信仰の根性論?

キリスト教カウンセリングの世界では
「キリスト者は問題を知らなくても、問題の解決方法を知っている」
と自嘲を込めて言われることがあります。

と、言いますのは一部の教会指導者のもとに信徒が相談にいくと、どのような
悩みを相談しても

  • 「祈っとけばなんとかなる」
  • 「教会に集っておれば神様が省みてくださる」
  • 「聖書をひたすら読めば適当な聖句が与えられる」
    なんていう指導がされることがあるからなのです。

でもそれって聖書から説くというよりも
「怪我をしただって?だったら、傷口にツバつけとけ!そのうち治る」
っていう類の体育会系の根性論のようなものではないでしょうか?

いえ、「根性論がすべて悪い」と言っているわけではありません。そのように指導されるのは
きっと、その教会指導者自身もそのようにして、神様に解決の手段を頂き、神様の救いを体験したからでしょう。体験にもとづく証は大変説得力があります。

しかし仮に「根性論」で傷が治ったとしてもそれは、
「唾液の中に含まれている リゾチーム、過酸化酵素、IgAという成分がバクテリアの繁殖を抑えてくれるから」
という列記とした衛生学的なメカニズムがあるからなのです。また逆に「唾液によって口腔内の雑菌が傷口に付着して悪化した」ということも説明できるわけですね。

信仰生活の中で試練にあって傷ついた人に対して根性論を振りかざし、指導した側は純粋に良かれと思ってやっていても、それは実は聖書の教理的には極めて問題があるということもまたありうるわけです。

先のたとえで「傷口に唾をつければ治る」という根性論ですらそのメカニズムを説明できたように、信仰の世界においても悩み解決のメカニズムが存在するのです。

  • 何故、その悩みを人(わたし)は「悩み」として認識するのか?
  • その「悩み」はどこからやってきたのか?
  • どのように変化すればその悩みを解決したと自分では判断できるのか?

という類の質問は

  • 聖書が語る 神様から離れてしまった人間(わたし)とは何者か
  • 聖書が語る 悩みの根っこである「罪」とそこからの包括的な「救い」
  • 聖書が語る わたしたちに救いをもたらす神とはいかなる存在か?

等等のメカニズムを知っていくことによって、体系的な学びをしていくことによって、絡まりきってしまった「悩み」を原因からゆっくりと教理的な側面からほぐしていくこともできるのです。

そうでなければ『僕はこう思う』『私はこう思う』という水掛け論に陥り、その見解の相違が生じれば小さな教会においてはその教会指導者は実質的に教会のオーナーであり、不承不承でも従うかさもなければ信徒の側は教会を去るよりほかできないのです。

私たちの教会はそのようにして教会をなくなく去らざるえなかったあなたの一助になりたいと考えています。


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