使徒の働きにはパウロの説教がいくつか載せられていますが、そのほとんどは未信者を対象として伝道説教であり、クリスチャンを対象としたメッセージとしてはこのミレトの説教がほとんど唯一の記録です。
今日、私はこの後すぐ、沖縄に出張しなければなりません。急いでいるのです(笑)。そして、この使徒17章でのパウロも急いでいました。エペソの町にも港があり今日の舞台ミレトから僅か数十キロの距離でしたから寄港することも出来ました。しかし、その数十キロの距離を短縮するためにミレトに直航し、そこから陸路使いを送ってエペソの長老たちをミレト呼び寄せました。それほどまでに彼はエルサレムへの道を急いでいました。まるで自分が行かなければ神の福音宣教に支障をきたすかの如くです。そして説教の中では彼らに人事を尽くすようにも言っています。しかし、福音宣教は聖霊によってなされることも合わせて宣言し、パウロは26節では、「人がうける(神からの血の)さばきについて自分には一切の責任はない」といっています。これは一体どういうことなのでしょうか?人間の領分、人間の責任とは一体どこまでをさすのでしょうか?そして、それは神様の領分とどう対応しているのでしょうか?
人の救いについて、「人間は一切何もしなくてよい」という考えや、「神様と人との共同作業だ」という考え等、パウロの(つまり聖書の)考え勘違いしている人がいますが、皆さん大丈夫ですか、前者も後者も間違いなんですよ。
いや、本当に心して聞いて頂きたいのです。場数を踏んできた伝道者でも聖書の救いを「神様と人との共同作業だ」と勘違いしたまま、何十年も間違った枠組みの中で聖書の救いを信じ込んでしまって、そのように各地の教会でうそぶいてしまうことがありうるのです。他人事と思わず、2000年前の出来事だと思わずに、危機感をもって聞いて頂きたいのです。これは、「神人協力説」という立派な異端なのです。キリスト教がアウグスティヌス以来1500年以上戦って来た、キリストの福音に毒を混ぜる行為なのですが、本気でそう信じてしまっている方がいらっしゃるのです。ほんの少し、そうほんの少し、神の福音を伝えるにあたって、「自らが私的解釈をし得る、神様の前に小さく愚かしい者である」という謙虚な思いがほんの少しでも持って頂けていたらと願わんばかりです。そして過去の先達が異端とどのように戦ったのかを学んでいただけたらと願うのです。そして、歴史上の異端とは誰にでもわかるような悪魔に取りつかれた人で・は・な・いのです。伝道、牧会の現場の中で、「少しでも神様のお役に立とう」と思うがあまり、分かりにくい聖書の教理よりも現状を優先させてしまった人なのです。そして、本人も気づかないうちに、聖書を独自に解釈してしまった人々なのです。異端とは「神を愛する人」なのです。ただしその愛は偏愛であり、神はその愛を愛とはおみとめにならないでしょうけれども・・・。異端の人で自分を異端だと自覚している人はいません。自覚できるならその時点でその人の信仰は既に正統といえるでしょう。
イメージがつきにくいようでしたら、例え話として仮に伝道者Xというのを想定してみましょう。
救いは100%神様の専決事項です。その決定において人が関与できるところは一切ありません。100%神様の恵みです。その根拠になる聖句はごまんとあります。したがって、救いが神様と人との共同作業であるかのような言説は明確に否定されなければなりません。しかし、神を愛する伝道者Xはそこではたと考えるのです。それでは、「人間は一切何もしなくてよい」ということになってしまわないだろうか?そして、それでは、だれも教会で奉仕する人間がおこされないのではないだろうか?そうなっては困るので、共同作業だということにし置いた方が方便として、教会形成のために弟子訓練のために都合がいいのではないだろうか?そして、その結果、皆が奮起して福音宣教してくれれば神様も喜ばれるのではないだろうか?
おわかり頂けましたでしょうか?この瞬間異端が生まれたのです。これが異端の生まれるメカニズムなのです。この瞬間、伝道者Xは異端となったのです。Xは神様に喜ばれたいと願ってはいました。その限りにおいて動機は素晴らしいといえるでしょう。しかし、彼は聖書の御言葉よりも、自分の中の理屈(人間の生み出した神学といっもいいでしょう)を優先したのです。上の文の下線部は一切聖書のことばではなく、伝道者Xの自分なりに編み出した独自の神学、理屈なのです。体系的に教理を学ぶことを避け続けた結果の人間由来の経験則です。教理を学ぼうとしない人は、「神学なんて人間が作ったものでそんなものまなばなくていい」と豪語する人がいます。しかし、敢えていいましょう、神学を持たないクリスチャンなんてひとりもいないのです。そして、自分は聖書に則していると思い込んでいても、きっと自分の気づかないところで自己流の下線部のような自分勝手な神学を打ち立てているはずなのです。「教理を学ぶことは神様を愛することではない」と壮語する人もいます。しかし、「自分勝手な教理を打ち立てて、聖書によらず偏愛することが神様を愛することではない」ともいえるのではないでしょうか?パウロはエペソの信徒に体系的に学んでもらう必要があると感じ、将来の教会指導者たちに、伝道をストップさせてでも3年間涙ながらに教えてきたことを思い出してほしいと言っている31節のことばをお察し下さい。
先の下線部に対する聖書の答えを申し上げておきましょう。
救いの決定において神と人間との共同作業を否定することは直ちに、「人間になにもしなくてもいい」と言っていることにはなりません。救いに関与することをニンジンにしてぶら下げずとも、聖霊に導かれて教会で奉仕する人は起こされます。語る人がいなければ石ころからでも神様は福音を語らしめるのです。人が救いの決定に関与できずとも、運命論にならず、奉仕に従事することを促すことは、一見すれば伝えにくいことに見えますが、聞く相手もクリスチャンであれば霊的理解力が与えられ聖霊によって正しい理解に導かれます。自らの救いの教理に対する勉強不足、理解不足を責任転嫁して、人間に理解しやすいように神の救いの枠組みを勝手に組み替えることの方が恐ろしいことであり、そんなことをしても神様は喜ばれないのです。
「甘過ぎる」とおしかりをうけそうです。確かに甘いように思います。しかし、これは教会のムードの寛厳の問題にだけでは済まされないのです。仮にまじめなクリスチャンからすれば「甘過ぎる」ようにうつる新約聖書の福音を語ってその結果誰かがその甘過ぎる対応につまずき教会を離れたとしましょう。しかし、その責任は神様が負って下さいます。パウロと同じように「人がうける(神からの血の)さばきについて自分には一切の責任はない」といえるでしょう。なぜなら、神様が書かれた聖書のとおりに福音をまっすぐに語ったのですから…その責任は神様にあります。
しかし、人間の側の方便で神人協力説を教会内に持ち込んでその結果、教会内に「ガンバリズム」や「律法主義」がはびこって、主が「わたしの羊」とおっしゃったキリスト者がひとりでも教会を離れたなら、その責任はその教会とその教会指導者ににあります。しかし、その責任を負える人間などこの世に一人もいないのです。それこそ畏れ多いことではないでしょうか?
非常に悲しいことであり詳細は伏せますが、正統的な信仰をもった宣教師・伝道者が別の宣教師・伝道者の「神人協力説」を諌めたがばっかりに逆に相手がたから「人間は一切何もしなくてよい」と唱えている異端だと攻撃されるということが私たちの身近な所でもありました。さらに、周りにいた兄弟姉妹も教理を学んでいないがために、正統的な信仰をもった伝道者を群から追い出してしまうという事例が本当にありうるのです。教理を学べば、教勢が一気に伸びると言うものではありません。しかし、教理上の無知は悲しい結果を引き起こします。教理が万能とは申しませんが、私たちの群の悲しい出来事の8割は教理を学んでいれば未然に防げた出来事なのです。皆さんには本当に教理を学んで頂きたい。今日の聖書個所20:30で
あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
といっています。ここでいう「あなたがた」とはだれのことでしょうか?エペソの教会の長老たちを相手にパウロは忠告しているのです。そうです。長老が異端的な言説をいうのです。「長老だから絶対に間違わない」などとは聖書は教えていないのです!
さて、冒頭お話した、神様の領分と人の領分の範囲についてヒントとなる個所を御紹介します。
詩篇50篇には生贄に関連して人が神様から責められるくだりがあります。しかし生贄について責めているのではありません。どうもこの人はささげる生贄に関して「神に捧げなければいけない領分」と「人間の自由にできる領分」の2つがあると勘違いしていたようなのです。この人は、神にささげるべき領分さえ守っていれば、あとは神様にとやかく言われないと思っていたのでしょう。そこにはどれだけ奉げても感謝がありません。しかし、この詩の中で神は「人が神にささげた以外の家畜に関しても、また、野生のいきものにしても神の領分である」と主張されます。私たちはどうしても、「神の領分」と「人の領分」というふうに分けて考えてしまいがちですが、実は「人の領分」も神の支配下にあります。もっといえばこの世界に神のものでない物などないわけです。神にささげずに自分で差配する分もまた神のものなのです。この感覚をもって、自分に与えられた収入、時間、余暇、労働を差配しているでしょうか?そして、この感覚がない限りはどれだけ時間を教会奉仕に費やしても律法主義に陥ってしまいます。そして、献金に関しても、什一どころか、仮に99%奉げたとしても、この感覚がない限りは奉げなかった1%は自分の好き勝手に使いたいって思いの裏返しになってしまいます。それは、自分より奉げている人へのやっかみ、自分より奉げていない人への裁きへとつながってしまいうるのです。そして、先の救いに関する教理についての100%神様の専決事項であるにも関わらず、人が福音宣教の奉仕に従事することはこの感覚をもてば矛盾することなく理解し得るのです。
パウロはメッセージの最後「受けるよりも与える方が幸いだ」といって結びます。これは四福音書のどこにも記載されていない主イエスのことばです。少なくとも私たちが救われたのは耳学問ではなく、この主イエスのモットーに感化されインスパイアされた人達の奉仕によって私たちも感化され救いに導かれたのは確かなことです。