アブラハムの決断( 創世記12:1~2)2014年8月17日のメッセージから

人は見たいものしか見ません。先日の映画、ノアの方舟に対する反響に関しても、ノアの洪水物語に見たいものを見ようとする傾向があります。そして、この映画の監督は「聖書を文字通り信じる」といっている保守派こそが聖書の中に見たいものを見ようとしているそのことを嘲っているかのように私は感じました。映画のノアはノアを通してアブラハムをはじめとする旧約聖書の物語を語っています。

アブラハムはよく「信仰の父」と呼ばれていますが、私たちはいつしか彼が「立派な人間」で「立派な信仰」を持っていたから選ばれたような錯誤を犯してはいないでしょうか。アブラハムの父は聖書の神を信じていたわけでもなく、強大な部族だったわけでもありませんでした。神様にカナンに赴くように導かれたものの、その神様に示された約束の地に留まるでもなく、生活のため(飢饉のため)にエジプトにくだります。結果、エジプトで家族が命の危機に瀕したとき、アブラハムは自らの保身のために、守るべき妻を妹と偽ってその場を収めようとするな男です。その美人局まがいの行為を見かねた神様が、事態を収拾し、それどころか出来事を通じてアブラハムに豊かな財産を与えます。が、今度はその財産を御しきれず、甥との争いも積極的に解決することもできません。神の約束を信じ続けることができず、妻から女奴隷との間に子供をもうけるように甘言を受けてもそれを制しきれません。逆にそれに従い、その結果家庭トラブルを抱えてしまいます。その後も妻の責任を質すでもなく、妻に言われるがままにその奴隷(ハガル)と奴隷との間の子(イシュマエル)をそのまま家から追い出してしまう男です。そして、もっとも彼の行動として不可解なのが約束の子イサクが与えられたのにもかかわらず、またぞろ妻を妹と偽り、現地の有力者に妻サラが召しいれられてしまうのを看過してしまうところです。

アブラハムが妻サラからほとんど信頼されていなかったのは言うまでもありません。いえ、私が妻サラなら、夫アブラハムが一度ならず、二度までも妻である自分を守ろうとしなかったことを許さなかったことでしょう。この家庭内で妻が夫より自分の考えに従って差配していたように散見される理由もそこにあります。そして、それが「カカア天下」になっていたのはサラが男勝りの悪女だったからではなく多分にアブラハムに責任があるのです。

現代の言葉を用いれば彼は典型的な「草食系男子」であったでしょう。そして、その子、イサクも孫ヤコブも同様の傾向があります。信仰があるように見えて、重要局面で決断しない、裏表がある、家庭を治めきれないでいる・・・。決断力が微塵も感じられない優柔不断な男・・・これが等身大のアブラハム像なのです。

私たちは、いつしか立派な信仰を持った立派なアブラハムが立派だから神様に選ばれたように勘違いしていないでしょうか?私たちの神はこの不信仰で優柔不断なアブラハムを選び信仰を彼に与えまた保ち続けたのです。優柔不断な私たちが主イエスと出会い、イエス様を信じる決断が仮にもでき、それを続けていくことができるのは、私たちの信仰が立派だからではなく、一重に神が哀れみ深く、ただ恵みによって私たちを選ばれたからとしかいいようがないのです。

ジェームス・ティソ作『アブラムとサライ』

ジェームス・ティソ作『アブラムとサライ』


教会に集会案内の看板が設置されました。

画像

大東チャペル南側壁面に集会案内の看板が設置されました。

それに伴って、南側壁面に設置されていた木製ポストが、教会正面に移動して

従来の金属製のポストから置き換わりました。少し、雰囲気が出てきたかな?

皆様の来会をおまちしています。

集会案内の看板

集会案内の看板

木製ポスト

木製ポスト