インマヌエル( マタイ1:18~25)2013年11月24日のメッセージから

マタイ伝1章の後半にある「インマヌエル預言」の記事はキリストの処女降誕の教理の根拠として、また、キリストの神性を表す教理の根拠として長らく用いられてきました。そして、それを信じぬ者を切り捨てる教理として適用されてきました。勿論、私はその教理に全く同意しますし異論を挟むつもりはありません。しかし、もとい振りかえってみますと、このテキストは信じぬものを切り捨て、峻別するための教理としての『インマヌエル預言』だったのでしょうか?

ヨセフは正しい人でした。しかし、マリアの妊娠を知った時、離縁することを考えました。もちろん、当時の慣習に従ってマリアを姦通罪に訴えることもできたでしょうが、そうはしなかったのは彼の温情といえなくもありません。しかし、自分に手の負えなくなった者を切り離して自分の管轄外にしてしまう。彼の行動は非難されるべきことではありませんが、自分の価値観で正しく歩もうとする人間の限界を表しているようにも思えるのです。

 このマタイ伝のインマヌエル預言は旧約聖書イザヤ書7章からの引用です。当時、南ユダ王国は北イスラエル王国とシリアとの同盟によって侵略される危機にありました。しかし、南ユダ王アハズはまことの神に信頼を置こうとは考えず、あろうに両国よるもさらに北東にあるアッシリア帝国との同盟によってこの難局を乗り切ろうとしました。このアハズ王は自身の子どもですら人身供養として異教の神に捧げてしまうような悪王で、その時々の強い国が信奉している偶像と、その礼拝様式を導入する(但しヤハウエは除く)、定まった考えをもたない王様でした。預言者イザヤはアハズに「軍事力や外交力ではなくてただ神に信頼するように」、と勧めます。そして王は言います。「私は主を試みません」と・・・。一見すると非常に信仰深いように聞こえる体裁の良い言葉です。しかし、この言葉は「聖書の神様だけは、一切関与しません、頼ろうという選択肢すら持ちません」という、究極の不信仰の表れとしてのことばだったのです。その時イザヤを通じて告げられたのがインマヌエル預言です。「信頼できないというのなら、一度主を試みてみよ、それすらしないと言うのなら、主自らあなたが手を煩わしてでも信じられるように、しるしをみせよう。インマヌエル(主はおられる)という名の子どもが生まれる」…と。

そうです。もともと、「インマヌエル」というのはある教理を信じない者を切り捨てる為のリトマス試験紙として神が用意された教理ではなくて、元来は信じることが出来ない者のために信じることが出来るように神様の方から直々に下さる「しるし」を意味する預言だったのです。

 結局アハズは主の言葉を信じなかったのですが、イザヤ8章を見ると、この預言を託されたイザヤ自身が、弱さで心が折れそうななか「インマヌエル」を信頼して預言し続け、立つことができたこと、またこの預言を将来に託すために書き記したことが明かされます。

 それをふまえた時に、まさにヨセフは、自分の価値観、あるいは当時の環境に圧されて、マリアを離縁することが精いっぱいだったのですが、それは婚約者の生命を守るという方便を用いながら、彼女との関係を断ち切り、自らの保身を達成しようとする体裁の良い選択肢だったというのは少々意地悪な見方でしょうか?そんな彼に御使いはインマヌエル預言を与えます。そしてインマヌエルの約束を信じた時に、彼は婚約者マリアとの関係を断つのではなくて、神を信頼してマリアを娶り、彼女との関係をむしろ強化するという大変なリスクを伴う、決断を聖霊によって下すことが出来たのです。この時の彼は心の中は『はたして妻を愛し通せるか?』『生まれてくる子どもを愛せるか?』『妻子を世間の冷たい目から守ることができるか…』そんな不安が渦巻いていたはずなのです。しかし、インマヌエルの約束を信頼する時彼は決断できた。

私たちも告白しましょう。私たちの心は弱く、不安と不信仰の思いは今も一杯だけれども、インマヌエルの約束を神様の方から迫ってきて下さるとき、私たちはそれを信じ、信仰によって歩むことができると・・・。

聖ヨセフの見た夢

ジョルジュ・ド・ラ・トール作『聖ヨセフの見た夢』


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