2016年4月3日の予定

来週4月3日の集会は午前10:30~です。
ヨハネ20章19~29節より、『一週遅れのイースター』というタイトルでメッセージがなされます。

皆様万障繰り合わせのうえお越しくださいませ。
また、日曜日10:00~の子供向けの教会学校
水曜日夜7:30~の聖書研究会にも足をお運びくださいませ

ベルナルド・ストロッツィ作「聖トマスの懐疑」

ベルナルド・ストロッツィ作「聖トマスの懐疑」


2016年3月27日の予定

来週3月27日の集会は午前10:30~です。
第一コリント15章12~19節より、『キリストの復活』というタイトルでメッセージがなされます。
イースターです。おそらく、世界中の教会でイエス・キリストの復活が述べ伝えられ、よろこばれるでしょう。
皆様万障繰り合わせのうえお越しくださいませ。
また、日曜日10:00~の子供向けの教会学校
水曜日夜7:30~の聖書研究会にも足をお運びくださいませ

カール・ハインリッヒ・ブロッホ作「キリストの復活」

カール・ハインリッヒ・ブロッホ作「キリストの復活」


『教会に来ること』より大切なこと(マタイ12:1~14)2015年2月1日のメッセージから

安息日に麦の穂をつんだイエス様の弟子たちにパリサイ人は言いがかりとを付けてきました。それに対して、イエス様は聖書から安息日は人が神様を覚えることが出来るようにするために神様が制定して下さったという、きまりがなぜ決まりとして存在するのかという立法趣旨からして、説明して下さいました。

法律は法律を守ること自体が「目的」ではありません。法律を守らせることは「手段」であって、法律を施行した結果達成される「目的」が別にあるのです。例えば「人を殺すな」という法律はそれを施行することで「人の命」を守ることが目的であり、「人のものを盗むな」と言う法律は「人々の財産を守る」という目的が存在します。

教会という制度はいイエス様が制定されたものです。ですから「人間の都合で行く、行かないを勝手に決めるのは本末転倒である」ということは断っておいた上で、それもでも敢えて厳しいことを言わねばなりません。教会の存立の為に、何かしらの奉仕を人に強制し、それがために人が躓くならそのような教会は存在しない方が良いのです。教会は人々が再び神様に目を向け、神様を礼拝するために、人間のために、神様が制定されたシステムなのですから・・・。

パリサイ人達は「神は憐れみはこのむがいけにえは好まない」という聖書の言葉の意味を理解していなかったがために、イエス様の弟子たちを裁いてしまったことをイエス様に指摘されました。

これは、法律、ルールが運用されるそもそもの動機について説明しています。この世の社会の組織の多くは営利目的で動いています。ただ非営利で動いている組織もすくなからず存在し、たとえば、日本赤十字社の血液事業は100%有志の人々の献血でなっています。日本では年間200万リットルの血液が献血、輸血され、慢性的な血液不足に陥っていますが、だからといって足らずまいの10万リットル分だけ売買血(戦前は実際に行われていた)を導入したらどうなるでしょう?おそらく血は10万リットル増えるどころか逆に減るはずです。なぜなら、それまで献血していた人達の多くも、「なぜ自分たちだけ無償で血液を提供しなければならないのだ」といって、自分の血液も買血するように求めてくるはずだからです。そうすると、人々の慈善の働きで成り立っている血液事業全体が成り立たなくなってしまいます。

この世の慈善の働きですらそうなのです。ましてや、教会内の奉仕で、それは椅子並べであったりトラクトまきであったり、トイレ掃除であったりに、「受益者負担の原則」や「自由競争の原則」や「契約自由の原則」なんかを導入しようものならたちまち教会は解体してしまうでしょう。ですからみなさん、教会に来ることが信仰生活の第一目的になってはなりません。神様の愛を存分に受けてその愛の応答として教会で奉仕をして下さい。そして、神様の愛を受けるための恵みの手段として神様が制定して下さったのが、教会の日曜礼拝というシステムなのだということを改めて心に留めましょう。

ジョン・エヴァレット・ミレー作「安息の谷間」

ジョン・エヴァレット・ミレー作「安息の谷間」


貧しき者への福音(マタイ11章2~19節)2015年1月25日のメッセージから

バプテスマのヨハネはイエス様の親戚(おそらく従兄)です。イエス様より半年ほど前に生まれて救世主の到来を預言しました。史上最高の預言者とも言われるバプテスマのヨハネ…。晩年、捕らわれの身となった彼は、使者を介して「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と主イエスに言い送ります。この問いかけはややもすると彼の弱音か、はたまた宣教が遅々として進まないキリストに対する不満にさえ聞こえます。主イエスはバプテスマのヨハネに対する返事もそこそこにして、その後、群衆に向かってヨハネの功績を説明する際に、

 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。

と意味深な発言をします。ヨハネのせいで天国が侵略されているというのです。さて、史上最高の預言者ヨハネと救世主キリストの間に一体なにがあったのでしょうか?

イエス様がバプテスマのヨハネに送った最後のメッセージは、病人が癒され、死者が生き返り、そしてなにより「貧しいものへ福音が伝えられていること」が、しるしであると言っています。これらはそれぞれ、イザヤ書33章や61章の預言の成就とみると同時に、「死者の復活」よりも「貧しいものへの福音の伝播」こそが大事であるというのです。そして、その伝播の最大の功労者はバプテスマのヨハネその人であり、最後までその任務を遂行した彼は躓かなかった者である、幸せ者であると呼びかけているのです。これは主イエスからヨハネに対する最大限の賛辞です。イエス様は山上の説教の際、「幸いなるかな貧しき人よ」から、説教を始めますが、これはバプテスマのヨハネが語り続けてきた福音と別物ではなくて、彼が伝え続けてきた福音の延長線上にあるもので一貫したものであることを意味します。主イエスは、この私信を伝えたあと、聴衆に向かって、荒野で社会的弱者に揺るぎない福音を語り続けたバプテスマのヨハネの素晴らしさを解き、彼は史上最大の大役を成し遂げたし、また大役を成し遂げるにふさわしい力量で有ったことを解きます。彼によって伝えられた福音は一部の宗教家だけでなく、だれでも神の国に入ることが出来るようになったと言う意味を伝えるために、12節で「天国が攻められる」という表現を用いたのです。バーゲン品を買い物客が大挙して取り合うかの如く天国への切符がディスカウントされたと主イエスはおっしゃっているのです。この後続くノンクリスチャンでも知っている故事成語「笛吹けど踊らず」ということばは、そのようなバプテスマのヨハネによる最大級の福音の到来のチャンスですら、福音に耳を貸そうとしない人への警告のメッセージだったのです。

マタイ11章は一瞥すると難解な個所ですが、貧者への福音というキーワードで文脈を読み解く時、神様の御計画の壮大さ一貫性をのべつたえ、さらには、この福音だったからこそ私たちのようなものでさえ救われたのだと言うことを確信を持って教えてくれるのです。

ベルナルド・ストロッツィ作「洗礼者ヨハネの説教」

ベルナルド・ストロッツィ作「洗礼者ヨハネの説教」