律法の三つの用い方(マタイ19:16~22)2013年11月3日のメッセージから

裕福な青年貴族とイエス様との問答が描かれています。このテキストを文字通り読むのなら、持ち物を全て貧しい人に施して無一文になった上で主イエスに従った人だけが、神の国に入ることになります。差し詰め現代においては、修道院に入った修道士かシスターでもない限り救われないことになります。しかし、これは、イエス様が他の福音書でおっしゃっていた福音とも、パウロが伝えてきた福音とも違います。ではなぜ主イエスは「もし、完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちにあたえなさい」(19:21)とおっしゃったのでしょうか?

このテキストに前後してマタイ伝18~20章に一貫して流れているテーマは救われるには小さなものでなければならない。ということです。ここでいう「小さな者」とは「純粋無垢」というよりは、当時の子どもがおかれていた状況に照らし合わせて、「無資格な者」、「無能力な者」という意味です。つまり、神の前に大手を振って神の国行くことができる等とは口が裂けても言えないことを自覚している、自分が神の前に小さく、神の基準を満たせていないことを身にしみて分かっている者ということです。

何年も学んだキリスト者でも「旧約聖書の時代は律法守ることによって救われ、新約聖書の時代は主イエスキリストを信じることによって救われる」と勘違いしている方を時々見受けられますが、違います。聖書は(少なくともパウロの見解によれば)一貫して律法を守れる人はひとりもいないとしています。そして、一貫して律法は守る為にあるのではないことが分かるはずだとしています。では守るためではないとしたら、律法は何のためにあるのでしょうか?伝統的に正統的なキリスト者は律法を役割を3つ見出してきました。

1、   律法は守ろうとすればするほど、守れない(神の基準に達しえない)ことを知るためにある。

2、   律法は守れない人や神の基準の高さを理解しない人が、不完全なりに守ろうとするだけで、社会秩序を維持し、風紀を維持しその効果が信者以外に波及するためにある。(※この場合、パウロが言及する律法はロマ2:14にあるような異邦人や未信者さえも持っている「良心・道徳」をも指している)

3、   最後は律法の第三用法と呼ばれるもので、クリスチャンが、神の基準に達しえないことを百も承知で、守るから救われる、守れないなら滅びるといった次元を超えて律法を行うことを指す。救われていることに感謝して、神に対する「愛の応答」として律法が指し示す神の基準を足らないなら足らないなりに少しでも満たそうとする善行。

さて、以上、3つの用法をふまえた上でこの青年貴族を見てみると、『戒めは既に、皆、守っている』と豪語していることからも、自分は「できる人間」で、律法の要件を満たすことで救いをえようとしていたことが分かります。第一用法すら分かっておらず、第二用法の範疇に留まっており、彼の律法順守の姿勢が第三用法では無いことは明白です。だからこそ主イエスはこの青年に厳しいことを仰ったのです。

「それ(律法をまもることによって天の御国に入ること)は人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(19:26) 私たち人間には律法は守れないのですが、神の側から主イエスの御名による救いが与えられていることを感謝しましょう。

金持ちの青年貴族ハインリヒ・ホフマン作「キリストと金持ちの青年貴族」


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