聖書の中のオリンピック(コリントⅠ9:24~27)2014年3月30日のメッセージから


本日の聖書テキストを見るとオリンピックを彷彿とさせるのではないでしょうか?パウロは信仰生活を歩むことを競技場で走ることや、拳闘(ボクシング)等のスポーツにたとえています。私たちも時節柄2014年ソチ冬季オリンピックで感動させられ、今日もその感動冷めやらぬうちに、そのブームに飲まれるように(?)メッセージをしています。普段から、メッセージの導入部分に冗長な例話をいれることに批判的な私が、最近の話題に流されてメッセージをすれば、『矛盾だ!』とお叱りを受けそうですが、今回ばかりはそうではないのです。

確かに、私が、聖書から意味を「読み取る」ときに私の表現力不足もあって「聖書の××は現代人が●●する時の感覚に似ています」といってたとえることはあります。

しかし、聴衆の心をつかむために、例話と称して聖書以外のわきの話をすることを嫌うのは、例話はたいてい聖書と時系列において数千年後もずれており、物理的な距離においても数千キロ離れた所の話をすることになるからです。そうすると、そのわきの話を聖書の話にあてはめるときにその「読み込み」が正しいかどうかが検証されなければならず、しかも読み込んだ話を、今度は聖書の文脈に沿って再び「読み取る」必要があって、その読み取り方、適用の仕方が正しいかを検証しなければならず、30~40分の間にその煩雑な作業をして、しかも聖書の真理を間違いなくする腕前は私にはないからなのです。

そんなメッセージはきっと「聴きやすい」し「分かりやすい」のかもしれませんが恣意的なものが入り込む余地が大きいのでどんなに感動的な話であっても「正しい」とはいえないし「聖書的」とはいえません。

そう言った訳で、時流に合わせた話はあまりしないのですが、今回ばかりは違うのです。オリンピックは紀元前776年まで遡ることができる、新約聖書よりもはるかに古く、旧約聖書の時代に一部が食い込むほどの古い歴史を持っています。そして、場所はヘロポネソス半島の西にあった都市国家エーリスであり、宗教的な儀式を伴うスポーツでした。日本の相撲はもともとは神事ですからそれに近いものがあるでしょう。 正確に4年に一回行われるのでギリシャ全土に通用する暦にも応用されたりしました。年を追うに連れ大会は拡大され、回数も開催場所も増え、以下の「4大大会」が催されるようになりました。

【1】オリュンピア大祭:開催地オリュンピュア 4年に1度開催 祭神:ゼウス。

【2】ネメアー大祭:開催地ネメアー 2年に1度開催 祭神:ゼウス。

【3】ピューティア大祭:開催地デルポイ4年に1度開催 祭神:アポロン。

【4】イストモス大祭:開催地イストモス(現・イストミア) 2年に1度開催 祭神:ポセイドン。

そして、この最後のイストモスは英語で「地峡」を意味します。そしてこのイストモスがあった地峡を「Isthmus of Corinth」(コリントス地峡)と言います。かつてはギリシャと縁もゆかりもなかったパウロがコリントに送った手紙の中でオリンピック競技に触れたのは、まさに宛先が古代オリンピックの開催地の一つだったからなのです。(そうです。パウロも時流におもねった話をしたのです。)コリントの町の郊外わずか数キロのところにこのイストモス競技場がありました。この聖書の中に出てくる競技場(スタディオン)は距離を表す単位でもあり、スタジアムの1周が約200メートルだったことに由来します。パウロのコリントの人達に少しでも自分の気持ちを分かってもらおうとしたのでしょう。

しかし、残念なことにこの聖句もまた、過去に教会が信徒に鞭打ち、ガンバリズムを惹起させるためにパウロの使った文脈から離れて誤用されてきました。特に9章27節の

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になることのないためです。

の部分です。私も例外ではありません。この御言葉を自分勝手に意味を読み込んで解釈し、自分よりも信仰の薄い(とみえる人達)のお尻にどれだけ鞭打って、教会に律法主義、ガンバリズムの嵐を吹き荒らしてきたか…私がその張本人でありました。

パウロの本当に言いたかったことは、9章の前段の文脈を読めば分かります。パウロは使徒としての権利を保持しているが、その権利を行使せずに留保しているというのです。そして、16節で「もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」とまで書いています。そして16節のこの一文、原文では言葉にすら成っていないのです。この部分を原文を直訳すれば

『もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はウェーだ。』

と書いてあるのです。「ウェー」ってなんやねん!って思わず突っ込みたくなりますが、その通り、ギリシャ語の辞書で「ウェー」を引いても意味は出てきません。意味のない感嘆詞です。(ね、無駄に導入で例話なんか入れて新しい意味を読み込んでいる暇なんかないのです(笑)むしろ、聖書の中のこのパウロが「ウェー」としか言いようがなかったこの言葉の意味を「読み取る」ことで私の場合は精一杯です。)

パウロが27節でいいたかったこと、それは「他者を鞭打ち、強制し、逆らえば失格者になるぞ」と脅しているのではなくて、「自分は福音を語る以外に何の益を生みださず、そうでなければ『ウェー』というよりほかどうしようも無いような者だと本気で思っている。そして、それくらいの心持ちで福音宣教していることをどうかコリントの兄弟姉妹よ分かってほしい。みんなに分かってもらえるなら諸君にとって身近なオリンピックのたとえを使ってでも諸君の理解を得たいと考えている。もし、読者諸君も僕の気持に同調し、少しでも宣教のために何かしらの自制をするなら、主イエスはそのわずかな自制であふれんばかりの恵みを携えて諸君に臨んでくれるはずだ。」

・・・そんなキリストの愛の深さとそれを伝えようとするパウロの情熱が詰まっているのが今日の御言葉なのです。

オリンピア

カール・ロットマン作『オリンピア』

 


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