信仰のリハビリテーション

今からお話することはあくまで、ごくごく一部のキリスト教会、キリスト集会での出来事であって、全ての単立教会、集会に当てはまることではありません。また、それらの単立の教会集会を非難する意図があるわけではありません。いえ、なによりも私たちの群自体が単立の教会なのですから・・・
 私たちの教会が関心があるのは、(神様の前に使命があると考えているのは・・・)それらの懸案のある教会よりも、故あってそれらの懸案のある教会、集会からあぶれ出されてしまった人達にあるのです。キリスト教会から足の遠のいてしまったクリスチャンの方にあるのです。そのような、私たちの教会はそのような人々の「駆け込み寺」、「逃れの町」としての働きをもって歩んでいきたいと願っています。よく、
「うちの教会、集会は、フラットでアットホームです。」
「うちの教会、集会のメッセージはまずなんといっても分かりやすいです。下手な神学用語をいっぱい並べて訳のわからないなんてことはありません」
なんてことをおっしゃる単立のキリスト教会の方がいらっしゃいます。
もちろん、私たちの毎週の日曜日の集会が、そのようにアットホームでフラットでかつ、聖書の話も分かりやすいものでありたいと願っていますし、それが私たちの教会を含めて単立の教会の「売り」にしています。
しかしながら、往々にしてフラットでアットホームな集会を売りにしている所が、実際は不文律によって牧師や教会指導者を中心とした厳然たるピラミッド型組織になっていたり、分かりやすいメッセージを詠う教会は、神学用語こそつかわないものの、その代わりに内輪だけで通じるような隠語を多用して、実は部外者にはよくわからない集まりになっていたりすることがままあるのです。
 これはキリスト教史全体を通してみても決して珍しいことではありません。既成の教団から反発して成立したのに、結局、飛び出した元の組織と同じ特質をもった組織に成り下がる・・・ということは2000年間の教会史を通じて古今東西ありました。有名なものに古代カトリック教会で起きた「修道院的循環」というものがあります。清さを求めて世俗を離れて修道院を作るのですが、良い修道院であればあるほどいつの間にか名声高くなり、そこにお金や名誉が集まってきて世俗化してしまうのです。そして、その修道院の中の有志がその世俗化に反発して新しい修道院を作るのですが、その修道院が真面目で清貧であればあるほど、名声が高くなり…(以下、これの繰り返しです)
また、近年ではアメリカの宗教社会学者デイヴィッド・モバーグと言う人も「教団のライフサイクル論」というモデルを提唱しています。
つまり、歴史は繰り返すのです。アットホームでないことに反発して、既存の教会を飛び出してアットホームな教会を作ったのなら、その教会はよっぽど注意を喚起しておかなければ数十年の後に冷徹な官僚機構をもった教会になっているでしょうし、分かりやすさを追求して、衒学的な既存の教団から飛び出して教会を作ったのなら、数年の後には、場当たり的な弥縫策ばかりで矛盾の孕んだ非常に分かりにくい組織になってしまうものなのです。
その歪みに挟まってしまって、教会が第一に掲げる理念と実体がかけ離れてしまっている、その隙間に挟まって教会の矛盾を個人の力量で埋め合わさせられ、疲れ果てた礼拝に参加すること自体やめてしまったクリスチャンを多く見てきました。でも、たいていそれらのキリスト教会、キリスト集会では、その集団自体に問題が内包されているにも関わらず、組織の体質改善に向かわず「礼拝に来なくなったクリスチャンの信仰がダウンしている」等と自己責任論が展開されてしまい、来なくなった人だけが悪者のされてしまい、傷ついたクリスチャンに追い打ちをかけられてしまっていることがあるのです。私たちの教会はそうしたクリスチャンに改めて礼拝する場所(信仰のリハビリテーション)を提供する教会でありたいと願うものであります。

信仰のリハビリテーション” への2件のコメント

  1.  主なる神様と、一人ひとりそれぞれ固有に与えられた深い交わりがあって、その部分が先ず第一にあってこそ、教会が主の愛に満ちた交わりになるはずなのですが、
    しばしばその部分が本末転倒して、無意識のうちに、牧師や教職者との人間関係をはじめ、教会での人間関係の上手さが、ともすれば、そのまま信仰の深さや正しさの程度であるかの様に誤解してしまう傾向を感じています。
     (私の信仰20年目の勝手な実感ですが)人間だれしもあらゆる人が、クリスチャンでなくても、聖書の文言を知らなくても、主なる真実の愛を本能的に探し、見つけ出し、そこに還る能力をあたえられているのではないかと確信するようになりました。
     これからますます、主なる神との、それは時にとても孤独な、交わりを通じ、そして与えられる、あらゆる兄弟姉妹との交わりを通じて、本当の全人格的な祈りとは何なのか、福音を述べ伝えるとは何なのか、地上での残りの時間をかけて考えていくことを生きがいにしたいものです。

    • コメントありがとうございます。イシヅカ様が20年間にいろいろと教会内の人間関係で傷つき悩んでこられたのだろうとお察しします。その傷を神様が癒してくださるようにと願います。
       そして、この世の罪人の集まりである教会をみるときや、そこで横行する聖書からかけ離れた解釈や素行をみたときに教会に集う気が失せることもままあるかと存じます。その思いにはできうる限り気持ちを寄せたいとも思います。
       しかし、なおそれでもご自分の属する(もし属する教会がさだまっていらっしゃらないのであれば)教会を探し、教会で礼拝し、教会で聖書を学ぶことをお勧めしたいです。なぜなら、もし、イシヅカ様のおっしゃるように、聖書が無くても本能的に神に到達できるなら神は聖書をこの世に残さず、一人一人の心に直接語り掛けることに重きを置かれたのではないでしょうか?しかし、私たちの神様はそうなさらず、人類の歴史の中に「聖書」を残されました。人の認識や確信は一人の人の中でも若い時と年を取ったときとでは感じ方が違い移ろいやすいからです。ましてや、人から人に伝えようとすればますます歪むからこそ、神様は命がけで聖書をしるす預言者をこの世に何人もおこし、神ご自身の考えを人間の側が勝手に解釈してゆがめられることがないように文面にして残されました。神様は全ての人に神を求める思いを潜在的にには与えていらっしゃいますが、人間側の「探求」では決して正しい神観や救いに達しないというのが神の側から「啓示」として与えられた聖書のメッセージではないでしょうか?
       また、人が集まり教会を作れば、そこに政治や人間関係が生まれます。そういったモノで神が見えにくくなるのであれば教会をなくし、個々人がそれぞれ神を悟ればよいようにも個人的には思いますが、神はそうもなさいませんでした。2000年前のペンテコステの日に教会をおつくりになったのは他ならぬ神様であり、聖霊であり、それはイエス・キリストの意向でもありましたし、教会によって福音が広がることを神様ご自身が願われたことでした。教会は罪びとの集まりで間違いを起こしやすいのですが、かといって教会なしに個々人が私的解釈をして自分勝手に神を求めればもっとひどい状況になるからです。自分勝手な神観に基づいて自分勝手な神礼拝をし、当人はまじめでもかえって神の怒りを買うような様子が旧約聖書の士師記等に反面教師としてえがかれています。
       つまり神様の側からは人間の側に「聖書に基づき、教会を通して全人学的に交わりを保ちたい」ということをご意向として、異論を許さない形で既にはっきりと人間側に提示されていらっしゃる訳で、それ以外の方法で神を求めることは結果として、神のご意向に異を唱えることにはなりはしないだろうか?と私共はかんがえております。
       わたくし共の教会も含めて決して神様を100%喜ばせている立派な教会とは思いませんが、しかし、少しでも神のご意向にそって謙遜に礼拝し、宣教に携わらせていただきたいと願っております。
       何分、直接顔を合わせるわけでもなく、文面だけのやり取りなので、イシヅカ様のお気持ちを100%くみ取ることもできていなければ、イシヅカ様に当方の考え方を100%伝えることもできていないかもしれません。もし、誤解や言葉足らず、不快な表現があればどうか主にあってお許しください。

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