神は意地でも復活させる (Ⅰコリント15:12~19)2014年5月18日のメッセージから

※この日はメッセンジャーが体調不良のため予定を変更してメッセージがされました。

 

第一コリント書の15章は復活信仰について、パウロが特に力を入れてコリントの教会の人に語った所です。読者とともに『私たちが信じているのが何なのか?』を改めて確認しています。1節からコリントの教会の人達の信仰内容(イエス・キリストの十字架と復活)を確認しているにも関わらず、パウロは12節から『もし、死者の復活が無いのなら?』と問うています。これはどういう意味なのでしょうか?これは、コリントの教会の人たちが何を信じていて何を信じていないのか把握していないと全然さかさまの意味にとってしまいかねないので最新の注意を払う必要があります。そして、どうも文脈からさっするに、コリントの教会の一部の人はイエス・キリストの復活を信じていた一方でキリスト者の復活については信じていないようだったのです。

どうしてこんな誤解が生じてしまったのでしょうか?今日はその辺を少し深堀りしようと思います。

  • 理由1:この教会は強いギリシャ文化の影響下にある

コリントはギリシャにあります。ギリシャのアテネでパウロが伝道した時も、パウロはこの「復活」を伝えるのに苦労しました。

  • 理由2:ギリシャ語にはそもそも復活という言葉も概念すらなかった

いまでこそ、テレビゲームやカードゲームでも一般的になっている「復活」ということばですがこの復活は日本語でも聖書由来の造語であり、聖書のギリシャ語も「復活」や「復活する」という単独の名詞や動詞がもともとあったわけではなく、「起き上がる」や「ひっぱり起こす」といった別の単語を援用してパウロは復活を説明しようとこころみています。現に、パウロは、アテネで伝道した際には現地の人に「復活」という名前の神様がいるのだと勘違いされたほどでした。

 

  • 理由3:ギリシャ人にとって死は解放、復活は拘留延長?!

ギリシャでは長らく、身体は「魂の牢獄」と考えられており、死は魂が肉体から解放される出来事なので、再び身体の中に魂が閉じ込められる「復活」を望んでもいなかったし慶事とは捉えらえなかったようです。

16節の復活はギリシャ語をみると他動詞の受動態です。直訳するなら「よみがえらさせられた」とでもいいましょうか、能動態で表すなら「(父なる神が)御子なるキリストを(わざわざ)復活させたのだ。」と言わんばかりの言い回しです。このニュアンスが読み取れたとき、父なる神様の意地といいます執念といいますか、私たちに永遠の命を与えたいという鬼気迫るような熱情を感じるのであります。私は戦慄すら覚えました。つまり・・・パウロのコリント第一15章前半で言いたかったことを補足しますと次のようになります。

 

『勘違いするな!あなた方はキリストの復活を信じている一方で自分たちが肉体を伴った復活をしないと考えている節があるだろう。もしかしたらあなた方は、「なんとなーくあの世にいってぽわーんと蓮の葉の上に浮かんで、うららか、うららか・・・」なんていうような曖昧模糊とした来世像をイメージしてるんじゃないか?それは大間違いだぞ!それではキリストの復活を矮小化し、自らの復活までも矮小化してしまっている!キリストの霊的な復活が神の究極の目的かのように考えているからそういう勘違いを起こすんだ。断言しよう。キリストの復活は神様の究極の目的ではない。誤解を恐れずに言えば、キリストの復活ですら手段なのだ。私たちキリスト者に栄光の肉体を伴った復活をさせることこそが現時点で啓示されている神の最終目的であり、そのために御子キリストを御父がわざわざ復活させたのだ。キリストの復活はキリスト者を復活させるための手段であり、また、後にキリスト者のうちで「死者の復活がない」などという世迷いごとを言う人間がまかり間違っても表れないようにするための保証として、500人以上の弟子たちに御子がわざわざ身体を伴って復活して下さったのだ。』

という、現代のキリスト者でも忘れてしまいがちがそもそも論をパウロが言及しているのです。

私たちは一生懸命、岩にかじりつくような思いでなんとか信仰生活を守っていつもりかもしれませんが、神の側からはまた別の視点があるのです。

「神に選ばれ、神を信じた民(クリスチャン)を絶対に絶対に神様は身体を伴った完全な救いの中に導き入れたい・・・。」

その神様の執拗なまでの神様の御名をかけた意地が私たちの信仰を今日も保って下さっているのです。

ピーテル・ラストマン作『復活』

ピーテル・ラストマン作『復活』


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