異端のメカニズム~ミレトの説教(使徒20:17~38)2014年8月10日のメッセージから

使徒の働きにはパウロの説教がいくつか載せられていますが、そのほとんどは未信者を対象として伝道説教であり、クリスチャンを対象としたメッセージとしてはこのミレトの説教がほとんど唯一の記録です。

今日、私はこの後すぐ、沖縄に出張しなければなりません。急いでいるのです(笑)。そして、この使徒17章でのパウロも急いでいました。エペソの町にも港があり今日の舞台ミレトから僅か数十キロの距離でしたから寄港することも出来ました。しかし、その数十キロの距離を短縮するためにミレトに直航し、そこから陸路使いを送ってエペソの長老たちをミレト呼び寄せました。それほどまでに彼はエルサレムへの道を急いでいました。まるで自分が行かなければ神の福音宣教に支障をきたすかの如くです。そして説教の中では彼らに人事を尽くすようにも言っています。しかし、福音宣教は聖霊によってなされることも合わせて宣言し、パウロは26節では、「人がうける(神からの血の)さばきについて自分には一切の責任はない」といっています。これは一体どういうことなのでしょうか?人間の領分、人間の責任とは一体どこまでをさすのでしょうか?そして、それは神様の領分とどう対応しているのでしょうか?

人の救いについて、「人間は一切何もしなくてよい」という考えや、「神様と人との共同作業だ」という考え等、パウロの(つまり聖書の)考え勘違いしている人がいますが、皆さん大丈夫ですか、前者も後者も間違いなんですよ。

いや、本当に心して聞いて頂きたいのです。場数を踏んできた伝道者でも聖書の救いを「神様と人との共同作業だ」と勘違いしたまま、何十年も間違った枠組みの中で聖書の救いを信じ込んでしまって、そのように各地の教会でうそぶいてしまうことがありうるのです。他人事と思わず、2000年前の出来事だと思わずに、危機感をもって聞いて頂きたいのです。これは、「神人協力説」という立派な異端なのです。キリスト教がアウグスティヌス以来1500年以上戦って来た、キリストの福音に毒を混ぜる行為なのですが、本気でそう信じてしまっている方がいらっしゃるのです。ほんの少し、そうほんの少し、神の福音を伝えるにあたって、「自らが私的解釈をし得る、神様の前に小さく愚かしい者である」という謙虚な思いがほんの少しでも持って頂けていたらと願わんばかりです。そして過去の先達が異端とどのように戦ったのかを学んでいただけたらと願うのです。そして、歴史上の異端とは誰にでもわかるような悪魔に取りつかれた人で・は・な・いのです。伝道、牧会の現場の中で、「少しでも神様のお役に立とう」と思うがあまり、分かりにくい聖書の教理よりも現状を優先させてしまった人なのです。そして、本人も気づかないうちに、聖書を独自に解釈してしまった人々なのです。異端とは「神を愛する人」なのです。ただしその愛は偏愛であり、神はその愛を愛とはおみとめにならないでしょうけれども・・・。異端の人で自分を異端だと自覚している人はいません。自覚できるならその時点でその人の信仰は既に正統といえるでしょう。

イメージがつきにくいようでしたら、例え話として仮に伝道者Xというのを想定してみましょう。

救いは100%神様の専決事項です。その決定において人が関与できるところは一切ありません。100%神様の恵みです。その根拠になる聖句はごまんとあります。したがって、救いが神様と人との共同作業であるかのような言説は明確に否定されなければなりません。しかし、神を愛する伝道者Xはそこではたと考えるのです。それでは、「人間は一切何もしなくてよい」ということになってしまわないだろうか?そして、それでは、だれも教会で奉仕する人間がおこされないのではないだろうか?そうなっては困るので、共同作業だということにし置いた方が方便として、教会形成のために弟子訓練のために都合がいいのではないだろうか?そして、その結果、皆が奮起して福音宣教してくれれば神様も喜ばれるのではないだろうか?

おわかり頂けましたでしょうか?この瞬間異端が生まれたのです。これが異端の生まれるメカニズムなのです。この瞬間、伝道者Xは異端となったのです。Xは神様に喜ばれたいと願ってはいました。その限りにおいて動機は素晴らしいといえるでしょう。しかし、彼は聖書の御言葉よりも、自分の中の理屈(人間の生み出した神学といっもいいでしょう)を優先したのです。上の文の下線部は一切聖書のことばではなく、伝道者Xの自分なりに編み出した独自の神学、理屈なのです。体系的に教理を学ぶことを避け続けた結果の人間由来の経験則です。教理を学ぼうとしない人は、「神学なんて人間が作ったものでそんなものまなばなくていい」と豪語する人がいます。しかし、敢えていいましょう、神学を持たないクリスチャンなんてひとりもいないのです。そして、自分は聖書に則していると思い込んでいても、きっと自分の気づかないところで自己流の下線部のような自分勝手な神学を打ち立てているはずなのです。「教理を学ぶことは神様を愛することではない」と壮語する人もいます。しかし、「自分勝手な教理を打ち立てて、聖書によらず偏愛することが神様を愛することではない」ともいえるのではないでしょうか?パウロはエペソの信徒に体系的に学んでもらう必要があると感じ、将来の教会指導者たちに、伝道をストップさせてでも3年間涙ながらに教えてきたことを思い出してほしいと言っている31節のことばをお察し下さい。

先の下線部に対する聖書の答えを申し上げておきましょう。

救いの決定において神と人間との共同作業を否定することは直ちに、「人間になにもしなくてもいい」と言っていることにはなりません。救いに関与することをニンジンにしてぶら下げずとも、聖霊に導かれて教会で奉仕する人は起こされます。語る人がいなければ石ころからでも神様は福音を語らしめるのです。人が救いの決定に関与できずとも、運命論にならず、奉仕に従事することを促すことは、一見すれば伝えにくいことに見えますが、聞く相手もクリスチャンであれば霊的理解力が与えられ聖霊によって正しい理解に導かれます。自らの救いの教理に対する勉強不足、理解不足を責任転嫁して、人間に理解しやすいように神の救いの枠組みを勝手に組み替えることの方が恐ろしいことであり、そんなことをしても神様は喜ばれないのです。

「甘過ぎる」とおしかりをうけそうです。確かに甘いように思います。しかし、これは教会のムードの寛厳の問題にだけでは済まされないのです。仮にまじめなクリスチャンからすれば「甘過ぎる」ようにうつる新約聖書の福音を語ってその結果誰かがその甘過ぎる対応につまずき教会を離れたとしましょう。しかし、その責任は神様が負って下さいます。パウロと同じように「人がうける(神からの血の)さばきについて自分には一切の責任はない」といえるでしょう。なぜなら、神様が書かれた聖書のとおりに福音をまっすぐに語ったのですから…その責任は神様にあります。

しかし、人間の側の方便で神人協力説を教会内に持ち込んでその結果、教会内に「ガンバリズム」や「律法主義」がはびこって、主が「わたしの羊」とおっしゃったキリスト者がひとりでも教会を離れたなら、その責任はその教会とその教会指導者ににあります。しかし、その責任を負える人間などこの世に一人もいないのです。それこそ畏れ多いことではないでしょうか?

非常に悲しいことであり詳細は伏せますが、正統的な信仰をもった宣教師・伝道者が別の宣教師・伝道者の「神人協力説」を諌めたがばっかりに逆に相手がたから「人間は一切何もしなくてよい」と唱えている異端だと攻撃されるということが私たちの身近な所でもありました。さらに、周りにいた兄弟姉妹も教理を学んでいないがために、正統的な信仰をもった伝道者を群から追い出してしまうという事例が本当にありうるのです。教理を学べば、教勢が一気に伸びると言うものではありません。しかし、教理上の無知は悲しい結果を引き起こします。教理が万能とは申しませんが、私たちの群の悲しい出来事の8割は教理を学んでいれば未然に防げた出来事なのです。皆さんには本当に教理を学んで頂きたい。今日の聖書個所20:30で

あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。

といっています。ここでいう「あなたがた」とはだれのことでしょうか?エペソの教会の長老たちを相手にパウロは忠告しているのです。そうです。長老が異端的な言説をいうのです。「長老だから絶対に間違わない」などとは聖書は教えていないのです!

さて、冒頭お話した、神様の領分と人の領分の範囲についてヒントとなる個所を御紹介します。

詩篇50篇には生贄に関連して人が神様から責められるくだりがあります。しかし生贄について責めているのではありません。どうもこの人はささげる生贄に関して「神に捧げなければいけない領分」と「人間の自由にできる領分」の2つがあると勘違いしていたようなのです。この人は、神にささげるべき領分さえ守っていれば、あとは神様にとやかく言われないと思っていたのでしょう。そこにはどれだけ奉げても感謝がありません。しかし、この詩の中で神は「人が神にささげた以外の家畜に関しても、また、野生のいきものにしても神の領分である」と主張されます。私たちはどうしても、「神の領分」と「人の領分」というふうに分けて考えてしまいがちですが、実は「人の領分」も神の支配下にあります。もっといえばこの世界に神のものでない物などないわけです。神にささげずに自分で差配する分もまた神のものなのです。この感覚をもって、自分に与えられた収入、時間、余暇、労働を差配しているでしょうか?そして、この感覚がない限りはどれだけ時間を教会奉仕に費やしても律法主義に陥ってしまいます。そして、献金に関しても、什一どころか、仮に99%奉げたとしても、この感覚がない限りは奉げなかった1%は自分の好き勝手に使いたいって思いの裏返しになってしまいます。それは、自分より奉げている人へのやっかみ、自分より奉げていない人への裁きへとつながってしまいうるのです。そして、先の救いに関する教理についての100%神様の専決事項であるにも関わらず、人が福音宣教の奉仕に従事することはこの感覚をもてば矛盾することなく理解し得るのです。

パウロはメッセージの最後「受けるよりも与える方が幸いだ」といって結びます。これは四福音書のどこにも記載されていない主イエスのことばです。少なくとも私たちが救われたのは耳学問ではなく、この主イエスのモットーに感化されインスパイアされた人達の奉仕によって私たちも感化され救いに導かれたのは確かなことです。

ユスターシュ・ルシュール作「聖パウロのエペソでの説教」

ユスターシュ・ルシュール作          「聖パウロのエペソでの説教」

 


2014年12月28日の予定

来週の日曜日12月28日の大東の集会は午後2:00~です。今年最後の主日礼拝です。皆様お間違えのないようにお越しくださいませ。

聖書個所はマタイの福音書2章13~23節「クリスマスの後の絶望と希望」というタイトルでメッセージが為されます。皆さまお誘い合わせのうえ、是非お越しください。

下の絵はベツレヘムの幼児虐殺の絵です。実は、せっかく主イエス・キリストがうまれたのにそのクリスマスを快く思わなかった輩がいるのです。今度の日曜日はそのお話がなされます。

皆さんもないですか?「神様がいるのならどうしてこんな不幸なことが起きるのか?」その疑問にお答えします。

フランソワ・ジョセフ・ナヴィス作「幼児虐殺」

フランソワ・ジョセフ・ナヴィス作「幼児虐殺」


主は私たちを抱いて守られる(申命記32章)2014年8月3日のメッセージから

ヱホバこれを荒野の地に見、これに獣の吼る曠野に遇ひ、環(めぐ)りかこみて之をいたはり眼の珠のごとくにこれを護りたまへり。(申32:10)

この申命記32章は私の子どもの名前の由来になったところでもあります。元来名前は親の子に対する「こうあって欲しい」という願いや期待が託されているものです。その辺の期待の大きさが最近の「キラキラネーム」と呼ばれるオリジナリティーあふれる名前が増えてきている傾向の原因なのかもしれません。子どもの名前の由来をメッセージに反映させるのはどれだけ親ばかかとご批判ありそうですが、聖書の世界の名付けはどのようになっているのでしょうか?エリシャ(神は救いである)。エリヤ(主こそ神である)、ゼカリヤ(主は覚えて下さる)、ゼパニヤ(主は隠される)、ヨシュア(主は救い)、ヒゼキヤ(主は力)。そう、聖書の人名は、枚挙にいとまがないくらい、
「名前が付けられた本人がどうあってほしいか?」よりも
「名前を付けられた本人に対して主がどのように臨まれるか?」
が名前になっていることが多いのです。聖書は名付けにおいても神中心なのです。実は私の二人の子供は二人とも後者の「主がどのように臨まれるか?」
を期待した名前であり、名前を付けられた子供自身の能力を期待したものではないのです。親というのは命の源である神様から子供を育てるように委託をうけただけでありますから…もちろんその限りにおいて責任を負うのでありますけれども、子供以上に子供に臨まれる神様に期待しているのです。本日のテキスト申命記32章は「モーセの歌」と呼ばています。荒野を超え約束の地に入るイスラエル人に神様がどのようなお方を覚え続けるために、死を前にしたモーセが一曲、民にプレゼントした歌です。そしてこの歌には神様が(特に聖霊が)積極的、能動的にに働いて守り、抱き、世話をして、めぐり囲んでくださることが詠われています。更に歌を聞いてみますと、「エシュルン」という名前が出てきます。ヤーシャル(真っ直ぐな)という言葉から派生したイスラエルのあだ名です。先ほどイスラエル名付けは神中心と申し上げましたけども、やはり名付けられた本人がどのようなものかという名前が少なからず存在します。エシュルンも「正直で、真っ直ぐな者」という名前です。(日本風にいえばナオトとかタダシになるのでしょうか?)しかし、さらに詳しく歌を見てみるとエシュルンは実際は実直なものではなく、神を裏切る不誠実な者であることが露見されます。

15 エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。

とあります、そして神様自身もエシュルン(イスラエル)に対して次のような評価をくだしています。

20 主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。

それでもこの神は誠実らしからぬエシュルンを名前負けしないで名前通りの実直、正直な者、エシュルンにしてくださるのも神様なのです。仮に今名前負けしてしまっている方がいたとしても、そのあなたに聖霊が臨んでくださり名前通りの存在にすると神はおっしゃるのです。

感謝なことではありませんか。たとえば私の名前はノゾムといいます。おそらく両親は私に「神様にいつも望みを置く人間になるように」と願ってつけてくれたのでしょう。しかし実際の私はどうでしょうか?ちょっとでも艱難があれば、私は失望し、神に愚痴をいい、周りに絶望感を漂わしてしまう名前負けした弱い人間なのです。しかし、そんな私にも神は臨んで下さり、揺るがない将来への希望を見せて下さるのです。

余りにも受動的にすぎると仰る方がいるやもしれませんが私はそうは思いません。英語で「You  can  take  a  horse  to  the  water, but  you  can’t  make  him  drink.(馬を水飲み場に連れていくことまではできても、馬に無理やり水を飲ませることまではできない)」ということわざがあります。これは教会にもあてはめることができるでしょう。無理強いをして教会に人を連れていくことができても、その人を回心させることができません。また、人に「清くなれ」「信仰熱心になれ」といっても相手が自由意思に基づいてそうなろうとしなければ周りが矯正してなるものではないのです。今、教会に集う子どもたちが、親に対して従順な態度をみせていても、そこ子たちは心の中では本当は「アッカンベー」しているかもしれませんよ(笑)。

いや、もっとも恐ろしいのは、パリサイ人のように心底から、義務感でしなければならないと考えてその使命感で信仰深い行いをする人間を培養してしまうことです。そのような人間の行動の原動力は、神様に対する義務感、罪責感だけですから、行いのない人に対しての受容はなく、ひたすら人を裁き、教会に数十年間に渡って律法主義の嵐をもたらすことでしょう。

「多く許された者は多く愛する」と言った主の言葉は真実です。不信仰にも関わらず主に多くを助けられた者はそれを知った時、多くの人を助けるでしょう。また、不信仰にも関わらず主に多くを世話された者はそれを知った時多くの人を世話する者と変えられるでしょう。私たちが信心深い歩みをする前に、その行いをするかしないかでもめていた時、いや、それ以前に、それに先行して十字架と御言葉の恵みを施してくださった方こそ、我が主、わが神なのですから。

アレクサンドル・カバネル作『モーセの死』

アレクサンドル・カバネル作『モーセの死』


信仰の先達からの箴言(箴言3:1~12)2014年7月20日のメッセージから

箴言は全体が信仰の先達や父(著者)が、弟子や子ども(読者)に信仰の具体的な実践(適応)を語るような構成になっています。ですから、3:1で「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。」となっているのです。ここで「おしえ」とあるのは「トーラー」であり、直接的にはモーセ五書を指します。それは間違いなく聖書の教えです。そして、この箴言の教えは他の65巻の聖書の教えにたがわぬものですし、箴言自身も聖書でありますから、「私の教え」と言うよりは「神の教え」、「聖書の教え」に従えと言った方が「プロテスタント」のわたしたちにとっては聞こえがいいし、権威があるように思えます。しかし、箴言は読者に「我が子よ」と語りかけ、「(著者である)私の教えに聞き従え」というのです。これは一体どうしてでしょうか?

私たちは他の教派のように人間的な組織をつくらない群であり聖書に従う群であると自負しています。また、教皇や教団の監督のような存在を認めてきませんでした。なぜなら、彼らの人間的な教えが聖書の教えと同列には扱われるものではありませんし、歴史上、彼らの人間的なアクの強さが教会の教えに影響を与えてきたからです。しかし、そうした人間的な組織の権威を組織を排して、形式上単立教会にすればすぐさまそれがイコール「純粋で聖書的な教会」ということができるでしょうか。私たちのような単立の群は果たしてただただ聖書的で純粋な教会になれたのでしょうか?私が申し上げるまでもなく、答えは「否」であります。

結局、小さな単立教会の場合は通常の教団教派以上に、その教会の設立に携わった宣教師・教会指導者が「お山の大将」として、あるいは「小さな教皇」としてその単立教会に君臨しつづけ、少なくない逸脱を産むこともを私たちはあまたに見てきました。いいえ、それだけではありません。宣教師・教会指導者の死後もなお彼らの遺訓が「亡霊」として聖書の教え以上にその教会を支配することを私たち自身が経験してきたのです。それは語り手である宣教師や日本人伝道者だけの責任ではありません。むしろ私たち聞き手である一人ひとりが、「精緻な聖書釈義に基づく妥当な指針」よりも、「霊性の素晴らしそうにみえるクリスチャンの背中、生き様」を求めたのです。そして後者の「偶像」に倣うことを求めたのです。

ただ、その私たちの弱さは全否定されるべきことでしょうか?新約聖書のパウロ書簡でさえパウロの人間的な灰汁の強さが出ています。そして、パウロはいわいる太鼓持ちのような「パウロ派」を非難しつつも、「わたしの倣う者となりなさい」(Ⅰコリ4:16)といっています。

奇跡でもなく、テレパシーでもなく、福音は人間の愚かな口を通して人から人に伝わってきました。それが神様の手法でもあるのです。だからこそ箴言はいうのです。わたしの教えに従えと…。本当は純粋に聖書の教えを体現した信仰者がいるのならその人間のいうことは神の教えに従うことと違わないはずなです。(そんな人間は主イエスをおいて他に絶対に存在しませんが・・・)

果たして私たちはこの後の「心を尽くして主により頼む」ことと「おのれの悟り」の違いをわきまえているでしょうか…結局、「神様のためと思って尽くしやってる」つもりが教会の中で褒められたいと思う自分の功名心であったり、逆に「おのれの悟り」に頼らないでおこうとすることが、単に人事を尽くしていないことや、臆病風の言い訳であったりしないでしょうか?

実は個別具体的な行動においては(無用な罪や誘惑をさけるのは勿論ですが)必ず祝福されるセオリーもハウトゥーもないのです。人生においてまるで○×ゲームのように祝福される選択肢を選ぶことに腐心するよりも、どんな正しい結論を神の前に出したという自負があったとしても、むしろ自分が間違いが多くて欠けの多いものであることを認め、満点とは言えない結論した導き出せない自分がどの状況下に置かれても、主を認めることこそが「正しい結論」なのです。

フランシスコ・デ・ゴヤ作「サン・イシードロの巡礼」

フランシスコ・デ・ゴヤ作「サン・イシードロの巡礼」


信仰とは関係のない話(コリント13章全節)2014年7月13日のメッセージから

コリント第一の手紙13章と言えば「愛の賛歌」と言われ、結婚式で良く読まれる聖句です。しかし、この個所は12章からの続きであって、もともと愛の賛歌として独立したものではありませんでした。

コリントの教会では、異言をはじめとする能力がある者が尊ばれ、みな、その能力、才能があるもの順に教会の中でみんなが「珍重」していたのです。

現代教会でもありえますよね。歌がうまい。ピアノが弾ける、ホームページが作れる。字が上手い。沢山献金できる。そんな人が信仰とは別に教会の中で重用されそれなりの地位を占めていく・・・。(現代で芸能人を意味するタレントは「芸」ができる。「能」があるという意味で使われますが、もとはギリシャ語で賜物を表します。また、当時のお金の単位でもっとも大きい「タラント」も同じ語源からきています。大きなお金は多くの物を買い、多くの工夫をやとい、たくさんのことをすることができますから・・・)

パウロはその能力主義、行動主義を諌めます。仮にその能力があったとしても、「その能力すら神様からの賜物(タラント)ではないのか?」と・・・

だから、何かをする、何かが出来るというのではなくて、神の賜物を求めよ。とパウロはいいます。

そして、全ての賜物も愛がなければ無意味であるといいます。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

という4節からのくだりは、実は「愛の賛歌」ではないのです。(結婚式でこの聖句が読まれているのを聞いて感動されていた方ゴメンナサイ。)本当は、愛のないコリント教会の現状を憂いてわざとその裏返しを述べたものだったのです。パウロの本心は12章からの文脈に沿えば次のようになります。

本来なら愛は寛容なんだけど、コリント教会の中にその寛容さがあるか?非寛容そのものじゃないか!本来の愛は親切を伴っているものだけとコリント教会はどうだ?才能がなくて、教会に益をもたらさない者には不親切極まりないじゃないか?愛から行動しているのなら自分より才能ある人を素直に喜べるはずじゃないか、なのになんで、教会の中で嫉妬深くやきもちをやいたり、自分の賜物を少しでも大きく見せようとして自慢したりするのさ・・・

これ以上はやめておきます(笑)。語っている私自身、余りにも胸をグサグサと突き刺してくるので…

おわかり頂けましたか、結婚式で詠み習わされていた「愛の賛歌」は、コリント教会の現状を憂いた彼の皮肉、究極の「哀歌(エレジー)」なのです。結局のところ、神様の前に何かが出来る、何かをしたといって誇れるものはなく、いつまでも残る物は信仰、希望、愛しかないのだと聖書はいいます。そう、この愛の賛歌にタイトルをつけるのなら、「能力主義は信仰とは全く関係のない話だ」宣言 なのです。

先日、私が奉仕する聖書学校で、デスエデュケーション(死の準備教育)というものが行われました。そして次のようなシミュレーションを行う模擬授業が行われました。

自分が癌などの徐々に進行してくる病気によって余命数カ月で亡くなっていくことを想定し、何が自分にとって大切な物かを取捨選択していくというものです。授業では、
「大切な人」、
「大切なアクティビティ」、
「大切な思想信条」、
「大切なモノ」
を予め何枚かカードに書いておいて、死期が迫る中で「会える人」、「持てる時間」、「できること」が限られていく際、優先順位を定め、大切なものの取捨選択をするシミュレーションをしました。私は家族で参加したのですが、信仰が最後まで残る一方でactivityとしての礼拝を早めに見切りをつけざるえなくなることに自分でも驚きを感じました。動けなくなるとメッセージもできないし、教会にもこれなくなるし、最後には聖書すら読めなくなるのです。

やはり、最後まで残るのは信仰、希望、愛しかないのです。そして、それら以外に多くのものを備えて下さって日々を保持して下さっている神様に感謝しましょう。そして、能力主義、成果主義がはびこるこの世の中でせめて教会内では信仰、希望、愛だけを唯一の尺度にして教会運営につとめようではありませんか。

フランシスコ・デ・ゴヤ作「結婚式」

フランシスコ・デ・ゴヤ作「結婚式」