イエスとは誰か?(マルコ8:28~38)2014年9月21日のメッセージから

人は知らない人を知っていると言います。政治家やタレント等は顔と名前が一致することを「知っている」といいます。相手は自分を知らないし、自分も相手の名前と顔以外何もしらないのです。マルコの福音書の前半のテーマは一言で言えばこの「ナザレのイエス」とよばれる人物が何者であるか?ということに集約できるでしょう。そして、前半のまとめは主イエスの一番弟子であるペテロがイエスとは何者かと答えることによって、後半主イエスは十字架への道を歩み始めるという展開をとります。

ある人はイエスを預言者の一人だといい、ある人はイエスを悪魔の手先だといい、ある人はイエスをバプテスマの生まれ変わりだといい、マルコはイエスその人に対する色々な見解をイエスの伝記とともに紹介していきます。当然ながら著者マルコはイエスとは誰かという問いに対する回答を知っています。何故なら1:1で「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉をもってこの福音書を始めています。

余談ながら「キリスト」は名字ではありません。人類史上、人類の救済のために天よりやってくるたった人に救世主に与えられる称号です。そして、マルコが1:1で使う言葉は原文では「イースース」・「クリストス」。どちらも主格です。どちらも主語になりうる形をとっています。つまり、「イエスとはキリストであり、キリストとは即ちイエスのことをさしそれは神の子なのである」という宣言をもってこの福音書は始まるのです。「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」という映画やテレビドラマは最初に犯人を明らかにしたうえで、視聴者とともに推理していく体裁をとっていますが、このマルコによる福音書はそれと同じ体裁をとっているといって差支えないでしょう。

そして、イエスが救い主キリストだと弟子のペテロが知った直ぐに主イエスはご自分が十字架にかかって死ぬことを明らかにされます。ペテロは「それではだれもイエス様についてこなくなる」ことを心配して主イエスを諌め、それを主は激しく叱責されます。

長い時間を使って弟子たちを訓練し、福音書で多くの紙面を割いて、イエスがなにものであるかというあらゆる可能性を検討したは、イエスがキリストであることを明らかにすることでしたが、今度はキリストとはいかなる方かということを知る必要が出てくるのです。冒頭、顔と名前しか知らない著名人を「知っている」とうそぶいてしまう事例をあげましたがまさにそのようなものです。イエスがキリストだと知っても、キリストが何をなさるためにこの世に来られたのかを知らなければ的はずれになってしまうのです。キリストの腐心、マルコの腐心、先輩クリスチャンの腐心とは、イエスとは誰なのかを伝え続ける努力の継承だと言い変えることができるでしょう。そして、人類の歴史は人が小さい頭でイエスを誤解し続けてきた歴史だということもできるでしょう。私たちも伝えましょう、イエスを私たちでさえ、ナザレのイエスを神の子キリストと知ることが許されたのだから。

バルトロメ・エステパン・ムリーリョ作「小さな鳥の聖家族」

バルトロメ・エステパン・ムリーリョ作「小さな鳥の聖家族」


歴史上最大の苦しみ(ヨハネ3:16)2014年9月14日のメッセージから S氏による

この個所は、聖書の中で最も有名な節だと言っても過言ではないでしょう。そして、この節を詳しく学んでいくなら、この節が、神の「苦しみ」について語っていることに気づくはずです。「独り子をお与えになった」。この部分こそ、神の苦しみについて描写しています。「独り子」について、「すなわち、『独自の(比類のない)御子』」とも訳され、ギリシャ語小辞典によれば

「①独自の,独特の,同類のない,ユニークな(その名で呼ばれる類例を待たない)…….②一人だけ生まれた,一粒種の,唯一の,一人子,……」

を意味します。このように他に全く類を見ない「その独り子をお与えになった」ということは、神は、ご自分のひとり子についてのあらゆる権利を一切放棄なさったと言うことができるでしょう。神の「独り子」については、ヨハネの福音書第1:1において、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書かれています。この節で「~と共に」と訳されていることばは、「(密なる交わり),と共に,といっしょに(常に交わりをもって),活発に交際して,行き来して,常に接触して,密なる交わりの中に;……」という意味があり、「『ことば』は神と向き合って,神との密なる交わりの関係にあった,切っても切れぬ相互の交わりの中にあった」という意味にとれます。すなわち、父なる神と子なる神は、永遠の初めから、非常に親密な交わりの中にあったことがわかります。父なる神は、ご自分にとって、そのようなかけがえのない「独り子をお与えになった」のです。すなわち、被造物である人間と同じ姿でこの世界にお遣わしになりました。そして、人々からあざけられたりののしられたりして、最後は、当時の極刑である十字架上での死をもお許しになりました。このことは、父なる神にとってどれほど大きな苦しみであったことでしょう。しかし、父なる神は「世を愛」するがゆえに、「その独り子をお与えになった」のです。「世」は、神に敵対しています。それにもかかわらず、神は、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。神は、かけがえのない「独り子をお与えになったほどに」、ご自分に敵対している「世を愛」してくださいました。これは、実に驚くべき愛ではないでしょうか。神が「世を愛された」ことには、目的がありました。それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ということです。「滅び」るということは、永遠の火の池で昼も夜も苦しみ続けることを意味します。しかし、「独り子を信じる者」は、「一人も滅び」ることがありません。むしろ、「永遠の命を得る」のです。「永遠の命を」持っている者は、来たるべき新天新地において、神とともに永遠に生きることができます。かつての私たちは、火と硫黄の燃える池の中で永遠に苦しみ続けることこそふさわしい者でした。しかし、主イエス・キリストはそのような絶望的な罪人のために十字架にかかり、贖いのみわざを成し遂げてくださいました。そして、私たちは一方的な恵みのゆえに救われました。ただただ神に感謝するほかありません。

ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ作「キリストの哀悼」

ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ作「キリストの哀悼」


2015年9月13日の予定

来週9月13日の集会は午前10:30~ マルコの福音書1章1~15節「神の子イエスの福音」というテーマでメッセージがあります。皆様万障繰り合わせのうえお越しくださいませ。

また、来週16日の聖書研究会は参加者の都合により15日に振り替えます。

フランシスコ・デ・ゴヤ作「聖家族」

フランシスコ・デ・ゴヤ作「聖家族」


2015年9月6日の予定

来週9月6日の集会は午前10:00~から洗礼式・バプテスマ(新しくイエス・キリストを信じることを告白した人が受けるよう聖書に定められている儀式・礼典)を行います。

そののち午前10:30~ マタイの福音書25章15~30節「あなたもクリスチャンになれる!」というテーマでいつもどおりの集会メッセージがあります。皆様万障繰り合わせのうえお越しくださいませ。

ウィリア・デ・ポーター作「タラントの譬」

ウィリア・デ・ポーター作「タラントの譬」