2004年1月〜4月
2004.1.4「 すべてのはじまり 」創世記1:1〜5
2004.1.11ー約束の地を目指して。No.1ー「ヨシュアと約束の地」ヨシュア1:1-9
2004.1.18「忠実であること」マタイ 25:14-:30
2004.1.25ー約束の地を目指して。No.2ー「 備えと約束の地。」ヨシュア1:10-18
2004.2.1「 羊と山羊 -愛と無関心-」マタイ 25:31-:46
2004.2.8ー約束の地を目指してNo.3ー「斥候と約束の地」ヨシュア2章
2004.2.15「よい事をする人」 マルコ 14:3-:9
2004.2.22 -約束の地を目指してNo.4- 「ヨルダン川を渡ろう」 ヨシュア3:1-:17
2004.2.29「イエス様の備え」 マルコ14:12-:16
2004.3.7 -約束の地を目指してNo.5- 「記念の石を積み上げよう。」 ヨシュア記4章
2004.3.14「弱さの中に、イエス様」 マタイ 26:30-35、マルコ 14:26-31、ルカ 22:31-34、ヨハネ 13:31-38
2004.3.28「救いへの道」 ルカ 23:39-43
2004.4.4-約束の地を目指してNo.6- 「聖なる備え」 ヨシュア5:1-15
2004.4.11イースター 「復活のイエス様は共に」マルコ16:1-8
2004.4.18「共に歩まれるイエス様」 ルカ 24:13-:32
2004.4.25「イエス様とわたしの関係の中で」 ヨハネ21:15-23
2004.1.4
「 すべてのはじまり 」
創世記1:1〜5
序)はじまりはとても大切です。始まりがなければ、プロセスもないし、終りもない。
やはり始まりはとても大切です。
今日は聖書の一番最初、わたしたちの歴史の始まりである、創世記1章1節から教えられたいと思います。
神様ははじめに何をされたでしょう?
1.天と地を創造された。
@天を創られた。
天は、希望を意味するのではないでしょうか。天国への望み、天へ向かう永遠の思い、天・目標や目的に向かう希望。。。
私達は希望なしには生きていくことはとても虚しく困難かも知れません。
神はまず天を創られました。希望を私達に創って下さいます。
聖書を通して私達に希望を与えて下さいます。
また、私達のうちに神様が働きかけて、希望を与えて下さいます。
ピリピ 2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
神様は聖書によって、また私達のうちに働きかけることを通して、希望を与えて下さるのです。
A地を創られました。
地は土台を意味するのではないでしょうか。
砂の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人の譬が聖書にでてきますが、まさにそこは「地」です。
私達は岩の上に家を建てたいですね。
神様が創られた土台を私達の土台としたいです。
まさに「聖書-イエスキリスト」がその土台です。土台がなくして「希望」の実現もありませんし、希望をなくして土台が活きることはありません。
土台をどんなにしっかりと作っても上に家をたてなければそれは何の意味があるのか?と疑問に思います。また、土台をしっかりと据えずに家を建てるならば、その家は長くは持たないでしょう。
Tコリント3:10〜11 3:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。 3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
私達も揺るぎ無い土台を作りたい。いや、イエス様を私達の土台とするならばそれはその土台は揺るぎ無い土台です。
イエス様を賛美し、イエス様を礼拝し、イエス様に祈り、イエス様と交わり、イエス様に聞き、イエス様に満たされて行く時に、 それは、土台であるイエスキリストを据える作業をしているのです。
土台は大きければ大きいほど、しっかりしていればしっかりしているほど、大きな高い建物を建てることができます。ですから、土台に据えるのに、時間のかけすぎなんてことはありません。なんぼでも時間をかければいいんです。
でも、そろそろ上に家を建てたくなる人もいるでしょう。ならば、そろそろ建てはじめてもいいのではないかと思います。
希望に向かって。。。 私達は神様が最初に創造された天と地、希望と土台を正しく健全に聖書、イエス様によって持ちたいと思います。
さて、ここでひとつ気を付けておきましょう。
2.神の霊が水のおもてをおおっていた。
:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
私達が希望を持ち、土台を据え、スタートしますが、中には明るい状態じゃないかも知れません。
創世記の最初もそうだったようです。しかしその中でも神の霊がおおっていたと書いてあります。
そう、わたしたちのどんな状態の時も神の霊がおおっているのです。
ですから、神がおられないと感じるような時も神の覆いのなかにいることを覚えましょう。
神が全てを支配しておられることを覚えましょう。そうするならば、神様はその後に「光あれ!」と言われることでしょう。
そして、神はその光を見てよしとされるのです。
結)私達は希望と土台をイエス様によって創っていただきましょう。
でも、それらは、喜ばしいものばかりではないかも知れません。その時も神の霊がおおってくださっているのです。
そのことを忘れずにいましょう。いずれ神は光あれと宣言し、わたしたちに素晴らしいものを見せて下さるに違いないのです。
祈りましょう。
2003.1.11
ー約束の地を目指して。No.1ー
「ヨシュアと約束の地」
ヨシュア1:1-9
(序論) モーセの死後、神様は、新しいリーダーとしてヨシュアを召されました。
イスラエルの人々は、そのリーダーシップに従っていくように導かれました。神様は彼らに、これからの計画を示されました。
この新しい年、神様が持っておられる計画を、私達も信仰によって受け取っていきたいのです。
人類を救う計画は、アブラハムの召命から始まりました。彼は、神から示された約束の地、祝福の地カナンに、信仰のみで出かけていきました。それから400年後、エジプトで一大民族として成長したアブラハムの子孫は、モーセに率いられ、再び約束の地、カナンを目指すのです。アブラハムも、出エジプトのイスラエルの民も、そしてイエス様の時代以来、2000年経った現代のイスラエルの人々も、一様に慕い続けるこの約束の地カナンです。まずそこで、この約束の地とは、どのような地なのでしょう。
1、危険な地:
「絶えず存在をおびやかされ、揺れ動く地。」
アジアとアフリカの中間地帯/陸のブリッジであるカナン。アジアの食料に富んだ国エジプトへの侵略の驚異。
「厳しい自然条件が出現する地。」
海と砂漠の中間地帯/夏(5月ー9月)は、砂漠の影響で、雨の降らない乾燥地帯。冬(11月ー3月)は、海の影響で、雨期となる。4月と10月は季節の変わり目で、不順な天候。 「民族間のせめぎあう地。」
砂漠民族(地域性、アンモン、ミデアン、アマレク人など)と海洋民族(国際性、ペリシテ、ギリシャ、ローマ人など。)
2、信仰訓練の地:
祝福か裁きかの地であって、約束の地は、「乳と蜜の流れる地」であり「天の雨で潤っている地」であるのです。しかし、その祝福は、無条件に与えられるものではなく、神に忠実に従う者に与えられるということなのです。もし、イスラエルの人々の心が他の神々に向かうなら、その約束の地は、逆に彼らを裁く地になり、祝福をもたらすのも、裁きをもたらすのも、そこに住む民自身の責任なのです。
ですから、信仰訓練の地、カナンといった場合、そこに思いを馳せると、全てが順調、何の問題もない信仰生活というものは、非現実的なものだということです。困難や問題がないことが信仰生活の祝福のしるしではないのです。主は愛する者を訓練し、弱さの中に神の力があらわされるのです。人生のカナンで試練に直面したとき、私達はそこに神の深い計画があることを認めて祈りましょう。
約束の地とは、神の備えられた祝福の地です。しかしそれは、危険な地でもあり、信仰訓練の地でした。
主は、祝福と繁栄の神様です。それを与えようと待っておられ、その具体的な方向と方法を示される方です。
1、ヨシュアへの命令。
(1)与える地へ行きなさい。 :1主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、:2「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。:3あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。:4あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。
「5つのキーワード」があります。
1、わたしのしもべモーセは死んだ。
2、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、
3、このヨルダンを渡り、
4、足の裏で踏む所はみな、
5、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。
1、わたしのしもべモーセは死んだ。
あまりにも偉大だった先の指導者モーセが死んでしまったのです。民にとっては、今後、誰に従い、誰をリーダーに歩んでいけばいいのか、色々と途方に暮れ始めていたはずです。イスラエルの民は、試みられるのです。しかし、ヨシュアにとっては、途方に暮れている暇はありませんでした。なぜなら、彼に主は計画を示されていくからです。もう一度、モーセの時だけではなく、全ての民を率いて、ヨルダンを渡り、主がイスラエルの民に与えようとしている地に行きなさいという事でした。モーセが生きている間は、進行しなかった事でした。モーセですら、それをなし得なかった事でした。新しい進展は、モーセの死と共に始まるのです。主の声を聞き、前に向かっていくしかないのです。なぜなら「主が始めておられる」からです。主の動きに遅れてはいけないのです。先に行き過ぎては行きませんが、一緒に進んでいかなくてはいけないのです。
2、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、
主は、ヨシュアひとりに、言われたのではなく、「全ての民に主の心」はあるのです。一緒に約束の地に向かっていく事です。一致して、心を一つにしてです。団体行動ですから。ヨシュアも最初は、大変な仕事を任されたなあ、できるかなあ、不安も恐れも、プレッシャーも、また期待もあり、複雑だったでしょう。しかし、みんなと一緒に、と思いを知らされた時、不安もあったと思いますが、互いが助け合い、祈り合い、支えあう事の大切さと、主にあってできるという信仰も強くなってきたことでしょう。しかし彼を支えたものはそれ以上に、彼の中にあった「主の召し」がそうさせたのです。召しとは、天職であり、そこに置かれるとき、最高の喜びと平安、最大の力を発揮することが主によって許されているからです。それは民にとっても同じです。 モーセの後をついで、ヨシュアがこの後を任されていくことは、すでに申命記で、モーセを通して、ヨシュアは語られていくのです。モーセのもとでずっと仕えてきたヨシュアは、その中での、イスラエルの民の中にあった強さ、弱さを全て理解していたことでしょう。モーセの中にあったそのリーダーシップの強さも弱さも、そして主がどのように働いてこられたかも。。。
3、このヨルダンを渡り、
ヨルダン川を渡るということは、川の西側の地に行く事であり、その地に攻め込み、攻め取ることであるのです。新しい領域へ入っていくことを意味します。モーセは紅海を渡り、ヨシュアは、ヨルダンを渡るのです。バプテスマの象徴であるかは別として、古い地から新しい地へ入っていくのです。古い人生の脚本にさようならしていくのです。クリスチャンは、福音の恵みによって救われ、今、新しい約束の地の祝福を獲得している人生なのです。救われた者としての人生のすばらしさを構築している者なのです。(ヨルダン渡河については、また次回のメッセージで。)
4、足の裏で踏む所はみな、
そのために、彼らが、自分の足で踏むのです。敵を踏み付け、主の主権によって、信仰の足で治めていくのです。 その足跡は、恵みの主の足跡となるのです。
5、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。
「わたし」が強調され、主が与えられるのです。主が始められた事であることをまず、何よりも受け止めておかなくてはなりません。そして、「与える」とありますが、約束がすでに成就したかのような主の宣言です。主の計画の中ではすでに、与えて下さったものを、人々は信仰と従順によって、自分たちのものとして獲得して行くのです。与えられる領土の範囲も示されているのです。(4節)南部は、耕作に適さない荒野。西部は、地中海。北部は、レバノンとその近接地帯。東部は、遠くユーフラテス川に至る広大な地域です。そこには、7つの民が住んでいるカナン全土を含んでいます。しかし、イスラエルが全地域を獲得したのは、ダビデとソロモンの時代だけでした。
(2)強く、また雄々しくあれ。
:5あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。:6強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。:9わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。
「強く、また雄々しくあれ」はこの章だけも4回。強く、また雄々しくある態度の動機は、主があなたを見放さない、見捨てないからです。この事を知る時、主の強さを感じます。雄々しくされていくのです。主はエールを、励ましを送られる方です。最高のサポーターです。
主はあなたと共におられるのです。主の臨在の祝福です。いつも主の臨在、すなわち、私達の集まりに、交わりに、主が共にいて下さる、しかし、主が喜んでそこにいたいという集まりを目指さなくてはなりません。そのような時、主の強さを感じることができるのです。この世を恐れない力が注がれてきます。主の臨在のある礼拝を慕い求めましょう。主の臨在のある交わり、集まりとなりますように。成熟に向かった、主にあって強いクリスチャンを目指しましょう。
(3)律法を守り行いなさい。
:7ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。:8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。
後のイスラエルの堕落をご存知であった主です。だからこそ、神の言葉によって互いが正しい判断と人生を歩むことを執拗に訴えられたのです。なぜなら御言葉を通して、主はあなたに語られるからです。なんと幸いなことでしょう。
「これを離れて右にも左にも曲がってはならない。」 御言葉は、足の灯、道の光です。明確に照らす存在ということです。曲がってはならないとは、心の問題です。過去の傷や疑い、不信仰という曲がってしまった部分は、神様によってしかまっすぐにはされないのです。まず神様とあなたです。そして他の人です。関係に傷ついた人は、関係の中でしか癒されないのです。代用品はないのです。関係は関係の中で、取り扱われるのです。環境やその他がその代わりにはならないのです。
「口から離すことなく、昼も夜もそれを思いなさい。」 大切な事は、御言に親しくなり、教えられ、そして、主を知ること!が目的なのです。すると主の言葉に燃やされて、押し出されて、アクションが生み出されていくのです。確実です。神からのアクションはあなたを変え、あなたの歩みを変え、この世を変えるほど力あるものなのです。聖書は生きた言葉だからです。命は命を生み出していきます。光はさらに輝きを増していきます。あなたの心のある所には、宝がある。とあるように、いつも何が一番、価値あるものとしなくてはならないかを認識しましょう。情報過多の時代、目まぐるしく日々が進んでいく加速化の時代においてなおさらです。今年も豊かに主を知る年となりますように。
「そうするならば、あなたの道は栄え、勝利を得る。」 御言葉に歩むなら、あなたの道は、神様の道なのです。その意味は、すべて神様の良き物を約束どおり、喜び、繁栄、勝利を相続、共有するのです。
(結論)あなたにとって、約束の地とはなんでしょう。主が約束して下さって地です。目指すべき地です。 約束の与えられた地へ、強く雄々しく、恵みの律法に従いながら、前進しましょう。
2004.1.18
「忠実であること」
マタイ 25:14-:30
序) この箇所はそれぞれ5、2、1タラントを預かった者の話しですが、まずはこのタラントという通貨の価値を見てみましょう。
1タラントは6000デナリです。1デナリは当時の一日分の労働賃金であったようです。
例えば日当1万円だとすると、1タラントは6000万円ということですから、5タラント預かったものは、3億円ということになりますね。
じゃあ1デナリが1日の労賃なら、一年で約300日働いたとすれば、年収は300デナリです。
ということは1タラント(6000デナリ)は20年分の年収ということになりますね。
年収300万円なら6000万円 年収400万円なら8000万円 年収500万円なら1億円が1タラントということですから、 5タラントというのは、3億円から5億円ということになりますね。
2タラントは、1億2000万円から2億円。 どちらにせよすごい金額です。
こんな大金を預かった3人はそれぞれの行動に出ました。
なんと5タラント預かった人と2タラント預かった人はこの大金を使って商売をして倍にしたのです。
なんと大胆な人でしょう。商売がうまくいったからよかったようなものを失敗したときのことを考えると・・・。
ところが1タラントを渡されたものだけは、地を掘りこれを埋めたようです。この方が少なくとも減らすことをしないのでいいようにも見えます。
さて、その結果とその時の主人の言葉から、わたしたちは神様が私達に伝えたいと願っておられるメッセージを見ていきたいと思います。
1.預かった者の姿勢、態度を見られた。
『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』 この言葉は、5タラントで5タラント儲けた人も、2タラントで2タラント儲けた人にも全く同じ言葉をかけられています。
主人は儲けた額に対して評価されたのではなかったようですね。
「忠実」という言葉がこの短い言葉の中に2回も出てきます。主人はこのしもべの預かった者に対する忠実さを見られたのでしょう。
仮に商売に失敗して減らしてしまった時に、主人はどうしたでしょうか。
これは私の推測ですが、「そうか、失敗してしまったか。しかしよくがんばった。忠実に取組んだことを私は知っている。ではもう一度、5タラントを預けるから、やってみなさい。」といわれるような気がします。
神様は私達にいろいろなタラントを与えて下さっています。これは、自分のものではありません。
神様から与えられているものです。ある人は1タラント、ある人は2タラント、ある人は5タラントかも知れません。しかし、その与えられているタラントに対して忠実な態度・姿勢で用いるならば、それは10タラントにも20タラントにもなる可能性があるのです。
与えられているものだということを忘れてはなりません。 まるで自分のものだと勘違いして、大事にもっているだけで使わないのでは、神様はその態度や姿勢を悲しまれるのではないかと思うのです。
私達が与えられているタラントを神様から預かっているものだと自覚できるならば、これを使って神様をお喜ばせしたいと願うのではないでしょうか。与えられているタラントに忠実であることはそれを用いることでもあります。
その時に、その実を結ぶことができるかも知れません。そして更に大きなタラントを神様から預かることになるでしょう。
さて、ここで1タラントを預かったが地に隠しておいた人に言われた主人の言葉を見てみましょう。
『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
ひどいですね(笑)
余談ですが、この時代にすでに銀行があったんですね(^^;
もしこの主人がお金を確実に増やしたいだけなら、この8タラントを銀行に預けたでしょう。そうすれば、かなりの利子を得られたでしょうから。しかし、しもべたちに預けたのです。これは、お金を増やすことが目的ではないことを意味するのではないでしょうか。
1タラントを預かった人は失敗を恐れて・・・これは少しでも減らしたもんなら、ひどいことにあうと思っていたのでしょうか・・・地に隠しておいたので、一銭たりとも減らしてないのです。それにもかかわらず、ひどく怒られ、取り上げられ、すでに10タラントも持っている人にあげてしまったのです。
ここからも神様のメッセージを見ましょう。
神様は私達に多い少ないの差はあっても、タラントを与えて預けて下さっています。そのタラントを用いないならば、その人に持たしても意味がなくなるのです。ですから、多くのタラントに対して忠実で管理できる人にもう1タラント任せても大丈夫だから・・・と委ねられるのです。
イエス様はその生涯を見る時、忠実でした。
両親や家族に仕え、自分に与えられていることに対して忠実でした。
罪深い私達の中で、弟子に仕え、人々に仕え、自分の使命に忠実でした。
そして、十字架の死に至るまで忠実であられたイエス様。
ピリピ 2:6-8 :6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 :7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 :8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
イエス様は本当に忠実な姿を私達に示して下さっています。
私達は、このお方を模範にこのお方を見上げ目指して歩むものでありたいと願います。
さあ、私達はどうでしょう。与えられているタラントを用いることに忠実でしょうか?
小さなタラントだから大したことはないから用いなくてもいいでしょうか。いいえ、そのタラントに忠実であることを神様は願っておられます。
大きなタラントすぎて用いることができないと思いますか。大丈夫です。そのタラントに忠実でいるなら、用いていくなら、神様は最善をして下さいます。たとえ失敗してもそのタラントを取り上げることはされません。
失敗というのは、成功するまでに辞めてしまう時に失敗となります。 そして、忠実である時にそこに必ず実が結ばれてくるでしょう。すると更に大きなタラントを委ねられることになります。 その時には、あなたはその大きなタラントを管理できる人と成長しているからです。
ルカ 16:10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
2.神様と喜びを共にできる。 その時、どんなことが待っているのでしょうか。
「主人と一緒に喜んでくれ」主人と喜びを共にしてくれ、という意味です。
イエス様の喜びを共に喜びをできるのです。
素晴らしいことです。 この喜びを私達も体験したいですね。 祈りましょう。
2003.1.25
ー約束の地を目指して。No.2ー
「 備えと約束の地。」
ヨシュア1:10-18
(序論) ヨシュアと約束の地について、前回分ち合いました。それはあなたと約束の地でもあるのです。その地とは、「与えられた地」完了形としての地です。完了形信仰です。そして「乳と蜜の流れる地」そなわち、モーセが生きている時に、すでに目にした地は、豊かな地でしたが、信仰の訓練の地でした。神に忠実な者に用意された祝福だからです。そして「まだ見ぬ地」です。ですから、神様は共にいるから、強くまた雄々しくありなさい、そして、神の言葉を守り行いなさいと言われたのです。これらは神からヨシュアへの命令でしたが、今回は、ヨシュアからイスラエルの民への命令です。約束の地に向かって、備えなさいと言われた2つの命令を学びましょう。
1、糧食の備えをしなさい。
:10そこでヨシュアは民のつかさたちに命じて言った、:11「宿営のなかを巡って民に命じて言いなさい、『糧食の備えをしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダンを渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて獲させようとされる地を獲るために、進み行かなければならないからである』」。
これは、民のつかさへのヨシュアの命令です。三日のうちに、とは、三日以内に渡るのか、(実際は、更に数日を要しているとも言われている)あるいは、三日後にヨルダン川を渡るのか、定かでないと言われていますが、いずれにせよ、糧食の確保は緊急を要していることは分かります。ヨルダン川を渡って、約束の地を得るために必要なのです。3日のうちに川を渡る力。前進していく力です。 今までの荒野での40年間は、天からの食物であるマナが与えられてきました。ですから、たとえ戦いになっても糧食の備えをする必要がありませんでした。しかし、5章に入っていくと、間もなくこのマナの降ることがやんでしまうのです。そして人々はこの地の産物を食べることになるのです。(5:11-12)
ヨシュアが民に命じて、糧食の準備をしなさいと言いましたが、具体的などのような食料を集めるかは、記されていませんが、すでに彼らが占領しているヨルダン川の東部地区で、地の産物は実っていて、また彼らは非常に多くの家畜を所有していました。また例えば近くに住むエドム人から金を払って食べ物や飲み水を買う事もできました。(申2:6)
◎与えられてきたマナ信仰から、あなた自身で集める糧食信仰が必要になってきます。
それは、「与えられきた恵みから獲得していく恵み」の中へです。
聖書も与えられています。賛美も与えられています。救いも与えられています。天国も与えられています。赦しも与えられています。希望も与えられています。愛も与えられています。勝利も与えられています。与えられるものとは恵みです。では、獲得していく恵みとは何でしょうか。
それは、与えられたものを生かすという事です。良く言われる言葉に、「人は教えることによって、初めて学ぶ。」与えられただけでは、自分のものにしきれないのです。しかし、それを生かす時、自分自身が身をもって学ぶことができるのです。今まで与えられてきた恵み、これからも与えられるであろう恵みです。すなわち、与えられた神の恵みにはその恵みの理由があるからです。
癒された終わり?救われた終わり?赦された終わり?家、車、子供、お金が与えられた終わり?そうではないのです。そこに神様の理由、メッセージがある事を知らなくてはならないのです。
2、安息の場所を備えなさい。
:12ヨシュアはまたルベンびと、ガドびと、およびマナセの半部族に言った、 :13「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたのために安息の場所を備え、この地をあなたがたに賜わるであろう』と言った言葉を記憶しなさい。:14あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダンのこちら側の地にとどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士はみな武装して、兄弟たちの先に立って渡り、これを助けなければならない。:15そして主があなたがたに賜わったように、あなたがたの兄弟たちにも安息を賜わり、彼らもあなたがたの神、主が賜わる地を獲るようになるならば、あなたがたは、主のしもべモーセから与えられた、ヨルダンのこちら側、日の出の方にある、あなたがたの所有の地に帰って、それを保つことができるであろう」。
これは、部族へのヨシュアの命令です。もう一つ重要な命令をルベン人、ガド人、及びマナセの半部族に与えたのです。すなわち、彼ら二部族半の人々のうち、妻子と家畜はヨルダン川の東側にとどまり、勇士たちはみな編隊を組んで、他の同族よりも先に川を渡って、彼らを助けなさい、という命令でした。(編隊を組んで、とは当時の編隊は、前、後、主力、両翼の5部分からなる戦闘隊形に配置されました。) 民数記32章を見ると、この二部族半の人々は、かつてモーセに願い出てこの東側、ギルアデの地を相続地として与えられていたのです。彼らはモーセに誓ったわけがあったのです。
最初彼らは、このギレアデの地にとどまって、ヨルダンを渡りたくなかったのです。だからモーセは彼らに厳しく警告しておかなくてはなりませんでした。「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。:7どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。」でした。(民32:1-32)ヨシュアはここで、この二部族半の人々にもう一度、モーセのこの言葉を思い起こさせ、改めて彼らに命令したのです。
◎渡りたくない信仰から、助ける信仰が必要です。
これは、「とどまる態度から共に戦う態度」の中へです。
同時に彼らが責任を果たした後で、受ける祝福も約束してあるのです。(:15)また、二部族半の男子の全てがヨルダン川を渡って、他の同族と共に戦ったのではないのです。戦いに最も適した勇士たちはみな、戦いに出て行きましたが、ギルアデの地に残って留守をあずかり、妻子たちと家畜とを守った男たちも、当然のことながら大勢いたのです。主があなたに思い起こさせたい約束は何でしょうか。
まさに、彼らにとっては、与えられた恵みから生かす恵みに入れられていくのです。ここで教えられることは妨げとなっていたものを認識して取り除くのです。与えられた安住の地に満足しとどまり、同胞たちの戦いに加わらない態度です。編隊を組む備えをする事なのです。武装することです。安息の場所を備える為にです。平和や平安は、じっとしていてやってくるのものではありません。戦いなくして勝利なし、とあるけれども戦いなくして平安なしです。
詩篇121篇には、『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』とあります。人生において、『私の助けはどこから来るのだろうか』というような状況に陥ることがありますが、続く言葉は力強い信仰告白です。私の助けは、『天地を造られた主から来る』のです。詩篇121篇の全編を読むと短い詩ですが、そこには、「あなたを守ります」という言葉が6回出てきます。聖書の中の「数」には意味があります。そして、「6」とは人間を現す数字であり、その意味は「不完全」です。
人生のテーマは「守り」かもしれません。車で道路を移動するだけでも、多くの守りのアイテムに囲まれています。それらは全て、命を守るためのものです。しかしどれをとっても完全なものはありません。聖書の数字「7」は神の数字といわれます。その意味は「完全」です。即ち、生活のただ中に、天地を造られた神の守りをおくとき、それは「完全」な守りとなるのです。目を上げるという、戦う前に向かっていく態度があなたを守るといっても過言ではないのです。そこに神の守りが働くという裏づけのゆえです。
安住の地とは、主がイスラエルに相続地を与え、周囲の全ての敵から彼らを解放し、また守って下さる時、彼らは休息、安息を与えられ、この地に安らかに住むことができるのです。部分的には、確かにイスラエルは安住の地を与えられたが、しかし、真の安息は、新約において、イエス様への信仰によって与えられるのです。(へブル3:11-4:11)イスラエルの人々が受けた安息は、今私達がキリストのうちにあって与えられている真の安息の予型ということができます。もちろん完全な形での安息は、キリストの再臨によって実現する新天新地において得ることができるのですが。
(結論) 神様は備え主です。その備えに応答していきましょう。与えられた恵みに満足せず、自分でそれを生かす主の目的にささげましょう。そして、使命を共有し、共に戦いましょう。今年、神様の向かっておられる約束の地のために。
:16彼らはヨシュアに答えた、「あなたがわれわれに命じられたことをみな行います。あなたがつかわされる所へは、どこへでも行きます。:17われわれはすべてのことをモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、どうぞ、あなたの神、主がモーセと共におられたように、あなたと共におられますように。:18だれであっても、あなたの命令にそむき、あなたの命じられる言葉に聞き従わないものがあれば、生かしてはおきません
2004.2.1
「 羊と山羊 -愛と無関心-」
マタイ 25:31-:46
序)まずは羊と山羊の違いを見てみましょう。
羊も山羊も偶蹄目・反すう亜目・ウシ科です。そういう意味では同類と言えるかも知れません。ということはもしかすると、この箇所でいう羊と山羊は、クリスチャンであっても、天国と地獄の違いがあるというふうにも解釈ですますね。
さて、毛は違います。羊は羊特有の毛は細く柔らかく、ひきつれてからみやすい。もともと羊には羊毛と獣毛が共生していましたたが、品種改良によって獣毛が減らされたそうです。 山羊は粗くてかたい真っ直ぐな獣毛だそうです。 また象徴としては、
羊は、無垢・単純・誠実・愛情,キリスト・犠牲・清浄,群居性・指導者への追従などがおげられるようです。
山羊の方は、敏捷・優雅・自由・社交性,サタン・魔女・罪人,気まぐれ・放浪癖だそうです。
と明らかに違いますね。まるで天と地ほどの差です。
私達も山羊にもなりうると思って読んでみると、神の前に謙遜になれるのではないかと思うとそのように読んで教えられていきたいとも思います。
さて、早速見てみましょう。
1.羊・・・愛する心を持っていた。:34-40
羊は、このようにいわれました。
:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 :35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 :36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 :37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 :38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 :39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 :40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
羊は「私はそんなことをした覚えはありませんよ。」 でも、「小さい者のひとりにしたのは私にしたのです。」といわれました。
よく、「これはあなたのために言ってるのよ。」という言葉を聞くことがありますが、果たしてホントにそうなのでしょうか?
以外と、自分が相手を思うように動かしたいがために言っていることが多いかも知れません。本当にその人のためになってない場合もあるかも知れません。
本当に相手のためになることは、相手が必要に思っていることに手を差し伸べてあげたりすることではないでしょうか。
実際には、恥ずかしかったり勇気がなくて、行動はできないこともあるかも知れません。
でも、「あ、何か困っておられるのかな?」「助けを必要をしているのかな?」と思うことはできると思います。
そう思うことすらなくしてしまってはいけないと思います。
友人が入院したと聞けば、「大丈夫かな?」とお見舞いに行く。誰もその病気を治しに行く人はいません。 なんとかしてあげたい、よし、手術してあげようといってナイフを持っていたら捕まります。
心配して訪問するだけでいいのです。
愛する心はうしなわないように、神様によって守っていただきましょう。
2.山羊・・・無関心だった。:41-46
山羊は、このように言われました。
:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 :42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 :43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。 :44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 :45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 :46 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
これは私の解釈ですが、山羊はこう言いたかったのだと思います。
「いつあなたが空腹だったり、旅人だったり、裸であったり、病気であったり、獄におられたりしましたか?そんなことなかったでしょう」と。
そこで、主は「小さい者のひとりにしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われました。
前々回のタラントの話しで1タラントの人が何も減らさなかったのに、叱責されましたね。
今回も同じです。別にこの人達は、小さな者に暴力を振るったり、盗んだり、殺したりしたわけではなかったと思います。 しかし、永遠の刑罰を受けることになった。
神様の前では、何もしないことは罪のようです。
さて、愛の対極にあるのはなんでしょうか?憎しみ?
でも、これらの聖書を見ていくと、愛の対極にあるのは、「無関心」であるようです。
サマリヤ人のたとえで、パリサイ人や律法学者は強盗に襲われた人に更に追い討ちをかけたわけじゃない。悪いことは何もしてない。そう、何もしないことを主は悲しまれるのです。それは無関心です。
ですから、羊の話しの時にお話したように、関心を示す心を守りましょうと言ったのです。
無関心の対極にあるのは、愛だからです。
愛をなくしてはいけません。
決) 昨年末、イランで大地震があり、たくさんの人が命を失いました。家族を家を失いました。 私達には関係ないのでしょうか。行ってボランティアすることはできないけど、募金ならできる。でもそんなこと言い出したら、あっちにもこっちにも募金しなくちゃいけなくなってしまいます。それができるならそれも素晴らしいことですが、できないこともあります。
病気で入院している友人の病気を治すことはできなくても、見舞うことはできる。もし、見舞うこともできなくても、私達は祈ることができます。
私達は、困っている人がいたら、関心を持ちましょう。それが愛のまず第一歩です。そしてできることをしてあげられたら、それはもうプラス以上の素晴らしい愛の実践です。
そのような人は、私達のまわりにたくさんいるんじゃないでしょうか。
神様は罪の中にいる私達に無関心になられず、関心を持って愛して下さった。その証拠に罪人の世界に生まれ、人に仕え、その生涯の最後に十字架で命を捨てて、その完全な愛を示された。そのイエス様の愛が関心があったから、わたしたちは救われる。。。
私達も、その愛が注がれている。その愛を持って関心を持つ心を守っていただき、愛を実践する一人となりたいですね。
祈りましょう。
2004.2.8
約束の地を目指してNo.3
「斥候と約束の地」
ヨシュア2章
(序論)
主は命令をヨシュアに与えました。そこに神の計画がありました。神様は私達にも計画を持っておられるのです。そして、イスラエルの民はその計画に向かって備えたのです。そして、いよいよその計画に向かって踏み出していくのです。それが今回ですが、まずヨシュアは、斥候を送ったということです。
この事は、主が共に戦って下さるが、人間の側においても、最善と思われる備えをする事の大切さを教えられます。そして、「特にエリコを探りなさい」と言ったように、エリコの町、それは、攻撃、攻略の足掛かりの地であることを知っていたからでした。その為に、斥候を送ったのです。
何を教えられますか。私達も人生の中で問題や課題の足掛かりとなるもの、突破口を求めます。主はそれを祝福して下さるのです。斥候を送り、そのエリコという町を探るということによって、突破口に主は祝福を用意されたのです。
1、「助けの存在」ラハブとの出会いの時。
:1ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、「行って、その地、特にエリコを探りなさい」。彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、
やがて救われていく未信者の助けての存在(ラハブ)と出会ったのです!私達も、斥候を送るような、信仰に裏づけされた行動によって、突破口、糸口を求めていくなら、主は助けの存在と出会わせて下さるという事を知るのです。彼らにとっては、その存在は、遊女ラハブでした。その家に斥候たちは、滞在しエリコの町を探ることができたのです。本当に神様のなされることは、私達の思いや考えを遥かに越えています。誰が遊女のような人を選ぼうとしますか。用いようとしますか。私達は、神様の働きを期待するなら、その神様の信仰を持たなくてはなりません。遊女ラハブが彼らの計画の糸口、突破口となっていくのです。
ハレルヤ、主はなきに等しいものをあえて選ばれる方です。私達もそうです。罪人であるまさに、遊女ラハブとなんら変わらない者であって、神様は選んで下さっている事を感謝します。そして今、私達はお互いが助けの存在として、主は祝福して下さっています。今後さらに、主の前に信仰の歩みを踏み込んでいくなら、主の計画を信じてさらなる突破口を求めるなら、主は素晴らしい、思いを遥かにこえた助けの存在と出会わせて下さるのです。具体的にラハブの存在は、どのような神様からの助けの存在なのでしょうか。 まず、その助けの存在とは、
(1)「神の摂理の中」に、組み込まれた存在。
:4しかし、女はすでにそのふたりの人を入れて彼らを隠していた。そして彼女は言った、「確かにその人々はわたしの所にきました。しかし、わたしはその人々がどこからきたのか知りませんでしたが、:5たそがれ時、門の閉じるころに、その人々は出て行きました。どこへ行ったのかわたしは知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう」。:6その実、彼女はすでに彼らを連れて屋根にのぼり、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである。
新約聖書を見ると、ラハブの信仰と行いは賞賛されています。
へブル11:31には、「信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。」とあり、ヤコブ2:25には、「同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。」と記されていて、彼女の信仰と行いが神の前に受け入れられていることが分かります。神は御自分の摂理の中に組み込まれたのです。神様はあらゆることを生かし、そして私達の益とかえて下さる事を感謝します。私達は、信仰の行いを、人の目で見て良し悪しを判断してしまうのではなく、神様の目で見て判断できるようにしていただきたいと願います。 二つ目に、助けの存在とは、
(2)「救われるべき助け」の必要な存在。
:12それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。:13そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。
私達にとって助けが必要な存在にも、助けが必要であるというのです。互いが助け合う存在であるというのです。ラハブは以前から、イスラエルの人々についてその信仰についても良く知っている様子でした。後に、ラハブと家族は救われるのです。私達も主について聞いた時、それをどのように受け取るか、得られた知識が実を結ばせることを教えられます。主を恐れることは、知恵の始まりである、知恵は知識の応用なのです。あなたを助けてくれる存在は、またあなたの助けが必要な存在であるのです。互いが神様の知恵に生きることが大切です。
2、「誓約を結ぶ」関係を築く時。
主が出会わせて下さる出会いは素晴らしいものです。しかし、その出会いは出会いで終わるものではなく、誓いを結ぶ関係をもたらされるのです。出会いと誓約と言うと、神の前の結婚の誓約のイメージがあるかもしれませんが。誓約を結ぶとは、どのように受け取るべきなのでしょうか。まず、
(1)「主をさして誓う」という関係。
:12それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。:13そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。 :14ふたりの人は彼女に言った、「もしあなたがたが、われわれのこのことを他に漏らさないならば、われわれは命にかけて、あなたがたを救います。また主がわれわれにこの地を賜わる時、あなたがたを親切に扱い、真実をつくしましょう」。
斥候は、われわれは命にかけて、あなたがたを救います。また主がわれわれにこの地を賜わる時、あなたがたを親切に扱い、真実をつくしましょうと言ったのです。
私達と神様との関係もそうでしょう。決心の祈りは、神様との誓約です。神の前の誓約です。お互いが誓い合うのではなく、主をさして約束するのです。主の前に応答するべきことです。主の前に果たすべき事です。神様の誓いも同じです。へブル6:17には、「そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。」とあります。
私達は主をさして個人的な主との関係の中で、約束を結び果たしていく存在です。主さして誓うとは、お互いのそれは保証となり、そして主に誓ったことを主は祝福して果たさせて下さるのです。後にヨシュア記を見ると、攻め込んで戦いが激しくても、その誓約が実を結んでいくのです。ラハブが家族が救われていくのです。主は真実です。
私達が突破口を見い出していく時、お互いが、主に対して誓う誓約が求められる事を学びます。お互いの約束ごとが、神様に向かってなされていかなくてはならないのです。突破口に入っていく、いよいよ踏み込んでいく時です。主の前に互いが誓約を結ぶ関係を主は見ておられるのではないでしょうか。主とあなたとの神の国のメンバーシップだけでなく、オアシスのメンバーシップも必要な認識です。 そして、二つ目、誓約を結ぶ関係とは、
(2)「確かなしるし」を示す関係。
:17ふたりの人は彼女に言った、「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。:18われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。 :19ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。われわれに罪はありません。しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。:20またあなたが、われわれのこのことを他に漏らすならば、あなたがわれわれに誓わせた誓いについては、われわれに罪はありません」。:21ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。
斥候は、赤い糸のひもを窓に結ぶ事をしるしとしたのです。赤い糸で結ばれているという由来は、ここからでしょうか!?愛は動詞です。あの出エジプトの時のように、家のかもいに、血を塗るように、その家だけが過ぎ越され、救われたようにです。
私達もキリストの愛を分かるかたちで現す事が大事です。確かなしるしを示すのです。互いが確かなしるしで愛を共有するのです。行いと真実をもって愛し合いなさいと主は教えています。私達は、ここに誓約を結んでいるんだと分かるようにしなくてはなりません。ラハブにとっては、彼らをつり降ろした窓に、赤い糸のひもをその日以来、結んだのです。分かるようにです。そして、確かに彼らは彼女を救いにやってくるのです。確かなしるしを結んでいなくては、いざとなった時、戦いが激しくなっていくと、分からなくなっていくからです。どこにしるしが、何がしるしだったのか、見えなく分からなくなってしまうのです。
私達は神様の約束の前に同じです。それを献金、十一献金というささげものをしるしとして現すのです。そして、聖日を聖別して礼拝にやってくるのです。すると主は毎週、私達にその誓いを果たして下さるのです。あなたが主の前に、確かなしるしとして、あなた自身に、赤いひもの糸を結んでいるかどうかです。そしてお互いの関係の中においてもその確かなしるしをかかげる事も大切であるのです。
主はまた、あなたを通して、赤いひもを結んで欲しい人があなたの回りにいることを教えて下さっていると信じます。待っている人がいて、また送られて来る人がいる事を信じていきましょう。
今週、主があなたの問題や課題に突破口を与えて、前進と勝利を見せて下さることを期待しましょう。今週そのために、あなたにとっての助けの存在との出会い、関係を築く出会いが広がっていきますように。
2004.2.15
「よい事をする人」
マルコ 14:3-:9
序)みなさんにとって、よい事って何ですか?最近よい事ってありましたか?
さて、この箇所で、イエス様が「よい事」といわれる事はどんなことでしょう。
1.よい事をしてくれた。:6
女がした事をイエス様は「よい事」といわれた。
非常に高価で純粋なナルドの香油を全部注いでしまったんですね。それも入れ物のつぼをこわしたと書いてます。こわしてしまったということは、もう一度ふたして残しておくってわけにはいかない、つまり全てを注いだってことですね。
どうも売ると300デナリ以上になるくらいだったようです。
1デナリは当時の一日分の労賃といわれていますから、300デナリというと300日分ということになりますね。 年収くらいでしょうか。300万とも500万とも考えられますね。
このことは、弟子達には、無駄遣いに思えたようです。
でもイエス様は、「私によい事をしてくれた。」と言われました。
では、弟子達が言った「貧しい人に施すこと」はよい事ではないのでしょうか?
そうではないですよね。それもよい事です。 実際イエス様もそれを否定されたわけではありません。女を困らせるなといわれただけです。
「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。」とそのこともよい事と言われています。
よい事とは、ひとつじゃないんです。
与えられたものをどう使うか、どうよい事に使うかはそれぞれ判断が違うでしょう。
でも、イエス様はそれらをよい事と言われた。
助け、交わり、祈り、伝道、奉仕、ボランティア、ささげもの・・・どれがよい事でどれが悪い事かなんて、わたしたちが判断すべきものではないのです。また、全てよい事です。 弟子が言った「貧しい人への施し」もよい事ですし、イエス様に香油を注ぐ事もよい事です。
私達が、「よい事とはこれだ!」と言えるものではないのです。
では、よい事はたくさんあるが、私達は何をどの程度すればいいのでしょうか。
2.できる限りの事をしたのだ。:8
女はできる限りの事をした。 私達もできる限りのことをすればいいのです。できない事をする必要はない。
女は、自分の罪深さを知っていたのでしょう。イエス様に何かしたいという強い思いから、全財産とも言える香油を全てささげました。女にとってできる最高のことだったのでしょう。
友達が病気で入院した。私達はその時、できることをすればいい。
病気を治せたら最高でしょうが、医者じゃないので無理です。
お見舞いにいけたらすばらしいでしょう。
無理でも家で祈ってあげることができたら素晴らしい。
できる限りのことをすればいいのです。
イエス様はそれを喜ばれるのです。
人がしていることを評価する必要はありません。 自分がイエス様に何ができるのか、それを祈るべきであり、それを考えればいいのです。
決)イエス様はできる限りの最高の事をして下さった。 それはイエス様は私達のために十字架で命を捨てて下さったこと。
私達は誰かのために十字架に・・・は無理かもしれない。でもかまわない、イエス様が私達のために最高のできる限りをして下さったのだから、私達は小さくても、自分のできる限りをしたい。 私達のできることは小さいことかも知れないが、そのできる限りのよい事をしていく人になりたいですね。 その一歩を踏み出す人は幸いです。 祈りましょう。
2004.2.22
-約束の地を目指してNo.4-
「ヨルダン川を渡ろう」
-あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。-
ヨシュア3:1-:17
(1)契約の箱を先立って。−「豊かな信仰」で渡ろう。
主の契約の箱を前に。モーセの時との違い。
向かう方向、原則は同じだが。
豊かな信仰を表現できる人だったのです。
(2)身を清めなさい。−「清い信仰」で渡ろう。
主の契約の箱との距離は、2000キュビト(約900m)
ヨルダン川とは、「下るもの」の意。自我の死を意味する川。
ナアマン将軍。ヨハネ、イエス様の洗礼の川。
(3)主の言葉を聞きなさい。−「勝利の信仰」で渡ろう。
○敵は追い払われる。7部族への勝利。
○神の証しが与えられる。部族の代表12人を選ぶ。
○ヨルダン川の流れがせきとめられる。
2004.2.29
「イエス様の備え」
マルコ14:12-:16
序 みなさんは備えをしていますか?
人生、いろんな場面で備えをしますね。
ある意味、備えをすることが人生かも知れません。
進学の備え、就職の備え、結婚の備え、出産の備え、子供の成長に対しての備え、老後の備え、葬式の備え・・・。
備えは本当に大切ですが、こんなにたくさんあると、不安になってきますね。
さて、ここで、イエス様がされた備えを見ていきましょう。
1.弟子たちは備えていなかった。:12
過越の祭りといえば、イスラエルでは最も大切な祭りです。
その準備をしてなかった弟子たちは当日になって、「どこへ行って準備したらよいでしょうか」とイエスさまに尋ねています。
こんな大事なことをどうして前もって準備しなかったんでしょう。
でも、もしかしたら、「明日のことは思いわずらうな」マタイ6:34を実践していたのかも知れません(^^:
いや、これはわかりませんが、イエス様もそのことに対して、責めておられる記事も出てきませんし、もしかしたら、弟子たちはイエス様の前に御心にかなう行動だったのかも知れませんね。
イエス様を信頼する。ということに対しては、人間的な備えはある意味、無力です。
ですから、本当にイエス様を信頼しているなら、たとえ備えができていなくても、主を信頼できるでしょう。 備えをしていても、主を信頼している人は、その備えが無力になったとしても慌てたり恐れたりしないでしょう。
この弟子たちの行動から、わたしたちが「主を心から信頼する」ということを学ぶことができ、その信仰をいただくことができるなら、幸いですね。
でも、どちらにせよ、この場面では、過越の準備ができなければ大変です。
2.イエス様は備えておられた。:15
イエス様は備えておられたようです。
聖書を見てみると、「その主人は、席を整えて用意された二階の広間をみせてくれるから・・・」と言われています。イエス様はちゃんと備えておられました。
わたしたちが備えていようが、備えていまいが、イエス様は備えてくださるお方です。
だから、心配する必要はないのです。主を信頼しましょう。
マタイ6:33には 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思い煩うな、あすのことは、あす自身が思い煩うであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である」 とあります。
イエス様を信頼していくときに、人間的にどう見えても、イエス様はわたしたちの必要は全てご存知で、ちゃんと備えてくださる方・・・それがイエス様です。
備えてくださるイエス様に信頼して歩む人は幸いですね。
決. イエス様の最大の備え
この出来事が起こったのは、除酵祭すなわち過越の祭りのときです。過越しはご存知のとおり、出エジプトの時に、主が命じて柱とカモイに子羊の血を塗り、死の使いが過越していき、イスラエルとエジプトの奴隷から開放された出来事を記念する祭りですが、これは、イエス様の十字架の型です。
イエス様の十字架がなければ、今わたしたちは救われていません。
イエス様の最大の備え・・・それは、十字架による罪の赦しの完成・・・「救い」です。
わたしたちにあらゆる備え、場所、人、物、お金・・・それらがどんなに備えられていても、罪の赦し、「救い」がなければ、むなしい人生です。
命を失ってはどんな備えも無意味です。
イエス様がしてくださった最大の備え、それは「救い」
このすばらしい備えを今日も受け取り、さらに人生の歩みの中で、あらゆる主の備えを体験していきたいですね。
祈りましょう。
2004.3.7
約束の地を目指してNo.5
「記念の石を積み上げよう。」
ヨシュア記4章
(序論) ヨシュアをはじめイスラエルの民に主は、これまでの歩みを石を積み上げてしるしとしなさい、と言われたのです。
神が生きて働かれた証拠、主の力強い助けのしるし、主の素晴らしい恵みの記念です。
昔、神の民にとって、過去は特別の意味がありました。
「過去」とは、「前におかれたもの」という意味であり、「未来」とは、「後に続くもの」という意味です。何か逆のような感じがします。
旧約聖書の時代、この当時は今から3500年ほど前ですが、神の民にとって、過去とは「いつも自分の前にしっかりと見据えるもの」でありました。それはちょうどボートに乗った人が後ろ向きで漕ぐ時に進んで行くように、過去を見据えて、人生という「時」を前に進んで行くようなものです。
ですから旧約聖書の時代には過去とは、前におかれたもの、未来とは、後に続くものと言う思想があるのです。詩篇103編には「主の良くしてくださつたことを何一つ忘れるな」とあります。
主は私達に忘れてはならない過去、記憶すべき過去がある事を教えて下さっています。私たちにとって何でしょう。どんなことでしょうか。ヨシュアはこの時、宿営地ギルガルと、祭司たちが立っていた川底に12の石を立てさせました。2つの「忘れないためのしるしの12の石」から学びます。
:9ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。
1、ヨルダン川に置かれた12の石。
まず、ヨルダン川に置かれた12の石のしるしの意味する事は、何でしょうか。
それは、私達のヨルダン川に「主が共に下られた」という事です。
ヨルダン川とは、以前も言ったように、「下るもの」という意味があります。私達が下っていく所、そこへはすでにイエス様が下って下さっている事を覚えていますか。
十字架の痛み、苦しみ、死、地獄です。あなたが下っていくような人生の状況を覚えても、主はあなたより先に下って下さっているのです。
ですから主は、私達の全てを知って、私達の最大の理解者、またその解決者として共にそこに立って下さっているという事です。
ヨルダン川を渡る勝利はまさにそうです。主が共に下り、立って支えて下さっているんだという事、それをいつも覚えていかなくてはいけないのです。
イスラエルの民がヨルダン川を渡る前に、祭司と呼ばれる人々が契約の箱を担いで川の中に入りました。そしてその足が水面に触れた瞬間、川の流れが止まりました。これは、今日の私達、新約の時代に生きているものとして、その新約聖書から見ると、イエス様が祭司の務めを私達の為にを果たして下さったという事です。
へブル2:17-3:1には、「:17そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。:18主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。3:1そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。」
へブル7:24には、「しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。」
今日の私達の問題や課題に対して、イエス様が、私たちの祭司として、私たちの前を進んで先に問題や課題の水の中に入ってくださるのです。そして、私たちが川を渡る間ずっと川の中に立ちつづけてくださるのです。
イザヤ書43:2には、「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」とあります。
私たちは人生の中で、時に苦難を経験しておじけたり、不安になることがあります。しかし、私たちの神様は、その困難を通りすぎる間、ずっとともにその中に立ち続けて、私たちが渡り終えるまで支えてくださるのです。
ヨシュアは、祭司たちが立っていたヨルダン川の真ん中に12個の石を積み上げました。12部族の代表が積み上げた石の塔は地上に高く立ち、やがてヨシュアが積み上げた石の塔は川の下に沈みました。川の中に沈んだ石の塔は過去の不信仰や罪が主イエスによってすべて覆われてしまったことを示していると言えます。十字架の恵みを土台として、福音の恵みを土台として、それをいつも忘れないで、前に向かっていくのです。そうでなければ、私達の全ての歩みの動機が色を変えてしまうのです。恵みが肉の働きになってしまうからです。感謝や賛美ではなく、疑いや不信に変わってしまうからです。私達は恵みにより、信仰によって救われたのです。それは誰も誇ることがないためです、とローマ書は教えています。
マタイ21:42のイエス様の言葉です。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。
また使徒4:11-12では、このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。:12この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。とあります。
かしら石なるイエス様に感謝します。当時の建築においてもかしら石がなければ、建物は建て上げられません。主は私達の救いの石です。そして生ける石、リビングストーンです。ヨルダン川に積み上げられたしるしの石は、まさにイエス様の救いの恵みの石を覚えるのです。このしるしをいつも覚える人は幸いです。私達は主の生ける宮としてしっかりと建て上げられることでしょう。
ヨルダン川の水が覆ってもその石は、今日もそこに残っていると聖書は語っています。救いの事実、神の力の事実は存在しているのです。その事実ゆえに、今私達は立っているのです。それを覚えるヨルダン川に置かれた石です。
:8イスラエルの人々はヨシュアが命じたようにし、主がヨシュアに言われたように、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、ヨルダンの中から十二の石を取り、それを携えて渡り、彼らの宿る場所へ行って、そこにすえた。
2、ギルガルに置かれた12の石
次に、ギルガルに置かれた12の石のしるしの意味は、何でしょうか。
それは、その福音の恵みを土台として「主の戦いに出発しなさい」です。
あの紅海を渡るのは、「救いの象徴」と言われています。エジプトからの脱出です。ヨルダン川を渡る事は、それからもっと豊かな人生になるための「変化の象徴」なのです。彼らはその神様からのチャレンジに応答したのです。変化する事を恐れませんでした。変化とは、極端や危険なかけをするかのような何かを成し遂げるとか、御心から逸脱したようなものではなく、蝶々が幼虫からさなぎに変化するように、神様の心にかなったものとして私達の心や信仰の態度が成長、成熟に向かって進んでいくことをやめないということです。
大変な川を渡って終わりではないのです。渡らせて下さった主の計画が待っているからです。選ばれた12人は再びヨルダン川の中に入って行きました。まだ、その時契約の箱をかついだ祭司たちは川の真ん中に立ったままでした。彼らは大きな石を拾い上げて背負ってそれを最初の宿営地となったギルガルという町まで運んだのです。ギルガルはヨルダン川から10キロ以上離れた所にありました。その町の一角に大きな石が12個積み上げられました。
ギルガルとは、「転がり去る」という意味があり、クリスチャンは、霊的な意味での救いの川を渡ったのです。もう逆戻りすることはできません。クリスチャンはすでに永遠の人生を生き始めているのです。神様の私達の計画の為に進んでいます。主イエスとともに生きているので、わたしたちはこの地上の人生でどのようなことにであっても、圧倒的な勝利者なのです。まず主が戦われる事を覚えるのです。主の戦いです。空を打つような拳闘ではありません。
箱をかつぐ祭司たちは、民の先頭に立ち、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたように、イスラエルの人々の先頭を隊を組んで進んだのです。ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨルダン川の東に土地が欲しいとモーセに申し出た者たちであるこを思い出してください。彼らはそこを土地としますが、しかし、ヨルダン川を渡って、他のイスラエル人とともに戦って、勝利したその後に戻ることができるのです。しかし彼らは戦うために、先頭に立って進んでいったのです。「いくさのために武装した約四万人が、エリコの草原で戦うために主の前を進んで行った。」のです。
こうして、石を置いたところから、イスラエル人は戦いに行きました。この場所がギルガルと呼ばれ、ここは後に、いけにえをささげる場所、また戦いのときに集まる場所にもなりました。いつもここギルガルから出発でした。主の恵みからいつも出発です。主の力を信じて出発です。主にあって自分はどのような者なのかを確認して出発する、それがギルガルの宿営地だったのです。そのことを覚えるために、ヨルダンから運ばれた12の石はそのしるしとして積み上げられたのです。彼らはそれを見てその事を覚えたのです。そして、主の戦いの為に出ていくのです。主の備えられた地で、敵をうち負かし、主の勝利をあらわしていく為です。主は私達にも肉、自己中心という罪の敵、さまざまな困難や弱さ、傷を覚える状況からあなたを攻めてくるという誘惑という敵などから逃げないで主の戦いは勝利だからと励まして下さっているのです。それらの罪はギルガルされたのです。十字架の恵みと力で、転がり去ったのです。
しるしというのは、石そのものに意味があるのではありません。「神が生きて働かれた。神の民がその神に拠り頼んでヨルダン河を渡ることができた。」ということに意味があるわけです。
恐れず、その記念の石を通して、その「御業」ではなく、御業をなされた「お方」である主に目を向けて、思いっきりその恵みに依存して、そして主と立ち上がり、恐れずギルガルから出て行きましょう。主は勝利から勝利へと私達を持ち運んでくださることを豊かに経験させてくださることでしょう。それを覚えるしるしがギルガルの記念の石です。
(結論) :21イスラエルの人々に言った、「後の日にあなたがたの子どもたちが、その父に『これらの石は、どうしたわけですか』とたずねたならば、:22『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない 私たちのこれらの石は、向かっているところは、「伝えるための記念の石」です。石によって、子どもに教えなさいです。信仰の継承です。もちろんクリスチャンの親は、主にあって子を訓練する特権、使命を負っていると思います。しかし、子どもに限らず、大人であっても、教えることができる人を育てることによって、信仰を受け継ぐことも神様の願いです。
パウロはテモテに、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。2テモテ2:2」と言いました。
ですから、このしるしの石を立てたのは、このことを経験した人たちが神の恵みを忘れないようにということのためよりも、後の人々のためであったのです。神様は、後の人たちにとっても、神が生きて働いておられる証拠として、信仰の励ましになるように、積み上げさせたのでした。
信仰者にとっては自分の救いだけでなく、次の世代のこと、後の時代のことを考えて行かなければならないということを教えられます。私たちも、次の世代のために何かができる、何かを残して行くのです。
先に救われた者の使命は、機会ある毎に主の素晴らしい救い、その信仰を伝えることです。イエス様が癒された人達への言葉、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」とあります。
私達の信仰の生涯を次の世代に伝える石として、覚えて分ち合い、伝えていきましょう。
今日、主が私達に覚えるためのこの2つのしるしの石をしっかりともう一度積み上げ、今日もそこに働かれている主に期待しましょう。あなたや私が伝える生きた主の石を示していく事ができるように祈りましょう。
2004.3.14
「弱さの中に、イエス様」
マタイ 26:30-35、マルコ 14:26-31、ルカ 22:31-34、ヨハネ 13:31-38
序) 自分の弱さを知っていますか?
いや、私は可能性思考ですから、弱さなんて口に出しません!という人もいるかも知れませんね。
私は、弱さだらけです(^^; 勿論、自慢して人に見せるようなことはしませんが。。。
イエス様は私達をどう見ておられ、どのようにして下さるのでしょうか。
1.イエス様は私達の弱さを知っていて下さる。
マルコ14:27 あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。
過ぎ越しの食事をしたあと、賛美を歌って、オリブ山へ出発しました。 賛美を歌って、意気揚々と出かけたのかもしれません。少なくとも神様を見上げて賛美しているわけですから、マイナス思考ではないでしょうね。
しかし、イエス様は弟子達にこう言われたんですね。
「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう」と。
ガクッときたかも知れません。
これは何を意味するのでしょうか。
イエス様は弟子達がつまずくことを知っておられたというですが、 これは、イエス様は弟子達の弱さを知っておられ、それをあからさまに宣言されたわけですね。
つまり・・・ 私達の弱さを知っていて下さる。そして、それを認めることをよしとして下さるということなのではないでしょうか。
私達は、弱さを見せるのは、つい信仰がないように思われたりするのではないかと思い、 「主よ、やります。できます。信じます!」と力を入れてしまいがちですが、イエス様は その弱さを認めてもいいとメッセージされているように思いました。
「私は弱さがあります。だからあなたの恵みが必要なんです」
弱さを認める時に、神様の恵みを求めます。
自分の信仰でがんばるのではなく、神様の恵みによって歩む信仰生活を送りたいですね。
大丈夫です。難しいことではありません。 自然体でいればいいのです。
自分には何ができて何ができないのか、強さは何で弱さは何なのか。
できないところや弱いところに、神様の恵みを求めましょう。
勿論、私はあれもこれもできないから、恵みもないから、何もできない・・・というような甘えたようなことはだめですよね。 その境目はどこにあるのか。 「自分にウソをつかない」とでもいいましょうか、本当に自分の心を見つめる時に何が自然体なのかがわかるでしょう。
本当の自分を見つけたら、そこに恵みを祈りましょう。
イエス様は、自らの愛を注いで恵みを注いで下さるでしょう。
エペソ 2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。
私達のクリスチャン生活は、恵みによって始まりました。 恵みによって進み、恵みによって完成させたいですね。
イエス様は私達の弱さを知っていて下さる。そして、その弱さに恵みを注いで下さる素晴らしいお方です。
2.イエス様は弱い私達のために祈って下さる。
ルカ 22:32 わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。
イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られた。
私達の弱さを知って、その弱さでイエス様につまずくことがあっても、イエス様は祈って下さっています。
イエス様はこのあと十字架にかかられますが、弟子達は実際につまずき、散らされてしまいます。 弟子達が散らされたということは、キリスト教の終りになったかも知れない一大事です。
しかし、イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られた。 だから、立ち直った時には兄弟達を力づけてやりなさい。とまで言われた。
人が教会をスタートするのではなくて、イエス様がスタートされ、イエス様が立て上げられるのです。 人はそのために用いられるだけです。 この時はペテロが用いられました。
私達は、自分の弱さの中に神様の恵みを求めますが、イエス様御自身もまた、私達のために祈って下さっていることを知る時、大きななぐさめと励ましを受けますね。
イエス様からのスタートはなんとすばらしいのでしょうか。
結) さて、この同じ時期のこの話しは4つの福音書全てに書かれているのですが、ヨハネ伝にはこうあります。
13:34-35 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。
ペテロがイエス様の祈りによって、信仰をなくさず立ち直った時に、他の兄弟達を力づけてあげたのでしょうね。それはまさにペテロが他の兄弟達を愛したという出来事です。
そして、それによって立ち直った兄弟たちもまたペテロや他の兄弟達を愛したでしょう。
互いに愛し合うというイエス様からの新しい戒めの成就です。
そして、その結果、イエス様が言われたように、イエス様の弟子であることを人々が見、またその人々をも愛した結果、多くの人がイエス様を信じ、互いに愛し合うようになって、救われる人が多く起こされていきました。
弱さをもつ私達もまたいつどんなことにつまずくかもわかりません。しかし、イエス様はそれをも認めた上で、受け入れて下さっており、さらには祈って下さっている。 ですから、わたしたちが立ち直った時には、人々を力づける者になりたいですね。その時、互いに愛し合うというイエス様の戒めが実現され、他の人々に私達がイエス様の弟子であることが認められ、多くの人の救いをイエス様が見せて下さると信じます。
しかし、それはイエス様がして下さる結果であり、イエス様が結ばせて下さる実です。
私達は、その結果を求めるのではなくて、イエス様御自身を求め、イエス様からの愛を健全にいただきましょう。
なぜなら、イエス様は私達のために、その命を十字架で捨てて下さり、葬られ三日目によみがえって天に昇られ今も聖霊として私達と共にいて下さる。救いを完成し、完全な愛を示してくださり、示すだけでなく、聖霊によってその愛を注いで下さっているからです。
このイエス様を求め、その愛をいただくならば、 互いに愛し合うようになるし、他の人を力づけ愛するようになるでしょう。
すると、イエス様はそこに結果、実をも見せて下さることでしょう。
私達がすべきことはシンプルです。
「イエス様を求めること」です。
長々と話したことは、イエス様を求める理由や、イエス様を求めた時に起こってくることを話したに過ぎません。
その一歩を踏み出す人は幸いですね。
2004.3.28
「救いへの道」
ルカ 23:39-43
序) 二種類の人。 同じ状況におかれていながら、違う選択、違う反応をする人がいます。その結果は当然変わってきます。
靴を売る営業マン二人がアフリカに行った話しを聞いたことがあります。 現地に到着した二人は、現地の人が靴を履いていないのを見てそれぞれ本社に報告しました。
一人は、「社長駄目です。ここでは靴は売れません。だって、誰一人靴を履いてないんです。靴が必要ない人ばかりですから、売れるわけがありません。。」と。
もう一人はこう報告しました。 「社長、今すぐあるだけの靴を送って下さい。これほど大きな市場はないです。他社が入って来る前に確保しましょう。なんせ、靴を履いている人が一人もいないのです。これほど必要のあるところはなかなかありませんよ!」と。
同じ状況を見た二人ですが、その反応は全く違いました。
今日お読みした箇所でも同じようなことが書いてあります。
イエス様の十字架の両側に一緒に十字架につけられた二人の犯罪人はどうだったでしょう。
---イエス様をののしった男
1.救うために待っておられる主。
一人の男は、イエス様をののしりました。 「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と。
神様がそんなに愛なる方なんだったら、罪を犯している人間も救ってくれたらどうなんだ。 なんて心の狭い排他的な神なんだ。 などといわれる人もいるかもしれません。
イエス様は全ての人を罪を犯さないように作ることもできたでしょう。でもされませんでした。
それは、私達を愛しておられるからです。あなたは愛している人を自分の思う通りにしたいがために監禁したりするでしょうか? 愛する人から、その人の意志で愛して欲しいでしょうね。それが本当の愛です。 無理に愛して欲しいとは思わないでしょう。
神様も私達が不自由な拘束の中にいるよりも自由の中で生き、わたしたち自身の意志で人生を送ることを赦されるという大きな愛で接して下さっている。だから、ロボットのようには作られなかったのです。
神様は私達を愛して受け入れて下さっています。でも、罪を受け入れることはできません。 ですから、罪を持ったままだと受け入れられないのです。 排他的なのではないのです。人は受け入れても罪は受け入れられないからなのです。
よく読んでみると、イエス様はここでののしられたりしましたが一言も呪われたりされませんでした。
そうです。このののしった男にも救いが必要であることをご存知なのです。
そして、この男が心を開いてイエス様を信じるのを待っておられるから、何も言われないのです。
誰かにイエス様の福音を話した時、その人が受け入れたなら救われるでしょう。 しかし、受け入れなかったなら救われないのでしょうか。いいえ、まだ救われていないだけなのです。
イエス様はいつまでも待っておられるのです。ですから、ののしった男でさえ、地獄行きを宣言されたりしなかったのだと信じます。
イエス様は一人の人が信じて救われることを願い、忍耐し、待っておられるのです。 救うために待っておられる主です。
さて、もう一人の男はどうだったでしょう。
---ののしった男をたしなめ、イエス様に心を開いた男
2.ただちに救いを宣言される主。
イエス様はすぐに答えられました。 「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と。
心を開き受け入れ信じるのをいつも待っておって下さって、告白する時にただちに救いを宣言して下さるのです。 まさに、救うために待っておられる姿が見えます。
子供を叱る時、親は待っています。悪いことをした時にはしっかりとしつけなければと思い、叱ります。 しかし、子供が「ごめんなさい」といった時には抱きしめます。その告白を待っているのです。
神様も同じように、わたしたちが告白することを待っておられます。 そして、告白したならすぐに救って下さるのです。 なんと素晴らしいことでしょうか。
「イエス様信じます。」と告白した時に、イエス様が「よし、じゃあまず、1週間断食の祈りを捧げて、その後1年間、毎朝6時から私の前に祈りの時間を持ちなさい。それから、日曜は休まず教会へ礼拝に出席し、献金をたくさんしなさい。えーっと、あなたの年収は○○円だから、○○円以上捧げなさい。その後、100人以上の人に伝道し、10人以上を教会に導きなさい。勿論、その中から私を信じる人を起こしなさい。あなたもそうやって、●●さんがリストにあげて誘ってここまできた人なんだからね。それから、まだあるよ。教会での奉仕は、まずはこれをやって、慣れてくる3ヶ月経った頃からこれもやりなさい。・・・」なんていわれたらどうでしょう。いつになったら救われるのでしょうか(笑)
イエス様はそんなことを一言も言われませんでした。 イエス様が十字架に架かっておられるその横で一緒に十字架に架かっている男です。 何もできません。今まで悪いことをしてきて、十字架にかけられたのです。 イエス様を信じることはできても、伝道もできなければ礼拝出席もゼロです。献金もできませんし、奉仕もできません。 でも、イエス様は救いを宣言されました。
まさに、イエス様の救いに条件、行いは不要です。 信じて告白するだけです。
こんなに素晴らしい救いを用意して下さっている主に心から感謝し、あがめましょう。
結) 私達は、イエス様を待たしていたかも知れない。今も待たしているかもしれない。
でも、イエス様はいつまでも待っていて下さる。 気付いた時に、イエス様に心を開いて告白しましょう。
そうです。イエス様だけが救い主なのです。
ののしっていた男のこの後のことは書かれていませんが、もしたしなめられて気付いて悔改めイエス様を信じ告白したのなら、その後、救いを宣言されたでしょう。
イエス様の救いは永遠です。一度拒んでも二度拒んでも何度拒んでも、最後に信じ受け入れるなら救って下さるのです。
分かれ道で選択を誤っても、変更可能なのがイエス様の救いです。
その時も何の条件もありません。信じ告白するだけです。
そしてイエス様は何も咎められません。優しく受け入れて下さるのです。
さあ、どうですか。イエス様の救いは排他的でホントの愛といえないでしょうか?
こんなに素晴らしい救いを用意し、寛容に待って下さっているお方で、完全な救いを与えて下さる方がイエス様なのです。 素晴らしいですね。
イエス様は今も待っておられます。 このことに気付き、心を開く人は幸いです。
祈りましょう。
2004.4.4
約束の地を目指してNo.6
「聖なる備え」
ヨシュア5:1-15
:2その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。
1、イスラエルの人々に、割礼を行いなさい。
割礼とは、男性器の包皮の先端を切り取る儀式で、神とイスラエルの民との間に結ばれた「契約のしるし」です。新約の私たちにとっては、割礼のこの意義は、キリストによって与えられています。
コロサイ2:11-14 :11あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。:12あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。:13あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。:14神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
ガラ6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
ピリピ3:3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
ガラ5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
1コリ7:18-20 :18召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよい。また、召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼を受けようとしないがよい。:19割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。:20各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。
ロマ2:28-29 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。:29かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
心の割礼とは、人が心を尽くし、魂を尽くして神を愛するようになることなのです。申命記もはっきりとそれは神の業であり、救いの働きによることが語られているのです。
申命記10:16「それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。」
申命記30:6「そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。」
●その割礼の目的は、「聖なる歩みへの備え」です。
なぜなら、神さまは割礼を通して、カナンの戦いが荒野での戦いよりもっと厳しい聖なる歩みであると教えています。荒野での誘惑は食べ物や飲み物のことばかりでした。しかしです。カナンの地には不品行の偶像バアルをはじめ、神々への誘惑が多いのです。ですから、聖なる歩みの備えとして割礼の意味が込められているのです。聖なる歩み出しとは、どういう事を示すでしょうか。
(1)私達は「聖なる民」として生きる者とされたという事です。
それは、肉の思いを切り離し、神さまに繋がるという事です。
出エジプトしたイスラエルの民は全員割礼を受けていました。ところが、彼らは荒野で神さまに従わず敵対したので、40年間迷い、その荒野で死んでしまいます。それからカナンに向かう民は荒野で生まれた若い世代でまだ割礼を受けてない人たちのみが残りました。神さまは、ヨルダン川を渡ったこの新イスラエル人に40年間しなかった割礼を施すように命令を下したのです。私達も神につく民とされたのです。それは、肉の思いを切り離し、神さまに繋がるという聖なる民という事です。
(2)この戦いは「聖なる戦い」に立ち向かっているという事です。
この戦いが主の戦い、聖なる神様が備えた戦いという事です。
イスラエルの民が敵に囲まれているところで割礼の手術を受けるのは自殺行為のようで、もし敵たちがこれを知って攻撃するならおしまいです。そこで戦いについて考えると、殺すという意味においては、「Killは、生命を奪う」「Murdarは、不法に生命を奪う」という意味の違いがあります。これは主の戦い、聖なる神様が備えた戦い、聖なる戦いという事なのです。決して、イスラム教のいう「ジハード:聖戦」(自分達だけが正しいとすること)といったものではないのです。
●そして、割礼の恵みは、「過去のそしり」が取り除かれた事です。
:9その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。
(1)彼らの心にはいつも、エジプト時代の「奴隷の脚本」が残っていました。
神さまは割礼を受ける前までの彼らを、身体はエジプトを離れましたが、心にはいつもエジプト時代の奴隷の歩みという脚本、習慣が残っていた事を示されていたのです。
割礼に用いられたのは、火打石のナイフでした。それでエジプトでのそしりと、彼らを妨げる肉の思いの両方を断ち切る必要があったのです。
「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。これは彼らの歴史にあったエジプトという過去の恥を、全部取り除いてくださる神さまの宣言でした。
「エジプトのはずかしめ(新改訳:そしり)」とは、イスラエルが出エジプト前にエジプトに寄留していた時代に彼らがエジプト人から受けたそしりや屈辱で、1、割礼がないこと。2、奴隷であったこと。3、神様へのあざけり。これらが、彼らが受けてきた傷、侮辱だったのです。それがまだ、残っていたのを全て、割礼を通して、ギルガル、転がり去られたのです。「ギルガル」という地名は「転がる」という意味を持っています。神はご自分の民を「転がす」、すなわち方向転換させる用意ができておられます。
●割礼に用いられたのは、火打石のナイフで、今日の私達にとって「神のみことば」の象徴です。
(1)神様は鋭い「みことばの剣」を私達に備えておられるのです。
神様はみことばを用いて、私たちの心に割礼を施し、過去のそしりを取り除かれるのです。 神様のみことばに御霊と共に働かれるのです。 心の割礼という「頑なな心の包皮」が取り除かれるには、それは聖霊の御業によるしかないのです。
使徒行伝(6章8節から7章60節)で、ユダヤ人の一派に訴えられて法廷に引きずり出されたステパノは、彼らをあえて「無割礼の人たち」と呼びました。ステパノは、彼らをどうしてこのように呼ぶに至ったのでしょう。答えは明白です。彼らは聖霊に逆らっていました。彼らの行いは肉に基づいていました。逆に神が成されることは聖霊に基づいています。彼らはこのことを理解することができませんでした。それゆえに、無割礼の者と呼ばれたのです。
:10イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。
2、過越の祭を行いなさい。
聖書に記される祭りには、月毎に行われる「新月の祭」の他、春に行われる「過ぎ越しの祭」、「五旬祭」、秋に行われる「仮庵の祭」がありました。
申16:16に、「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。」とあるように、イスラエルの3つの大きな祭がとして、過ぎ越しの祭、7週の祭、仮庵の祭があるのです。この3つの祭は世の初めから終までにおきる大きな3つのできごとの予表ですが、過ぎ越しの祭は神の小羊キリストの死の予表で、7週の祭は5旬節、初穂の祭りで、5旬節におきたペンテコステの予表であり、また仮庵の祭は収穫祭であり、世の終の大きな大収穫、リバイバルのことを含む予表です。
過ぎ越しの祭り(Passover)は、ニサンの月(第1の月、現在の4月)に行われそして、そのニサンの月の14日に、子羊をほふり、その夜その肉を食べたのです。そして続く7日間、種を入れないパンを食べました。種なしパンの祝いあるいは除酵祭と呼ぶようになりました。
過越の祭(出12章)とは、過越の子羊の血により神の怒りを逃れ、奴隷の地エジプトから救い出された神の救いを記念する祝いです。脱出の前夜に、羊をほふってその血を家の門の柱にぬり、「死の天使」がその家を「過ぎ越す」しるしとしていました。この過越の祭は、出エジプト12章48節を見ると、割礼を受けた者だけが祝うことが許されていました。マルコ14:12で、このニサンの月の14日、この日に最後の晩餐が行われ、除酵祭の第1日、過ぎ越しの子羊をほふる日、とあります。主イエス様は、過ぎ越しの時に、十字架にかかられたのです。それは、身代わりの子羊がほふられる日でした。主イエスは、ご自分こそ身代わりの子羊、過ぎ越しの日にほふられ、血を流す子羊であることを示されたのです。
荒野で生まれた新イスラエル人である彼らは割礼を受けましたし、また過越を祝うことにより、40年の試練の旅を終わりにし、再び神さまとの約束を再確認することが出来たのです。
●ここで、覚えたいことは、「絶えず信仰の原点、その恵み」に帰る事です。
割礼は一生一回限りですが、過越の祝いは、こらからカナンの戦いの日々の中にあっても、絶えず繰り返して守るべき信仰の歩みであるという事です。
絶えず繰り返して守るべき信仰の歩み、このような信仰の充実さによって、カナンであるこの地上の戦いの生活も、人間のわざでなく神様の戦いへの参加であるという事です。
カナンでのイスラエルの民は、ギルガルでの決断である割礼と過越の祝いが信仰の原点を探る基盤となりました。失敗の時はこのギルガルに来て自分たちの信仰を確かめたのです。
新約的に言うと、割礼は一生一回限りの水と霊によるバプテスマ、過越の祝いは絶えず繰り返して守るべき信仰の歩みのしるしである聖餐といえます。
:12その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。
カナンの地で「割礼」と「過越の祭」を守った翌日から40年間続いていたマナの降るのが止まりました。マナはある時期まで必要だった非常食でした。彼らの信仰や行いとは関係なく、マナは続けて与えられてきました。不従順の時でも、神さまはマナを与えてくださいました。ところが、イスラエルの民がカナンの地の収穫を得た翌日からマナは止まりました。
●「神様に寄り頼む」荒野でのスタイルを忘れない事です。
毎日、空に頼っていた彼らの生き方が、これからは種を蒔き、豊かな収穫を得る生き方に変わることを意味します。しかし気を付けることは、豊かさが神さまの祝福ですが、場合によっては誘惑になることもあ ることです。与えられたマナで生きるときは毎日神さまに頼りましたが、農作は一年の食べ物を貯めておいて生活するので、神さまよりも貯めてある食べ物に頼る可能性があります。
祝福と堕落は非常に近いものです。私たちが堕落しないで、カナンの地であるこの世の中で祝福の人生を過ごすためには、荒野のスタイルで生きるべきであると思います。生活がカナンの豊かさのようになっても、心は荒野のスタイルで生きるべきです。仕事の力を信じないで、貯めてある銀行や保険に頼らないで、日々与えてくださる神さまの力と導きに頼る生き方です。
神さまは、カナンのイスラエルの民にこのように豊かな自由を与えられました。これは彼らの信仰が成熟することを期待しておられる神さまの願いでした。40年間の訓練を終えたイスラエルの民は成熟すべきです。みなさんはいかがでしょうか。カナンでの成熟でしょうか。もしくは荒野に戻り40年の試練を今も繰り返してはいないでしょうか。
(結論) :13ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。:14彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」:15すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。
このようなイスラエルの民のギルガルでの決断に対し、彼らの代表ヨシュアの前に、大きなしるしである主の軍の将軍を送ってくださいました。「いや、私は主の軍勢の将として今きたのだ」。これは敵、味方、それ以上の方です。
これからのカナンの地での戦いを神さまご自身が先頭で戦ってくださるしるしであり、確認でした。ただし、このカナンの戦いは「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」とヨシュアが聞かれたように、聖なる場での聖なる戦いであることを忘れないことです。
私たちクリスチャンが生きるこの世は、神さまによる聖なるカナンの地です。だから聖なる生き方で戦うべきです。クリスチャンらしく生きるべきです。
2004.4.11
イースター礼拝 「復活のイエス様は共に」
マルコ16:1-8
序)イエス様の復活。本当にすごいことですね。
十字架で死なれたのは、罪の支払いの完済だとすれば、復活は完全な勝利をおさめたといえるのではないでしょうか。
プロ野球が開幕しましたが、Gの最強打線は未だ大きく爆発せず・・・(笑) CのO監督は、三連勝の後、1敗したときに、「140試合勝てるとは思ってませんから・・・」とインタビューに答えてましたが、確かにそうですね。
でも、復活というのは、まさに140試合全部勝つこと、それも完全試合で。。。不可能です(笑)
でも、イエス様の復活という勝利はそれをも超える完全なものなのです。そんなすごい復活のイエス様に私達は出会いたいですね。 そのために私達のなすべきことを見ていきましょう。
1、とにかく、イエス様のところへいく。:3
女達はとにかくイエス様の墓に向かいました。
なんと無謀、なんと無計画でしょうか。 女性のすごさかも知れません(笑)
男ならこういう行動はしないかも知れませんね。 大きな石があるから、まずは取り除けるために力のある人を何人連れて行けばいいかを検討したり、、、
見張り役がいるから、その人達をどうやってその場から離れさせてすきを作るか、、、
などといろいろと計画し、検討して、結果、「無理」って結論が出たら、やらないでしょうね。
その点、女性は無謀にも向かって行ったのです。男性は見習うべき点も多いと思います。
女性は感情が優先されやすい面があるからなのでしょうが、とにかく「イエス様に何かしたい、何かできることはないか・・・」という思いから、取り除けられないかも知れない石があるのを知っていながら、香料などを持って向かいました。
その結果、最初にイエス様の復活を知るという特権に預かったのではないでしょうか。
とにかくイエス様のところへ行ってみた。。その時・・・
@石は転がしてあった :4
石・・・妨げ、問題、課題を意味しているかも知れません。
私にはこんな妨げがあるから、問題があるから、イエス様のところには行けない。。。と思うかもしれません。
その問題は大きいかも知れない。ここでの石も非常に大きかったと書いてありますが、行ってみると転がしてあったのです。
イエス様のところに行くのに、自分の中に何か妨げはありますか?問題はありますか?
これさえなかったら行けるのに・・・と思っていますか?
大丈夫です。とにかくイエス様のところへ行ってみることです。
その時に、石は転がされるでしょう。また転がされているでしょう。
これは取り除けられることではないかも知れません。 ここでも転がしてあったのであって、取り除けられていたのではないからです。
でも、妨げと思っていたものがいざイエス様のところへ向かってみると妨げにはならないということを意味しているのかも知れませんね。
もうひとつ・・・
A復活の主に会う道が示される :6-7
どうすれば、どこに行けば、復活のイエス様に会えるのかが示されました。
女達には想像もできなかった展開です。復活されたことを知り、そして復活された主に会う道が示されたのです。
行ってみたが、結局はこの時はイエス様に会えなかったのです。
でも、死人のイエス様に会えなくてよかったかも知れません。そのかわりに生きたイエス様に会う方法が知らされたのですから。
私達が会うお方は、今も生きておられるイエス様です。
死人の中にイエス様を探すのではなく、生きておられるイエス様を求め、探すものになりたいです。
結)問題の中にイエス様を探すのではなく、イエス様を求めていくところに問題は転がされ、完全な勝利者なるイエス様によって問題も解決へと導かれると信じます。
復活のイエス様はいまどこにおられるでしょうか。復活し天に昇り、今聖霊として私達と共に歩んで下さる。
そうです。復活のイエス様は共に歩まれる、共におられるのです。
エマオへの途上、共に歩まれたように。:12
食卓に共につかれ共におられたように。:14
イエス様のところへ行きましょう。 イエス様を求めましょう。
その時に、共におられ共に歩まれる復活のイエス様を体験するでしょう。
その一歩を踏み出す人は幸いです。
祈りましょう。
2004.4.18
「共に歩まれるイエス様」
ルカ 24:13-:32
序) 私達にとっては、イエス様が共におられるとは思えなかったり、イエス様から離れていると思っている時でもイエス様は見守り、ちゃんと共にいて下さる。
今日はそんな話しをここから見ていきたいと思います。
1.イエス様は共に歩まれる。:15
復活されたイエス様は、前に立ちはだかって「私は復活したのだ」とかいって御自身を現されたのではなく、語り合っているところに近づいてきて一緒に歩いていかれたのです。
イエス様は私達の生活の中で、そっと近づいて共に歩んで下さっているのです。
でもこの時は弟子達はそれがイエス様だとは気付けなかったようです。
ですから、イエス様の死と復活について、イエス様に説明することになっちゃいました。
このことからもイエス様は私達と同じ目線に立って下さり、同じ目線で歩んで下さるへりくだったお方であることが伺えます。
さて、イエス様が共に歩んで下さるとき・・・
@イエス様が聖書を解き明かして下さる。:27
イエス様が共に歩んで下さる時に、聖書が解き明かされてくるということが起こるようです。
この聖書について少し余談ですが、聖書は「神の言葉」ですよね。 しかし、中には聖書には「神の言葉が書いてある」という人々(教会)もいるようです。
この違いわかりますか?
聖書は全て神の霊感を受けて書かれたものであって、聖書の言葉そのもの全てが神の言葉であるというのが前者です。
後者は、聖書の中には神の言葉もある。という解釈です。ということは、人の言葉もあるということを意味しますから、これは危険ですよね。
確かに、訳する時の違いが出てきているので、日本語の聖書の言葉そのものが全て正しく神の言葉といえるかというとそれはまた別の問題ですが。。。
私は聖書は神の霊感を受けて書かれたものであって、聖書は神の言葉そのものであると信じています。
この聖書を読む時に、イエス様が解き明かして下さるというのですから、素晴らしいですね。
聖書を読んで行く時に、何度も読んだ箇所であっても、新たなことが教えられることを体験されたことはないですか。
イエス様がそばにいて解き明かして下さっているのかも知れません。
ですから、聖書を読む時には、 「イエス様、今から神の言葉である聖書を読みますが、イエス様が共にいて下さって解き明かして下さって、私がもっと神の言葉によって生かされていくように導いて下さい」とか祈ってから読むと素晴らしいですよ。
イエス様は共に歩んで聖書を解き明かして下さいます。
A心が内に燃えてくる。:32
イエス様が共に歩んで下さり、交わり、聖書を解き明かして下さる時、私達の内側が燃えてくるというのです。
心が燃えることはいいことですが、気をつける必要もあります。
よく聖会などで献身の招きがあったりしますが、その時に献身の思いを告白することがあります。
聖会とはどんな時間(期間)でしょう。世の中のことを一時的に忘れ、イエス様だけに心を向け、イエス様と交わり、またメッセージを聞いてそれを通して聖書の解き明かしを聞いたりしていますよね。そういう時です。 そのような時はイエス様に対してここでもあったように、心が燃えるのです。 ですから、献身を招くと手を挙げる人が続出したりしやすいのです。 これ自体は悪いことではありませんし、いいことです。
ですが、その時の思いは一時的な思いである場合もありますから、帰って聖会などの後、一度冷静になり、自分の献身の思いがどのようなものなのか一人でもう一度祈ってから吟味すべきだと思います。
でも、確かに言えることは、イエス様が共に歩み、交わって行く時に心が燃えるということです。 これ自体は素晴らしいものです。
私達がイエス様によって心燃やされる時、
・イエス様のために何かしたいという情熱になるでしょう。
・この素晴らしいイエス様を伝えたいという思いになるでしょう。
・救い主なるイエス様を知ってほしい、そして信じて救われて欲しいという願いになるでしょう。
これらは全て素晴らしいことであり、神の前に正しいことであり、わたしたちの神様からの使命でもあります。
ですから、イエス様によって心が燃やされることは素晴らしいことなのです。
イエス様が共に歩んで下さり、交わるときに心が燃えてきます。
結) イエス様は共に歩んで下さるのです。感謝しましょう。
先週話しましたが、とにかくイエス様のところに行く、イエス様を求めるのですが、これは私達ができることですから、これからもそうしましょう。
でも、今日はたとえ私達がイエス様のところに行こうとしていなくても、イエス様は共に歩んで下さるということを教えられたと思います。なんと素晴らしい恵みでしょう。
:29で二人の弟子は更に先に行かれる様子のイエス様をしいて引き止めました。その時イエス様はそこに留まられ、その結果弟子二人は共におられるのがイエス様であることがわかったのです。
私達と共にイエス様は歩んで下さいますが、わたしたちもまたイエス様を求めるものでありたいと思います。
最後に有名な詩を読みたいと思います。
あしあと-FootPrints-
ある夜、私は夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、 わたしと語り合って下さると約束されました。 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、 ひとりのあしあとしかなかったのです。 いちばんあなたを必要としたときに、 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
訳詩:松代恵美
原詩:Margaret Fishback Powers
共に歩まれるイエス様、この主から離れないものになりたいですね。 祈りましょう。
2004.4.25
「イエス様とわたしの関係の中で」
ヨハネ21:15-23
1.主よ、あなたはすべてをご存じです。:17
「イエス様は全てをご存知な方」
:17を見ると、ペテロがイエス様に対して「あなたはすべてをご存知です・・・」と言っています。
イエス様は全てのご存知の上で、「あなたは私を愛するか」とペテロに聞かれたということですね。
すべてを知っているというのは実際神様以外ないです。
すべてを知るというのは、人間は無理です。
でも、神様はすべてお見通しです。
そんな中で、イエス様は「あなたは私を愛するか」と聞かれるのです。
これには、わたしたちが告白することに意味があることを教えられているように感じます。
神様がすべてご存知なら、わたしたちが求めていることもご存知なのですから、祈る必要ないんじゃない?
いや、だからこそ祈るんですね。
ご存知ですが、神様はそのことを祈る、告白することを願っておられるのだと思います。
イエス様は全てのことをご存知です。 その上で、私達はイエス様に祈り、告白することを継続していきたいものです。
2.わたしに従ってきなさい。:19
「全てをご存知の上で、イエス様は私達を招かれる方」
こう話してから、「私に従ってきなさい」といわれました。
イエス様は私達の全てのご存知です。ですから、ペテロがイエス様を愛していることも知っているように、イエス様に従って行くことも知っておられたに違いないのです。 なのに、「従ってきなさい」といわれました。
イエス様は私達のことを知っている上で、選択させられます。
私達の自発的な行動を待っておられたり、促されたり、尋ねられたりするのです。
イエス様は全てを備えられました。 十字架で救いを完成し、復活して永遠のいのちを備え、天に住いを備え、聖霊として私達と共におることによって上からの力もそなえられました。 その上で私達はどうしますか。
イエス様は、「私を愛するか」と聞かれます。その上で、 イエス様は、「私に従ってきなさい」と促されます。 私はイエスさまに「主よ、あなたを愛します。あなたに従います」と告白するものでありたいです。
賛美もその告白のひとつですね。個人的な祈りもそうです。 日々の主との交わりの中でも告白できます。
3.あなたはわたしに従ってきなさい。:22
「イエス様に従うことは、イエス様と自分との一対一の関係の中のこと。」
「主よ、この人はどうなのですか」とペテロが聞きましたが、「「あなたは」私に・・・」と言われました。
他の人は関係ないのです。私がイエス様に従うのかどうかです。
イエス様に対して、自発的な告白を行動をする人は幸いです。
祈りましょう。
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