ノアの大洪水・上 (創世記6:6)2014年6月1日のメッセージから

1、聖書と映画に共通するテーマとは?

今月6月13日から「ノア~約束の舟」の映画が上映されます。そして、各国のこの映画が聖書的な否かということで論争を巻き起こしています。が、この映画には神様に対する罪とその裁きとしての世界を覆うほどの大洪水があることを伝えている点に関しては、聖書に触れることのあまりない日本人にとっても正しくて、良いメッセージだと思います。

2、ノアの箱舟はフィクションか?

創世記11章以前の物語は太古史とも呼ばれ、神話、おとぎ話としてみられることも多いのは確かです。それはそれだけ現在の何倍も生きる人間の寿命、現在では考えられない異常気象、奇跡の数々が書かれていることが私たちの常識に反し受け入れ難くしています。私たちの常識である自然科学は同じ環境下に置かれた時に再現性があるものを科学的とします。このノアの物語は私たちと同じ地球環境下ではなく、タイムマシンに乗って対照実験をすることなど不可能なのですから、現代の常識にとらわれてこの物語の語りかけるメッセージの主題を見落とすことのないようにしましょう。

3、映画と聖書の違う点

2時間の映画という制約をうけるために登場人物の人間関係を整理し、ノアの箱舟に乗って救われる人数が映画と聖書では違います。映画では6人、聖書では8人です。また、ノアの物語に出てこない創世記4章のトバル・カインが映画に登場することが非難されていますが、カインの末裔である彼がノアの時代にまで生きていた可能性とカインの家系が途絶える最も妥当な理由はこの洪水であることを考えれば全くない話ではないのです。

4、この洪水物語が伝えたいこと、 

海外では先行して封切されていますので、この映画をみた日本人の目には世界を水で一応に神は自分勝手だとか残虐に映るようです。しかし、その誤解は神が主権者であることを覚える必要があります。この地球の「仮の支配者」である人間でさえ、ある動物を絶滅させ、ある動物を寵愛し、ある動物は食べるため繁殖させ、ある動物は駆除するのです。神は全ての命の源である造物主であることを認めた時にその批判は当たりません。そして、映画でも聖書でもこの部分はぶれていないと感じます。

5、時には誤りなき聖書という信念が聖書を誤らせることもある。

私は、学生時代にアメリカのテキサス州にある想像証拠博物館にいったこともあるくらい、創造科学を学び(はまり)ましたので、進化論が今をもって決して証明された科学的な法則では全くないとは断言できますし、進化論者も既存の進化論には欠陥が多くあるところは認めているところです。しかし、それでもなお、聖書の記述が正しいからといって、それを科学的に弁明しようという態度には共鳴いたしません。もし、そうするのならたちまち聖書よりも科学の方が正しくて科学によって聖書は正しさを証明してもらわなければならないものだといっていることになるからです。進化論をもって聖書を否定しようとする人も、創造科学をもって、聖書の正しさを証明しようとする人も結局「科学信仰」になってしまい、同じ穴のムジナになってしまうのです。

ここは教会です。そして、私は科学者ではなくて、一介の聖書読みですから、聖書のお話をしましょう。そして、時には「誤りなき聖書」という信念が聖書を超えてしまい、聖書を誤らせることすらあるのです。2例ほどご紹介しましょう。

(1)例えば立派な聖書信仰を言い表したマルチン・ルターはコペルニクスの地動説を否定し、同説が聖書的に間違っていることを聖書をつかって証明してしまいました。

ヨシュア記の8:13 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。

ルターは『もし、聖書が地動説を支持しているのならこのヨシュア記8:13で「太陽がとどまった」と書くのではなくて、地球の自転を止めたと書くはずだ。よって聖書は天動説を支持している』とうそぶいたのです。

今考えれば「日が留まる」という表現そのものは天動説でも、地動説にも抵触しないはずです。地動説が明らかになった今でも、「日が昇る」とか、「日が沈む」と慣用表現をして、さも地球が止まっていて太陽が動いているような言い方をする訳ですから・・・。21世紀の今、ルターが使った天動説が正しい証拠としてその個所を用いるのなら逆に聖書が間違っている証拠になってしまうでしょう?聖書は今も昔も正しいのですが、自分の信念を無理に聖書に投影しようとした時、聖書を間違ったものにしてまで自分の信念を正しいものとしてしまうことになるのです。

(2)今日のテキスト、創世記6:6も、かつて固い信念の持つ人々によって捻じ曲げられた個所でした。新改訳聖書では、

 それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

とありますが、ギリシャ語70人訳聖書では「考える」と訳されていたのです。ギリシャ語70人訳聖書は紀元前に原典のヘブル語から翻訳聖書で、あのパウロも使用していた非常に権威のある聖書です。70人訳聖書の翻訳者が不信仰だから聖書を改竄したのではありません。むしろ信仰篤き人達でした。そして、神が聖であること、神が全知であること、そして全能者であること、絶対主権者であることを信じていました。しかし、そのように信じていたからこそ、その信念が、聖書を「神が悔いる」とは訳さず、「神は考えた」と訳させたのです。
全知全能で完全無欠な神様が計画を誤られるようなことは絶対にないはずだ。よって後悔するようなことなど絶対にないはずだ。その信念が、6:6を「神や悔いた」とはっきり書いてあるのに、「神は考えた」と訳させたのです。

先ほどのヨシュア記にしろこの創世記6:6にしろ、人の側の信念が聖書を曇らせるのです。ギリシャ語70人訳の訳者が信じていた完全無欠な神を私も信じます。しかし、このノアの大洪水の物語で本当に神が語りたいのは、そこまでして完全無欠な神様が、完全無欠で悔いることがないにも関わらず、なお人間に分かるように人間の感情に当てはめて、言い表すのなら、人を造ったことを悔いるほどに感情を高ぶらせ、揺れ動き、人類救済に情熱を注がれる姿なのです。私たちの神は完全無欠でそのご計画に寸分の狂いもない方なのに、人が神から離れていったことに心を痛められ、こんなつらい思いをするのならいっそ創造しなければよかったと一瞬でも考えてしまうほど、そして次の瞬間からまた一心不乱に人類救済計画を始められるほど「熱い」神、「熱情」の神なのであります。そして、神の人ヨシュアが祈るなら宇宙をも動かすほどの方、実に私たちの救いのためなら、身代りにひとりご子イエスを罪人にしてを十字架にかけるほどの神なのです。

冒頭、この映画をみた日本人が聖書の神を血の通っていない冷徹な神に感じていることをご紹介しました。

「そこで、聖書は正しいと喧伝する兄弟たちよ、あなたがたに問いたい。確かに神は正しい。聖書も正しい。しかし、あなたは正しい神が自らが「正しいこと」以上に伝えたかったことをまだ神を知らぬものに伝えているか。私は正しい神が正しさをかなぐり捨てでも人を思う熱情を伝えたい」

フランシス・ダンビー作「大洪水」

フランシス・ダンビー作「大洪水」