神の召命と私たちの献身(エレミヤ1:4~8)2014年5月25日のメッセージから T氏による

エレミヤは預言者として召しを受けましたが、若いことを理由に献身を断ろうとしました。いや、エレミヤだけではなく、旧約聖書の預言者はみな、好き好んで宗教指導者になったのではなくて、神様に促されて、押し出されるように神の言葉を取り次ぐ任にあたりました。

もとい、「若い」ことが預言者となる上で障壁であるならば、神は、その障壁の乗り越えさせて下さるから召されるのです。あるいはその障壁さえも逆に用いて「献身」することをもとめていらっしゃるのです。また、モーセは訥弁であることを理由に断りましたが、神は彼の雄弁な兄、アロンを随行させてモーセの不安を払しょくさせてでも、預言者として彼を立てようとなさいました。

ある牧師は、「牧師に献身することは特別なことではない」といいました。むしろ、私たちの罪の為にキリストは十字架にかかって下さいました。またイエス・キリストを信じて生きていくことを神様の側は私たちに求めておられます。そして、私たちは自分の意思で、また神様の求めに応じてクリスチャンになったわけですから、クリスチャンとして日々生きていくことが献身なのであり、取り立てて牧師になること、牧師という職業になることだけが献身なのではないです。

私たちも、病気や経済状態や、住んでる場所や色々制約があるなかでクリスチャンになったわけですし、神様もそのことを承知で私たちを召し出したのですから、出来ない理由を見つけてぐれることは最初からできないわけです(笑)。神の証し人として、献身することが今日も全てのクリスチャンに求められていますし、それが至極当然のことなのです。重荷に感じないですください。これはむしろ福音なのです。全知全能の神が神の御名をかけてそのように召されている訳です。むしろ、どのような逆境ににあろうともキリストの希望を置き、彼を信じて、その召しに応えれる、その責任を「おとしまえ」を神様がつけて下さるとおっしゃっているのですから・・・。なんと幸いなことでしょう。

カラヴァッジョ作『聖マタイの召命』

カラヴァッジョ作『聖マタイの召命』


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