幼子を愛される神(エペソ6:1~4)2014年11月9日のメッセージから

この時期、日本の教会では幼児祝福式を行うことが多いようです。それは、11月15日の七五三を換骨奪胎して、聖書の神様の祝福が子どもにあるようにお祈りする集まりです。この集まりが福音の本質を失って形骸化することはあってはなりませんが、先週お話したハロウィンの事例のように聖書は、「逆用する自由」さえも私たちに与えています。

例えば、パウロはローマの市民権を鼻にかけて、市民権のない人間を差別するようなこともなければ、市民権を悪用して不当利得を得たこともありませんでした。しかし、パウロは逮捕前には自分がローマ市民権を保有していることを公言せず、逮捕され鞭打たれてから一転して自分がローマ市民で裁判を受ける権利があることを主張します。そしてその立場を奇貨として、皇帝に上告し、宿願だった「ローマ行き」を手にしました。

また、割礼についても、異邦人へ割礼を強要することや、割礼を救いの条件かのごとく扱う割礼派の人間には頑強に反対しました。そんなパウロが異邦人テモテを伝道旅行に連れていく際、ユダヤ教のシナゴークに入って宣教するには割礼を受けていた方が通りが良いので、「ユダヤ人の手前」テモテには割礼を受けさせるというウルトラCを見せています。福音を変質させるような慣習は一切受け付けないが、福音を伝えるための障壁を取り除くためには何でも用いるというのはパウロのスタンスだったようです。

現代日本の教会で多く行われている幼児祝福式も、パウロなら「福音を変質させるような聖書にない儀式であるなら拒否すべきだ」というでしょうし、「聖書の神様が子どもを愛し祝福して下さる神様であることを知って、普段福音を聞く機会のない人が福音を聞くのであればどんどん活用すべきだ」というでしょう。

パウロは今日のテキストでも信仰者の生活、親子関係について訴えています。子どもには主にあって、モーセの十戒を意識して親に従うことを促します。親が人格的に優れているかどうかではなくて、神が旧約時代から人に親子関係という人間関係を置き、親を敬うことを、神と人との契約の中に盛り込んでいるが故に、親に従うようにいうのです。 これは、神なしに「子が親に従うこと」や「家臣が主人に従うこと」を道徳の基本に置いている儒教の忠孝精神とは似て非なる概念です。それは4節でいよいよ明らかになります。

「父たち(親たち)よ。子どもを怒らせないようにしなさい。主がしつけ、さとらせるようにとしなさい」

と親も子どもに対して義務を負うのです。これは儒教にはない概念です。そして、その義務を100%守ろうとするのなら、親のそれは子のそれよりも明らかに重いものです。

これは、子どもびくびくしておそれおののけと言うものではありません。しかし、昨今のニュースに見るような親による理不尽な虐待を受けた子どもは、愛というものを正しく理解できるでしょうか。また父親から虐待を受けた子どもに対して「天の父なる神様」のことを伝えようとした時、父なる神という言葉に反発を覚え、神様を信じることに障壁とならないでしょうか?自分の子どもは自分のものではなくて、神様から委託された、神様のかたちをした人格ある存在として敬意をもって接しなさい。聖書はそうキリスト者に訴え、そこまでの義務を親に課すほどに子ども愛されているのです。

フランシスコ・デ・ゴヤ作「小さな巨人」

フランシスコ・デ・ゴヤ作「小さな巨人」


2015年11月22日の予定

来週11月22日の集会は午前10:30~です。

ヨナ書4章5~11節より、『何故、願い事をかなえてくれない神様を信じるのか?』というタイトルでメッセージがなされます。

去年の7月にISISが爆破したイラクにある文化遺産が「預言者ヨナの廟」であり、今度の日曜日のメッセージの聖書個所のヨナ書の主人公と同一人物なのです!そしてそれが、今度の日曜日の話はISISが何故その廟を破壊したかにもつながる話です。

皆様万障繰り合わせのうえお越しくださいませ。

聖書研究会は予定どおり水曜日19:30~より行います。

バシレイソス2世の教会月暦画より

バシレイソス2世の教会月暦画より


2015年12月13日の予定

今年の12月13日は少し早いですがクリスマス集会をご用意しています。
東京都町田市にある「実りの杜チャペル」からメッセンジャーをお招きし、クリスマスメッセージをしていただく予定です。

是非、みなさんも教会に足をお運びください。私たちは皆さんを歓迎します。

また、当日は午前10:30~も、予定通り主日礼拝を行いますので、そちらの方にも足をお運びください。

当日の来会者には地域の授産施設で作られたクッキーをプレゼント!
さらに新規来会者には新約聖書をプレゼントします!(先着20名様まで)

講師 プロフィール

渡辺二郎 (わたなべ じろう) 1946年東京に生まれ。1976年聖書学校での3年間のドイツ留学を終え、帰国、教会での奉仕、また大学などでドイツ語を教える。1989年から、町田市相原町にて開拓伝道に従事。1998年東京都から養育家庭(里親)の認定を受け、里子の養育に携わる。12人の里子を養育。今は4人の里子と2人の措置の終了した里子の8人で暮らす。実りの杜チャペル(相原キリスト集会)責任者、拓殖大学・東京理科大学のドイツ語講師。
講師近影

講師近影


ハロウィンの起源(テモテⅡ3:16)2014年11月2日のメッセージから

ハロウィンはもともとコスプレというサブカルチャーが素地としてあった日本で仮装大会として急激に受け入れられてきました。クリスチャンの間でもこの祭りをどう扱うか見解が分かれています。そこでハロウィンの起源について共に探っていこうと思います。

  1. ハロウィンはもともとケルト族(アイルランド)の収穫祭でした。ドルイド教のサラウィン祭が起源です。
    ⇒この観点からはハロウィンは異教の祭りであるから忌避すべき対象であるという意見がプロテスタント教界にあります。
  2. 余りにもこの祭りがケルト文化に根付いていたので、カトリック教会がかの地に伝道するに際して対応に苦慮しました。カトリック教会は東方正教会の万聖節をとりいれました。そして、その日取りをサラウィン祭の翌日(11月1日)に据えることで、サラウィン祭をそのキリスト教の祭りの「前夜祭」にしてしまおうと画策しました。そうすることで当地のキリスト教化を図りました。この方法は北欧の冬至に行なう太陽神の祭をクリスマスを充てて、キリスト教のお祭りにしてしまったのと同じ手法です。
    ⇒この観点から、異教の祭りを換骨奪胎して伝道に用いているのだから積極的に採用しようという意見があります。
  3. しかし、この万聖節は死者の崇拝にあたり聖書的根拠がないので廃止すべきだと、ルターがヴィッテンベルグ城に『95カ条の論題』を掲示したのが今から500年前の万聖節の前日の10月31日です。ドイツではこの10月31日は「宗教改革記念日」という祝日に定められています。
    ⇒この観点からみれば、現在のハロウィンはあからさまな異教から、非聖書的な物が排除された、収穫を祝う感謝祭でしかなく、益にも害にもならない習慣だから、目くじらを立てることもないし、率先して行うこともないという意見もあるでしょう。

このため、アイルランドではいまでの収穫祭と万聖節が両方祝われ、最初からハロウィンの習慣が無かったカトリック教国では11月1日の万聖節だけが祝われ、かつてアイルランドを併合していた英国の支配地域であった旧英連邦内のプロテスタント諸国ではハロウィン(収穫祭)だけが大衆文化として祝われているというのが現状のようです。

「聖書のみ」という、今日のテキストを厳格に適用するのであればやはり、ハロウィンはすべきではないのでしょう。また、申命記には異教の祭りの一切を忌避すべきだともあります。

しかしながら私は諸兄になお一層進んで、問いましょう。「ハロウィンのお祭りをする=世的なこと」、「ハロウィンのお祭りをしない=霊的なこと」と例外なくいうことができるのでしょうか?

ローマ書14章には暦や食べ物の件でいわゆるグレーゾーンをどのように取り扱うかということが書かれています。そして、暦に従って祝祭日をとり行う、行わないというグレーゾーン問題の場合、それを実際に行うか行わないかの是非よりも、その行動の根拠が自分のためなのか主のためなのかという動機の重要性が語られています。私たちは

(A)グレーゾーン事態を回避して神の前に聖く生きる

(B)グレーゾーン事態に遭遇して世と妥協して生きる

の二者択一と考えがちですが、実は本人は(A)のつもりでハロウィンの集まりを忌避してもそれは

(C)自分の世界観を守るため為に患いごとから逃避して内にこもって地の塩としての役目を放棄して生きる

ということになっていないでしょうか?また、誰かを(B)だといって裁いてしまって、その相手が実は

(D)罪深い世に受肉された主に倣って、グレーゾーン事態を転機としてこの世に遣わされた寄留者として、この世の中で主を証しする

という尊い選択をしているのかもしれません。そうすると、ハロウィンに一切かかわらない人が実は主の前に職務怠慢であったり、ハロウィンの集まりに参加する隣人のそばにいてあげる人が実は主の前に福音宣教に一騎当千の働きをすることも場合によってありうるわけです。ある特定の行いに○×をつけるのではなくて、その行いの背後にある動機が愛に導かれた「主への栄光のため」か「己の保身や快楽のため」かという尺度も持ちたいものです。
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:8~10)

ルーベンス作「聖母子と諸聖人」

ルーベンス作「聖母子と諸聖人」


大宣教命令より大切なこと(創世記1:28、マタイ28:19~20)2014年10月11日のメッセージから

聖書の中にはニ大命令と呼ばれるものがあります。1つは皆さん御承知の通り、マタイの福音書の一番最後にある、「大宣教命令」です。そして、もう一つはあまり耳慣れないかもしれませんが、創世記1:28に記されている、「文化命令」と呼ばれるものです。字義だけ一瞥すれば、「繁殖して開墾しろ」と書いてあるようにしかみえませんが、英語でも農業Agricultureの中に文化Cultureが含まれていることからも分かるように、人類の発展、人口を増やすために農耕を行うことが、文化・文明を振興することに繋がります。そして、「人は神と共に歴史を紡ぎ、自身を発展させることによって神に栄光を帰せよ」といっている非常に遠大な命令なのです。

さて、この命令は僅か一節しかないにも関わらず、多くのキリスト者(特に改革派・プロテスタント)に重要視されてきました。それは、この命令が記されている聖書全体に占める位置によります。創世記の3章で人は神に対して罪を犯し、それ以降、神の人類救済の壮大な計画が始まります。よって、創世記3章以降に出されたあらゆる命令、使わされた預言者、行われた奇跡というのは、人を再び神様の前に立ち返らせ、神に栄光を帰す存在へとリカバリーするためのモノということができます。そのためにイエス様がこられ、そしてそのイエス様が福音書の最後で大宣教命令を発せられているのですから極言すれば、創世記3章以降の全ての命令は大宣教命令に集約できるといえるでしょう。しかし、この創世記1:28の文化命令だけは違います。この命令だけは人が伝道される必要のなかった時代、救われるべき罪人がまだ存在しなかった時に出された命令なので、大宣教命令に集約することはできません。そしてこのことは重要なことを示唆しています。人の最終目的はただ単に救われることが目的ではないということです。罪に汚れ神の前に価値がなくなる前に、死ぬべき存在になって伝道される必要が生じる前に、人は既に神様に目的をもって造られたということが分かるのです。もっといえば、創世記3章以降のありとあらゆる人類救済計画は人を再び神の前に罪なき状態に価値ある者へと再創造した上で、人に再びこの創世記1:28の命令を履行させようと願っていらっしゃるということができるでしょう。

さらにはこの神の御命令、御意思は単にこの世での数十年間だけ神様に仕えることを求めていると言う訳でもありません。神は永遠の次元でこのことを考えています。黙示録の21:1によれば新天新地に我々キリスト者は迎えられることが約束されています。その新しい天と新しい地というのはギリシャ語で時間的に新しい(新鮮な状態)を表すネオスという言葉ではなく、質的に新しいことを表すケノスという言葉が用いられているのです。私たちはケノスな天とケノスな地に入れられるのです。そしてこの質的に新しいと言うのは、現在の天と地を全く新しいものに新調して取り替えてしまうという意味ではありません。現在の天と地を用いて、そう某テレビ番組のように古い建物の躯体を残しながらそれを活かしてリフォーム、イノベーションするようなイメージを思い浮かべて頂くとよいでしょう。

ありていに言えば、一見無駄に見えるうつしよでトラクト一枚配るのも、キリスト者が置かれたところで神に栄光を帰そうと思いながらこの世の仕事をする(新聞配達でもタクシー運転手でも、介護職員でも)することさえも無駄にはならないのです。私たちが新天新地に入れられるときに神様はそれら全てを覚えておられ、またどのようにかわわかりませんが、それら活用して、私たちを永遠の事業である新天新地に入れられるのです。なんと素晴らしいことでしょう。

伝道を自己目的化せず、次に来たる新天新地の希望を、まだ希望を知らぬものに訴えていこうではありませんか。

ジャンフランソワ・ミレー作「仕事に出かける人」

ジャンフランソワ・ミレー作「仕事に出かける人」