2003年前半(抜粋)
2003.3.2「魂の休み」マタイ11:28-30
2003.3.9「イエス様はどんな方?」ルカ10:38−42
2003.4.6-御言葉に生きる-「 一番大切ないましめ
」マタイ22:36-40 マルコ12:28-31 申命記6:5
レビ19:18
2003.4.20「伝えられるべきイエス様の復活」マルコ16:1-7
2003.5.4「用いられること」マタイ 20:1-16
2003.5.25「言葉について」ヨハネ1:1〜14 創世記1:1〜
2003.6.15「 新しい戒め 」1ヨハネ 3:16-:24
2003.6.29-私達がなすべきこと-「 実を結ぶために
」マタイ 13:24-30
2003.3.2
「魂の休み」
マタイ11:28-30
序)人には休みが必要。 しかし、正しい方法でなくては、休みにならなくなる。
魂の休みは、どこでどのように取るのか。
・魂の休みを与えられるイエス様をこのテキストから見よう。
1.<誰が> すべて(:28)
例外はない。全ての人。
・イエス様は、全ての人に魂の休みを与えて下さる方であることがわかる。
2.<どういう時に> 重荷を負うて苦労している者は(:28)
十分、休みを取って元気な人には、休みは必要ない。
魂に重荷を負うて苦労している時に、人は休みが必要である。
・注意してほしいのは、休みが必要じゃない人はいるが、
イエス様が必要じゃない、求めなくてもいいというのではない。
3.<どこで> わたしのもとに来なさい。(:28)
イエス様のもとに行く。
イエス様のところに行くことが魂の休みへの第一歩である。
私たちも、魂の休みが必要な時は、まずイエス様のもとに行こう。
・イエス様は柔和で心のへりくだった方だから、この方のもとで休みが与えられる。
4.<どのようにして>
@わたしのくびきを負うて(:29)
くびきとは、牛を並べて歩かす為に用いたりする横板。
・イエス様と歩調を合わせて歩むことを意味する。
自分で勝手に進むのではなく、聖書の言葉に聞き従うこと。
聖書を通して、イエス様が今、私に何を語っているのか。
その言葉に従う・・・これがイエス様のくびきを負うこと。
A私に学びなさい(:29)
イエス様に学ぶ。 イエス様ならこんな時、どうされるか。
その答えは聖書にある。
・神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛する。>>>全ての律法がこれにかかっている。
イエス様の愛を受け、愛に生きる。
5.その時に、「魂に休み」が与えられる。
魂に休みを必要としているなら、 イエス様のもとにきて、御言葉に従い、イエス様の愛を受けて、愛に生きよう。
2003.3.9
「イエス様はどんな方?」
ルカ10:38−42
序) 聖書にはたくさんの行動について、書かれています。
私たちは、これを命じておられる方が、どんな方かを十分に知り、味わい、受け止め、受け入れることが必要です。
「イエス様はどんな方?」
1.「愛なる方」
アガペーの愛(無条件の愛)で私たちを愛してくださる方です。
イエス様は 慰め、励まし、許し、癒し、戒め、教える、共におられる、戦ってくださる、備え、羊飼い、覆い、守ってくださる、
これらは、「イエス様が私たちを愛してくださってる」から、してくださること。
イエス様の愛は・・・ ヨハネ15:13、1ヨハネ4:8、1ヨハネ4:10、1ヨハネ4:16
このような最高の愛で愛してくださっているから、
わたしたちを救って下さる。
2.「救い主なる方」
イエス様による以外、救いはない。
イエス様がどんな方・・・という時に、 救い主であることを抜きには語れない。
わたしたちを救って下さり、永遠の命を与えてくださる方は、
イエス様だけ!
決) 無条件で愛しているが故に、私たちにいつも良き方であり、
何よりも私たちを救い、永遠の命を得させてくださるイエス様を
今日も、今週も見上げて歩みましょう。
2003.4.6
--御言葉に生きる---
「 一番大切ないましめ 」
マタイ22:36-40 マルコ12:28-31 申命記6:5 レビ19:18
序)一番大切な戒めは・・・それは今日の御言葉です。
しかし、そのことを学ぶ前に、ひとつ確認しておきましょう。
Tヨハネ4:7- 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって…
「まず神が私たちを愛して下さった。愛して下さっている。」
1.「神を愛する」
2.「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する」
全ての土台、全ての動機は、「愛」からである。
聖書のあらゆることは、 「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」時に、全うされるのです。
3.「これら二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている。」
聖書に書いてあることを実践しようとする、言い換えれば御言葉に生きようとすることは、全てこのふたつの戒めに集約できるのです。
>>>全ての土台
・救われる為には何をすればいいのですか?
>>>悔改めて、イエスの名によるバプテスマを受ける。
・救われた後は何をすればいいのですか?
>>>神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する。
神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する時に、
御言葉に生きることが御言葉を知らない人にも成就していく。
そして、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するのは、
まず、神を私たちを愛し、今も愛し続けて下さっているからなのです。
ここに動機があり、根拠があります。
●わたしたちを愛してやまないイエス様が一番大切な戒めと言われた
「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」
このことに一歩踏み出せる人は幸いです。
2003.4.20
「伝えられるべきイエス様の復活」
マルコ16:1-7
序)イースターはキリストの復活祭。
復活がなければ、わたしたちの信仰はむなしいものとなる。
クリスマスは救い主の誕生という喜びでもあるが、それは十字架での死への第一歩でもある。と思うと苦しい道であるようにも感じる。
イースターは、死からの復活という栄光に満ちた出来事で、悲しみから喜びへの変化といえる出来事。
誕生は人にでもあるが、復活はキリスト以外にない。
そういう特別な出来事がイースターである。
このイースターを記念して御言葉を開いてみましょう。
1)イエス様は完全な勝利をとられた、完全な勝利者
「イエスはよみがえって、ここにはおられない」
霊が甦ったとかそういうものではなく、確かに墓には肉体がなかったのであり、「ここにはおられない」と言われた。
エノクは死を見ずに、天へ神が引上げられたという記事があるが、死んで、葬られ、黄泉に下り、そこから甦って地上で御自身をあらわし、その後、天へ昇っていかれたのは、キリストだけであり、「死」を打ち破り支配するという完全な勝利者。
プロ野球のペナントレース130試合を130勝0敗で優勝し、日本シリーズを4勝0敗で日本一になったらすごい、でも不可能。しかもその134勝が全て完全試合だったら・・・。
イエス様の完全な勝利は、これ以上、こんなことなんでもないほどの勝利。
どんな辛いことや、悲しいことや、落ち込むことや、苦難があっても、死ぬほどのものはない。
私たちにとって、死とは究極的に打ち勝てないもの。
しかし、イエス様はこの「死」を打ち破り勝利を取られた完全なる勝利者であり、このイエス様を受け入れて歩む人生はこの勝利を共有できる人生になるということ。
2)復活は伝えられるべきことであった
「こう伝えなさい」
このことは最後に触れます。
3)イエス様は人にわかる形であらわれて下さる
「そこでお会いできるであろう」
弟子達に出会い、食事をして復活した肉体をはっきりと示された。
疑ったトマスに対しても、傷ついた手を見せ、穴の空いた脇に手を入れてみなさいとまで言われ、明確に示され現された。
具体的にその人に対して、御自身を現して下さるのがイエス様。
イエス様は、私たちの生活の中にも具体的に御自身を現して下さる方。
苦しい、つらい、悲しい・・・そのような中でもイエス様は完全な勝利者であり、そのイエス様を迎えいれ共に歩む時に、その勝利に預かるんだと聞いて、元気になるだけではなく、人生の終わりに振り返ってみた時に、イエス様が御自身を明確に現されたと言えるに違いない。
結論) 「死」というような失望をも打ち破って勝利されたイエス様のもとに行く時に、その勝利を共有し、具体的にあらわれて下さるという恵みがイースターにはあります。
この恵みに預かるものとなるなら幸いです。なりたいですね。
しかし、この恵みを知らずに、「死」と同様な失望の中にいる多くの人もいることも事実です。
このことを思う時に、
2)の伝えられるべきことであった。
ということは重要な意味を持つことであると言えるのではないでしょうか。
ちょっと勘違いしないで下さいね。 「伝えなさい」「伝えましょう」とはいっていませんし、言いません。
「伝えられるべきことであった、ということを知りましょう。」と言っているのです。
今は伝えられなくてもいいです。 今はこの恵みに預かることが先決です。
伝えられるべきことであるということを理解しているだけで、十分です。
その上で、恵みを体験し、「伝えたい」と思ったら、その時に伝えればいいんです。
そう、「伝えられるべきこと」として。
私たちは、まず、完全な勝利者なるイエス様を知り、味わいましょう。
そして、この勝利に共に預かるものになりましょう。
そして、具体的に自分の人生に生活にあらわれて下さるイエス様を体験しましょう。
これらは恵みです。 そして、この素晴らしい恵みであるイースターは、
「伝えられるべきことであった」といつの日か、伝える時が来た時に何を伝えればいいかをを心に留めておきましょう。
この素晴らしい恵みに今日、もう一度あずかりましょう。
2003.5.4
「用いられること」
マタイ 20:1-16
序) 用いられる・・・誰かに頼りにされるということは、基本的に喜びだと思います。
今日は、神様が私たちを用いられる、ということを見ていきましょう。
1.神様は私たちを雇おう(用いよう)とされている方。(:1)
夜明け、9時、12時、15時、17時と一日に5回も雇おうと出かけられている。
たとえ、わずかな時間でもいいから用いてあげたい。。。そんな気持ちなのでは?
それほど、用いたいと願っておられる。 神様は私たちも、用いたいと願っておられる。
2.神様の報酬は不公平?!
これはいい意味で不公平だと言える。
神様は長い時間仕えた人にも、短い時間しか仕えなかった人にも同じ報酬を与えられた。そうしたいと願われてそうされた。
早く信じた人には救いを与えず、年老いて信じた人に救いを与えたという不公平ではない。
早かれ遅かれ同じように救いを与えられるという不公平です。
これは、大きな恵みです。
この事から教えられることを二つ。。。
@イエス様との関係は1対1の個人的な関係であること。
ペテロが、ヨハネのことを、「あの人はどうなのですか?」とイエス様に聞いた時に、
「・・・あなたに何の関わりがあるのか」といわれたように、イエス様との関係は、1対1の個人的な関係であることを知ろう。
神様の前には、みんな同じ神の子。できのよい子もいれば悪い子もいるかも知れないか、神様の目から見れば、みんな
「みんな私の子だ。何ができるできないは関係ない。私の大切な子だ」といわれている。
自分の命を十字架でささげるほどに、わたしたちを愛しておられる方。
だから、ほかの人がこうだから。。。ということを神様の前に言うことはやめて、神様と自分の関係を築こう。
A主に用いられることが喜びとなっているか。(:12)
神様に用いてもらえることは、素晴らしいことであり、特権です。
これは喜びとなるべきもの。。。 早くから救われて用いられているからこそ、
味わう祝福や恵み。知ることのできる神様の素晴らしさ。体験できる神様の奥深さ。
私たちが、神様に用いられることが労苦だと感じるなら、それは健全な心の状態とは言えないでしょう。
もし、喜びと感じられないなら、何か原因があるはずです。
まずは、神様との個人的な関係を見直し、築き直しましょう。
正しい神様理解が正しい信仰に。
結論) 神様は、わたしたちを用いたいと願って探しておられます。
今私たちにできることは、イエス様との個人的な関係を築くこと、そしてそれを深く強くすることです。
神様との個人的な関係を見直し、もう一度築き深め強くし、神様との関係を健全で正しい関係にしていただきましょう。
2003.5.25
---言葉について---
ヨハネ1:1〜14 創世記1:1〜
言葉にはいろんな意味で、力があり、命がある。
神の言葉(聖書)には命がある。
それは・・・
1.言葉は神であった。(ヨハネ1:12)
神の言葉が受肉した(形として現れた)のが、イエス様。(ヨハネ1:14)
そしてこの言葉は「初めにあったもの」>神(創世記1:1)
聖書の言葉を扱う時は十分に気をつける必要がある。
講壇から語られるメッセージは、あくまでもメッセンジャーが聖書を通して受けた悟りである。
メッセージを通して励まされ、慰められ、教えられることは素晴らしいことだが、神の言葉そのものではない。
みなさんが、メッセージを聞いて、励まされたなら、それはそれで受け止めればいいし、恵みです。
ただ、その言葉が神の言葉ではなく、神の言葉を通して○○さんが悟った悟りを通して励まされた、慰められた。
○○さんが体験した神様の話しを聞いて、励まされた、慰められた、力が湧いてきた。。。
神の言葉は「聖書そのもの」であることを忘れてはいけない。
扱うものも注意が必要だが、受け止める側も注意が必要である。
しかし、神の言葉がすばらしいものであり、命を与えるものであることははっきりしている。
2.これ(言葉)によって全てのものはできた(ヨハネ1:3)
天地万物は神の言葉によってできた。 神の創造の方法は、「言葉」による。
私たちに、神の言葉(聖書の言葉)を与えて、わたしたちの内側に良きものを創造して下さる。
私達の中にも、神様は言葉を通して創造の業を始めて下さる。
3.この言葉に命があった(ヨハネ1:4)
私たちはこの言葉をいただいた時、内側に命が芽生える。これは神が無から有を生み出されること。
この命は光となり、闇に勝つ。
●この、御言葉をいただき、内側に命あるものとなるために私たちはどうすればいいのか。
「イエス・キリストを心にお迎えする」(ヨハネ1:9~14)
これは、恵みによる。
心の戸の外に立って戸をたたいているイエス様に気付いたら、すぐにお迎えしましょう。(黙示録3:10)
何か難しい行いをすることではない。イエス様をいつも心にお迎えする。
もし外に追い出してしまっていたら、イエス様は戸をたたいて私たちが戸を開けるのを待っていて下さる。
気付いたら、謙遜になって(その事実を認めて)、イエス様をお迎えしよう。
そう、クリスチャン生活とは、とてもシンプルなものなのです。
「イエスさまをお迎えする」これがスタートであり、永遠の課題かも知れません。
2003.6.15
「 新しい戒め 」
1ヨハネ 3:16-:24
序) 新約の時代にイエス様が来られて、私達に新しい戒めを与えられた。
その戒めというのが、 「私(イエス様)があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。」
です。 この戒めについて順に見ていきましょう。
1.イエス様の愛を知る。
「私があなたがたを愛したように・・・」
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」
新しい戒めを与える前には、その理由、動機付けが必要だと思うのです。
イエス様も私達に新しい戒めを与えるにあたって、その理由、動機付けを与えられました。
「私があなたがたを愛したように・・・」 「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」
ヨハネも、 1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
と言っています。 私達もまず、この神の愛を知りましょう。深く味わいましょう。ここがスタートであり、絶えずここからスタートすべきです。
まず神が愛して下さった、その愛を知った、その愛を受けた、その愛が今も注がれている。
これがスタートであり、帰って来るところです。
そして、その愛を知り、受け止めて、初めて「互いに愛し合う」ことができるのです。
2.互いに愛し合う。
「あなたがたも互に愛し合いなさい。」
「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」
私達が愛し合うという時、行いと真実とを持って愛し合うということが必要なのではないでしょうか。
失敗することもあるかも知れません。愛せない時もあるかも知れません。
いいんです。その時はもう一度、神の愛を知りましょう。味わいましょう。溢れるばかりに受け止めましょう。
そうしたら、きっと、神はまた、愛し合う愛の力を注いで下さると信じます。
実践できることから、「愛し合う」実践をしましょう。
そして、その時に、私達は神様の中におり、神様も私達の中におられることを見るでしょう。
3.神と共にいる。
「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」
「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。」
以前、一番大切な戒めというお話の中で、神を愛し、隣り人を愛することについてお話しました。
この戒めを守る時、聖書の全ての律法は全うされるとまでいいました。
確かに、そのとおりです。あなたが隣り人を愛する時、その律法は全うされます。
でも、その隣り人はあなたの愛をどう思うかはわかりません。またあなたを愛してくれないかも知れません。
でも律法は全うされているのです。「愛しなさい」ということを守り実践したわけですから。。。
しかし、今日お話した「互いに愛し合いなさい」という戒めは、あなた一人が相手を愛したからとて、全うされるものではないの
です。 あなたも愛し、相手もあなたを愛する時に、全うされるのです。
だから、聖書は、「あなたがた」と言っています。
私達クリスチャン同士が愛し合う時に、この戒めは全うされるのです。
この戒めは、個人に言われたというよりも、むしろ、主の名によって集う人々へ言われた戒めと受け止める方が自然です。
そういう意味で、教会に属するということは大切であると言えるのかも知れませんね。
お客さんとして、礼拝だけ守りに教会に行く、、、これもありですが、そのような信仰生活だけでは、この戒めはなかなか実践で
きないと思うのです。 しかし、教会というイエス様によって集められた人々の中で、互いに愛し合い、仕え合い、祈りあい、、、という中で、この戒め
を実践することができる。 その中で、愛し合うことに困難を感じることもあるでしょう。礼拝だけの人はその困難は体験しないかも知れません。
でも、困難を感じるからこそ、また、神様の愛を知ることも深く味わうことも、体験することもできるのだと思います。
そして、わたしたちが愛し合い、それを人が見る時に、人々は私達を主の弟子であると認めるのです。
その結果、全ての人に対して、証しとなり、宣教となる。
互いに愛し合いましょう。
2003.6.29
-私達がなすべきこと- 「 実を結ぶために 」
マタイ 13:24-30
マタイ13:37-43
序) 私達が成すべき事は、「神を愛し、自分を愛するように人を愛する」ことです。
神様は御言葉を私達に与え、その基準を示し、実を結ぶように備えて下さっています。
今日は、私達が成すべき事をする時に注意すべきことについてみていきたいと思います。
1.毒麦がまかれている。そして終りの時までそのままである。
私達が今存在している時代は、確実に終わりに近づいていますが、毒麦がまかれている時代であります。
私達の周りには、こんなのがいつまでも存在していていいのか?と思えるような時代なのです。
同じように実を結んでいるようにも見えるかもしれません。
でも、そのようなものが存在するということを覚えておく必要がある時代でもあります。
2.よい麦と毒麦との見極めは難しい。
毒麦を集めようとして麦も一緒に抜くかも知れない。と主人がいうほど、その見極めは難しい。
「人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて・・・」ともあります。
御言葉とは、材料そのものだと思っていいでしょう。
御言葉そのものは、材料。玉子、キャベツ、にんじん、大根・・・
そのままでは、赤ちゃんは食べられないですから、調理し、細かくし、柔らかくして食べます。
御言葉もそのようなもの。 玉子ひとつとっても、卵焼き、目玉焼き、だしまき・・・
ホントの素材の味は、そのまま食べることが一番です。
でも、おいしく食べたいから、調理します。
でもそのなかには、余分なものも入っているかも知れません。
メッセージを聞いて、「素晴らしい、おいしかった。」という時は、気をつける時かも知れません。
なぜなら、余分なものが入っているからかもしれないからです。
そういう時は、帰ってから、落ち着いてもう一度、メッセージで語られた聖書の箇所をもう一度読んでみるといいでしょう。
素材そのものがわかるからです。 そして、神自らが貴方のために調理方法を教えて下さいます。
うす味が好きな人もいれば、濃い味好みの人もいるでしょう。
煮物が好きな人もいれば、焼き物好みの人もいるでしょう。
その時々で、食べたいものも違うでしょう。
でも神は全てご存知な方ですから、あなたにぴったりの料理法を教えて下さいます。
正しいのかどうか見極めるのは難しい時代なのです。
だからと言って、わたしたちはそれを見極めるために、聖書に精通し、見極めるようにならなければならないのでしょうか?
3.毒麦を集めて焼かれるのは、終りの時に神様が御使いを通してすること。
それらを見極め、裁きをされるのは、神様と御使い達です。
それは終りの時になされることです。
ですから、わたしたちはそのことを裁かないようにしましょう。いや、裁けないと言った方がいいかも知れませんね。
毒麦も実を結びます。その実は、ちょっと見ただけでは良い麦の実と見分けがつきにくいかも知れません。
じゃあ、わたしたちはどうすればいいのか。。。
決)私達は自分達が神様の前に良い実を結ぶことだけに集中すればいい。
私達は、人やものを基準にせずに、聖書を読み、神様が私達に示しておられる道を聞いて、これに歩み、神様の前に実を結ぶことだけに心を注いで生活すればいいのではないでしょうか。
・毒麦らしきものを周りに見ることもあるでしょう。>実際に存在している時代なのですから。
・毒麦かも知れないと思うけど、判断できないでしょう。>御使いでさえ見極めが難しいのですから。
・毒麦かも知れないものが裁かれないのが不思議に思えるでしょう。>裁きは終りの時に、神様が御使いを用いてされるのですから。
私達は、これらのことに注意しつつも、 自分が神様の前に喜ばれる実を結ぶことだけに集中したいものです。
聞く耳のある者として、神様の前に歩む人は幸いです。
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