖書の民』ではないですか?それに比べてバビロンは全くの異邦人で彼らの方が神の前に罪が大きいはずなのに、彼らの罪は不問にされるのですか?」と。すると神様は再度答えます。「勘違いするな!バビロンとて神の手の内にあり、バビロンの罪をも神の知らないところではない。わたしはバビロンも後に滅ぼす別の勢力を起こして、その帳尻をきっちりあわさせる!」

…どうですか、みなさん。これが聖書の世界観ですよ。スケールでかいですよね。どこぞの批評家が旧約聖書はユダヤ人の民族宗教だといっていた方がいましたが、これ見りゃ大間違いなのわかりますよね。一見私たちの「外」の世界に見える部分ですら私たちの主の神の摂理の「内」にある…。というのが聖書の語る世界観、パウロが語る世界観なんです。私たちは果たしてこの聖書の壮大な世界観をどこまで共有しているでしょうか?

「教会だけが神様の支配領域で、教会から一歩でも「外」に足を踏み出せばそれは悪の世で、世は空中の支配者たる悪魔の支配領域である」という錯覚を持っていませんか?

実は教会に比して圧倒的な力を持っているように見えるこの世も、実は神様の支配領域でサタンは一時的にその存在を許されているに過ぎないのです。この世界の主権は神にあり、いずれは王の王であるキリストによって治められるべきであり、この世の君が誰であろうとも彼らも本来ならキリストに頭を垂れるべき「中間管理職」にすぎないのです。そして、神に直結している教会こそが、そこに属するクリスチャンこそが本来の意味でのこの世のトップランナーなのです。これは、概念上の話ではなくて、キリスト者が何をするにおいてもリアルなこととして認識すべきことですので、5節では実際に「人としてのキリスト」と2本の足でこの地上を歩まれた実際のキリストにウェイトを置いています。ですから、「社会問題は教会と関係のない『世』のことだから・・・」といって関心を持たず、為政者のために祈らないというのはむしろ教会としての職務放棄にあたるのです。この世の本当の主権者が現在においてもキリストであられることを認めないことになってしまうのです。これは聖書の語る世界観と大きく乖離します。これだけは頂けません。

この世と対立する訳でもなくこの世と迎合する訳でもなく、はたまたこの世と隔絶せる訳でもなく、私たちが仰ぎ見る主を、まだ主を知らない全ての人が仰ぎ見るように率先垂範する…それが教会に課せられた役目なのです。その世界観を初代教会のクレメンスは勿論のこと、ギリシャ正教もローマカトリックも、聖公会も改革派教会も持っています。果たして私たちはその壮大や役目を保持しえているでしょうか?それでも、私たちは「聖書的」だと、いえるでしょうか?みなさん一度真剣に考えてみてください。

 

(9)パウロがいう全て

さて、パウロがいう全ての人のためにというとき、それはある意図を持って発していると考えられます。

例えばリンカーン大統領の有名なゲティスバークの演説

Government of the people, by the people, for the people・・・(人民の人民による人民のための政治)は敢えてシチズンという言葉を使わずにpeopleというフレーズを使いました。シチズン、国民と言えばそれは南北戦争直後でありますから南部のアメリカ連合国を含まないことになってしまいます。リンカーンが南北戦争の文脈でpeopleという時、それは(北部の人間だけでなく、南部の人間をも含めたすべての「人民の」)という意味が込められているのです。

 

同様に、聖書の中でパウロが「すべての人」という時には(それは特にローマ書2章で顕著ですが・・・)ユダヤ人とギリシャ人をはじめとする異邦人の区別なく「すべての人」という意味で彼は全ての人ということばを使います。そしてその際に彼がいつも話題にしているのは救いの範囲であり、この為政者の為のいのりというのは社会問題の解決が最終目標なのではなく、実は教会の最も重要な役目の一つ福音宣教の為の祈りなのです。

4節にはっきりと書いてあります。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
ね?これでも、社会問題や世のことだからと片づけられましょうか?これでもなお、為政者の為に祈ることが聖書的にあらずといえましょうか?非難を恐れず私はここに宣言致しましょう。為政者の祈りこそ救いの為の祈り、福音宣教の為の祈りであると…。

それでも、それでも、「とてもじゃないけど、現政権のために祈れない」ですって?いえ、それをいうならこの聖書を書いたパウロの方がもっと祈れなかったはずです。クレメンスの方がもっと祈れなかったはずです。だって彼らは愛する兄弟姉妹が為政者によって火刑にされたり、生きたままライオンに食べさせられたり、拷問によって不具者にされたりしたのですから…。どういう頭の構造しているのか分からない。どういう神経をしてたらそのような残虐なことができるのか?でも、何を考えているか分からない、あんな奴クリスチャンになるとは俄かに思えないという人をも含む、全ての人のためにキリストは救いを成し遂げて下さったのではないですか?だから、ステパノを殺すことに賛成してしまったパウロも救われたのではないですか?

冒頭、免許の更新センターのお話をしましたよね。人は同じ考え方、同じ習慣の人の方が楽なのでその人だけで固まろうとしてしまうと…しかし、運転免許は試験を合格さえすれば、性別の別なく、所得の別なく、出身地の別なく取得出来るんでしょう。運転免許と救いの門戸どちらが広いのですか?

パウロが自らの迫害する為政者の救いの為に祈ったのに、私たちの了見はなんと狭いことでしょう。主の成し遂げた救いを、パウロが伝えようとした全ての人の救いを何と狭くしてしまっているのでしょう。この祈りが勧められているのは私たちが救いの広さを認識し、私たちのてでキリストの福音を狭めないために私たちにとっても必要な祈りなのです。

また、為政者のためにとりなすことによって、教会が存続し私たちが平安に暮らすことが、この世の救いの為にとっても重要なことのです。それほどまでに、この神の紡ぎ合わせし歴史世界において教会が如何に大切な地位を占めさせて頂いているかを示す証左でもあるのです。

祈りましょう。隣人のために、祈りましょう隣人の隣にいる私たちと考え方の合わないその人のために、祈りましょう為政者のために、主は彼らをも救おうとして救いを成就してくださったのだから。