民みなよろこべ(詩篇98篇)2013年11月10日のメッセージから

詩篇47、93、96~99篇は別名として「即位の歌」とよばれます。神である主が王として即位することを賛美する歌です。特に詩篇98篇は世界的に有名なクリスマスキャロル「Joy to the world」の元になった歌であります。日本語では「諸人こぞりて」として知られています。オリジナルの曲は詩篇98篇からインスピレーションを得た作詞家が、この王としてこられる神を再臨の主(即ち、キリストのこと)とダブらせて、詠んだのが世界的なクリスマスキャロルとなったのです。しかし、英詩と詩篇98篇と日本語の「諸人~」を読み比べてみて下さい。明らかに英詩と詩篇98には相関があるのですが、日本の「諸人~」とは歌詞の内容が全然違います。

実は、英国の讃美歌の文化として、曲と詞の結びつきはそれほど強くありません。韻律さえあえば、曲や詞を入れ替えて歌うのはもっぱらです。そのため、詩とは独立して曲そのものにも名前が着いている。因みにJoy to the worldの曲名(tune name)はアンテオケです。日本の讃美歌、聖歌で同じリズムで違う歌詞の曲がいくつもあるのはそれに起因します。

当初、日本で初めてJoy to the worldが讃美歌集で紹介された時は、「諸人こぞりて」と「民みなよろこべ」は音韻が一緒なので、曲を変えて奏楽可能であると付記していたのですが、日本には曲と詞は一体と捉える向きが強く、世界的な「Joy to the world」の訳詞とは違う「諸人こぞりて」の方が歌詞として有名になってしまいました。その為、この世界的なクリスマスキャロルを歌う時同じリズムなのに日本だけ違う意味の歌詞で歌われるという珍現象が生じてしまいました。これではイカンということで、98篇に準拠して造られたアイザック・ワッツのJoy to the worldの訳詞は聖歌に掲載されている「民みなよろこべ」の方なのです。

①民皆喜べ 主は来ませり      心を備えて 
      いざ迎えよ  いざ迎えよ  いざ  いざ  迎えよ
②地に下りませり  救い主は      野山も  流も
      声上ぐべし  声上ぐべし      声  声  上ぐべし
③罪の呪(のろ)いをば  解き給えば 憂(うれ)いも  悩みも
      皆消え失(う)せん 皆消え失せん  皆  皆  消え失せん
④主は世を統(す)べ給う  御恵みもて  主の愛  主の義を
      誉(ほ)め称えよ  誉め称えよ  誉め  誉め  称えよる。

さて、詩篇98篇の動詞はは1~3節は完了形(既に起こったこと)、4~6節は命令形(今命じられていること)、7~9節は、未完了形(未来に約束され、またそうなるように作詞者自身が願っていること)として書かれています。

そしてこの「民みなよろこべ」の訳詞もそのようになっています。1番が既にきたイエスの初臨をあらわし、2番は賛美を天も地も全人類も捧げることが求められ、4番は再臨の時主が王として世界を統べられることを謳っています。ただ4番を歌うその前に、アイザック・ワッツは3番で再臨の主、裁き主、王である御方が今、救い主、贖い主として私たち前におられる、罪を解決して下さる御方と同一人物であるという詩篇98篇には書かれていない側面を新約聖書の光を当てて見事に歌いあげているのです。言って見れば、Joy to the worldはアイザック・ワッツの詩篇98篇の講解説教のようなものなのです。

私たちは罪赦されてこそ、この王であり裁き主である神の前に臆することな進み出ていくことができます。そして、心から賛美出来るのです。救い主であり裁き主である神をほめたたえましょう。そして、これからクリスマスシーズンに突入し、デパートや商店街で嫌というほど商業主義に毒された「Joy to the world」を聞くことになるでしょう。その時、ただ、刹那的な快楽主義に踊らされるでもなく、また極端な厭世主義に陥るでもなく、創造の時から再臨に至るまでの遠大なる人類救済の歴史の中に私たちもまた結びあわされていること思いを馳せて頂ければ、きっと、私にとっても、作詞者アイザック・ワッツにとってもこれ幸いといえるでありましょう。

羊飼いの礼拝

ジョルジュ・ド・ラ・トール作『羊飼いの礼拝』


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です