2005年5月〜8月


2005.5.8「痛みを伴う愛」 創世記24:15-21
2005.5.22「ペンテコステ -聖霊の恵み-」 使徒2:1-4
2005.5.29「 御言葉の実を結ぶ 」 マタイ 13:1-23
2005.6.5「本当に見えている人」 -事実(客観)と主観を見極める- ヨハネ 9:24-41
2005.6.12「恵みによって」 マルコ 11:1-11
2005.6.26「優先することの重さ」 創世記25:27-34
2005.7.3「自分で用意する」 マタイ 25:1-13
2005.7.24「あなたを生かす個性」 マタイ 14:22-33
2005.7.31「キリストへの信仰」 ピリピ 4:11-13
2005.8.14「神様はどんな方?」 ホセア 6:3
2005.8.21「光の中を歩む」 1ヨハネ 1:5-10
2005.8.28


2005.5.8

「痛みを伴う愛」

創世記24:15-21

序) 今日は母の日です。
聖書にも、たくさんのお母さんが出てきます。
今日は、ヤコブすなわちイスラエルの母となったリベカの話しから、共に教えられたいと思います。
聖書のこの箇所で初めてリベカが登場しますが、 創世記の27章では、リベカの夫であるイサクからその息子エサウが祝福を受けようとした時に、リベカはヤコブにその祝福を受けさせようとして、ヤコブをエサウになりすますようにして、祝福を奪い取ります。 その時に、ヤコブがお父さんにばれてしまってかえって呪いを受けてしまうかも知れない・・・と懸念するのですが、 リベカは、「その呪いはわたしが受けます」とまで言いました。
母親というのは、なんと強いのでしょう。
しかし、よく考えてみると、このヤコブが祝福を受け、そして後にイスラエルとなり、12部族が生まれ、それがイスラエル民族になっていったことを思うと、リベカのこの行動は大きな意味を持っているといえるでしょうね。
そんなリベカが聖書に最初に登場したこの箇所から、リベカがどんな女性だったのか、 また、そのことから私たちが学ぶべきことをも受け止めていきたいと思います。


1.旅人をもてなした。

リベカは、見ず知らずの旅人から、水を飲ませて下さいと頼まれました。

みなさんなら、どうするでしょうか?
わたしだったら、おそらく水くらいは飲ませてあげるかも知れませんが、らくだにまで飲ませることはできないと思います。
らくだって、すっごい飲むらしいですからね(^^;
1分間に一升瓶3本くらい飲むそうです。
今回、10頭のらくだと一緒でしたから、かなりの量でしょうね。
でも、リベカは、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、
その後、 「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、
水を汲んで差し上げましょう。」と自ら言い出し、 急いで水を汲みに行ったのです。

ここから教えられることはなんでしょう?
即従順すること?主人には従順して仕えること?
わたしはそうは思いませんでした。

聖書には、
ローマ 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
ヘブル 13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。

と旅人をもてなすことが書かれています。
旅人をもてなすことは神の前に正しいことなんですね。
これは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」という律法をも全うすることです。

もう、おわかりですね。
リベカは、「旅人をもてなし、隣り人を愛する人」だったんです。

これはここには書いていませんので、わたしの想像ですが、
リベカが旅人に対してこのようにしたのは、初めてではなかったと思うのです。
今までも、このようなことがあったときに、旅人をもてなし、また隣り人を愛するように、水を与えたりしてきたのだと思うのです。
:16に「この娘は非常に美しく・・」とありますが、この美しさはそのような内側からにじみ出る美しさであったと思います。
よく、顔が輝くと言ったりしますが、別におでこが広くなったとか、化粧で顔じゅうにラメをつけたとか、そういうわけじゃないですよね。
何かいいことがあったり、気分がよかったり、内側に喜びなんかが溢れていると、外側にも見えるものです。
リベカは、隣り人を愛することができる人で、内側からあふれ出るものがあったんだと思うのです。 だから、美しかったのだと思います。

さて、水を汲むといっても、日本によくあるツルベ式の井戸のような井戸ではありません。
らせん状に階段を降りて行って一番底にある水を汲んでまた階段を昇って汲んでくるのです。
大変な労力です。


2.痛みを伴う愛

リベカは、肩に水がめを乗せて、何度も何度も往復したのです。
どう考えても楽な作業ではありません。
隣り人を愛するというのは、麗しいような響きがありますが、実際には痛みを伴うものです。
肩にかかる痛みは、回数が増えるに伴って、増していったことでしょう。

隣り人を愛するというのは、痛みの伴うものなのです。

もし、今みなさんが、誰かに対して、痛みを感じているなら、それはその人を愛しているからといえると思います。
あなたは隣り人として、その人を愛しているのでしょう。
どうでもよければ、そんな痛みはやってきません。
また、逆に誰かを愛するということは、痛みを伴うことであることを知りましょう。

ここで、ひとつだけ、具体的に隣り人を愛するとはどのようなことなのかをみます。
リベカは、肩に水がめを負ったのです。
その旅人の必要を負ったのです。
ここから私たちは、 「重荷を負いあう」ということが隣り人を愛することのひとつであることが伺えます。
もちろん、他にもいろんな愛の行動があるでしょう。

何か、悩みがある、重荷がある・・・そんな時、
マタイ11:28には、 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 とありますから、 「クリスチャンなら、そんなことは、牧師や兄弟姉妹に相談するんじゃなくて、イエス様に相談して解決しなさい。」と言いますか?
とんでもないですね。
同じ聖書にこうあります。
ガラテヤ 6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
ヨハネ福  15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
ローマ 13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
ガラテヤ 5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

互いに重荷を負い合うこと、互いに仕えること、互いに愛し合うこと、これらは聖書の教えです。
人の重荷を負うことは時には痛みを感じることもあるでしょう。
でも、互いに祈ることは、十分耐えられる痛みではないでしょうか。
勿論、相手の重荷を負って祈ることすら、その痛みに耐えられない時もあるかもしれません。
そんな時は、正直にそのことをイエス様のもとに持っていきましょう。
主が既にその重荷を負って下さっています。
そうです。 互いに重荷を負い合うことは愛し合うことですが、その時、主もまたその重荷を負って下さるのです。
重荷を負ってもらった人は、イエス様のもとへもいって重荷を負っていただきましょう。

結) リベカは、たとえそこに痛みが伴ったとして隣り人を愛する人でした。
私たちはリベカに今、会うことはできませんが、 リベカ以上の愛をもって、私たちを愛して下さっている、イエス様に出会うことができます。
イエス様は、十字架で命を捨てて、想像を絶する痛みをも受けて、わたしたちを愛して下さったのです。
このお方が私たちを愛して下さっている。

私たちもまた互いに重荷を負い合い、愛し合う者になりたいですね。
その時に伴う痛みは私たちにとっては痛いかもしれませんが、
イエス様はそれ以上の痛みを受けて下さった。
だから、痛みを伴うような愛を実践する時、イエス様はその痛みを知って下さっているし、その愛を全うして下さるに違いないと信じるのです。

今日、その一歩を踏み出す人は幸いです。 祈りましょう。




2005.5.22

「ペンテコステ -聖霊の恵み-」

使徒2:1-4

序) 私たちは、聖霊の油注ぎは必要です。

1.聖霊は、証人としての「力」

使徒1:8
聖霊が臨む時に、力を受けるんです。
そして、キリストの証人となるのです。

「伝道」と聞くと、つい肩に力が入ってしまったりしがちですが、
それは、自分の力でやろうとしてしまっているからかもしれません。
聖霊によって、力を受けると、神様が私たちを証人として下さるのです。
ある意味当然のことですね。 神様が私たちのうちに宿って下さる。これが聖霊です。
神様は全能な方、力ある方、その方が内に住まわれるのです。
力となり、キリストを証しすることはたやすくなるでしょう。

私たちには、力が必要ですね。
力がないとできないことはいろいろありますよね。
私たちがキリストの証人となるということは、 いろんな意味があります。
実際に福音を語ることだけではなく、
クリスチャンであることをあらわすこと、
キリストの愛をもって関わること、
トラクトを配ることや配布することもかもしれません。
そのような証人となるには、力がいるのです。
この力は、ランニングや訓練によってつけるものではなく、
聖霊によっていただくものなんですね。

私たちは、同じ救われているのなら、 キリストの証人になりたいですね。
そのために、聖霊によってその力をいただくものになりましょう。


2.聖霊は、集まっている時に注がれた。

使徒1:15、使徒2:1
ここにあるように、聖霊は、集まっているところに最初注がれたのです。
私たちが礼拝に集うことは、素晴らしいことであり、神様が喜ばれること、聖書的なことなのです。
そこに聖霊が注がれるのです。
マタイ18:20

そして、聖霊は、人が注ぐのではなく、神様が注がれるのです。
私たちは、神様の集会へいって、神様に求めなくてはなりません。
これだけは、絶対ゆずれません。
神に求め、神が注がれるのです。

聖霊を求めて、○○先生の集会へいく、とかは危険です。
講師は器であって、その働きもいろいろあるでしょう。
でも、霊的な油注ぎは、神様から受けるものです。
人が宣言したから注がれるものではありません。

私たちは、決して、誰かから何か霊的なものを受けようとしてはいけません。
神様に求めるべきです。そして、神様から受けるべきです。

私も、癒しの為に祈ったりしますが、それは、私が何かするわけでもなく、私から何かが流れるわけでもありません。 みんなで一緒に祈る時も同じです。
神様が癒して下さるように、執り成して祈っているのです。
それで、癒されたなら、それは、神様が癒して下さったのです。
癒されなかったら、それは私に力がないからではなく、神様が癒されなかっただけです。

だから、わたしたちは、共に集まり、神様に求め、神様から聖霊を受け取るものになりたいですね。
結) あなたは証人となるために力が必要ですか。
神様から聖霊をいただきましょう。
そのために、イエス様の名によって集まり、 神様に求めて祈り、神様から聖霊の祝福を受け取りましょう。



2005.5.29

「 御言葉の実を結ぶ 」

マタイ 13:1-9
マタイ 13:18-23

序) 以前、ハーベストタイムに、K−1ファイターのマイク・ベルナルドが出演していました。
格闘家でクリスチャンという彼は、あるボクサーのクリスチャンを通して、イエス様を信じ、クリスチャンになったそうです。
彼のトランクスには、psalm27:1と十字架が書かれています。
詩篇 27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
と書かれています。
彼は、中川健一先生とのインタビューの中で、この箇所を何度も話していました。 この御言葉が彼の中で、本当に力となり、強さとなっているということが伝わってきました。

御言葉には大きな力があります。
御言葉はある時は、慰めます。・・励まします。・・癒します。・・奮い立たせます。・・戒めます。・・教えます。・・導きます。・・光、灯びとなります。・・・・・ そして、命となり、力となります。
私達は御言葉が与えられています。
この御言葉をどのように私達は聞き、実を結ぶのか、マタイ13から見ていきましょう。

1.道ばたに落ちた種があった。>鳥がきて食べてしまった。

「悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。」
御言葉を聞いて、放っておいてはいけませんね。
ちゃんと自分のものにしましょう。
私達は、いただいた御言葉を放っておかないようにしましょう。

2.土の薄い石地に落ちた。

「岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」

御言葉を聞いて、すぐに反応することは大切です。
でも、その前に、自分の中に根があるか、探ってみましょう。
石地というのは、土とは違って、栄養素がありませんよね。
自分の心を耕し、石を取り除けましょう。
その時に、根を伸ばず環境が自分の心にできてきます。

このことは、自分でやる。自分で決める。
というような石のようなものを取り除けましょう。

マイクベルナルドの証しの中で、イエス様を受け入れてから変わったことは?との問に、
何かをしようとしたとき、それが知らずにしていた悪いことであったりすると、
「それはよくないよ」というような声のようなものが自分の中から聞こえるようになった。
良心が回復したのかなと思った。というようなことを言われていました。

私達も既に回復されているのではないでしょうか。
その時に、いや、イエス様でもこれは譲れません!というなら、それが石なのではないでしょうか?
石を取り除けましょう。

3.いばらの地に落ちた。

「みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」

御言葉を聞くが、世のこと、お金のことが御言葉をふさいでしまうといわれています。
世のことといっても、全てが悪いものばかりではありません。
世の心遣いというのは、世のことに心を奪われて支配されないようにということをいっているのであって、 罪を犯すのではないのですから、これらは利用すればいいことです。

カラオケでストレス発散する人もいるでしょう。
ボーリングや他のスポーツもそうです。
それらは私達の心は支配させませんが、心を楽しませてくれるのではないでしょうか?
利用することはいいと思います、私は。
これらはしてはいけないのだ〜と心にプレッシャーを感じながら生活するなら、かえって不健康ですしね(笑)
富のまどわし、も同じことです。
お金に支配されてはいけませんが、利用すればいいのです。
多く与えられたら、感謝しましょう。少ないなら、必要を求めましょう。
それらに支配されるなら、御言葉をふさいでしまうのです。

4.よい地に落ちて実を結び・・・ 「御言を聞いて悟る人のこと」

・御言葉を聞いたら、しっかりと管理する。放っておかない。
・心の畑から石を取り除いて、心を耕す。
・世と富みとに支配されずに、心に楽しみを与える。

そうする時に、御言葉を聞いて悟る人になれるんじゃないでしょうか。

ここで、ひとつ。。。
種は蒔かれたのではなく、落ちたのです。
私達の心に、種が蒔かれているなら、幸いです。
でも、たとえ落ちた種でも、よい地に落ちるなら、実を結ぶのです。
なんと神様は素晴らしい方でしょう。

「そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」 と聖書は約束します。
御言葉を聞いて、悟るもの、そして実を結ぶものになりましょう。 祈りましょう。



2005.6.5

「本当に見えている人」
-事実(客観)と主観を見極める-
ヨハネ 9:24-41

序) この箇所で、2種類の人を見ることができます。
今日は本当に見えている人について、見ていきましょう。

1.見えると言う人。
パリサイ人たちは、見えると言っていた。
「・・・あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」

この種類の人たちの特徴
律法の形にこだわり、その形だけしか見えていない。
安息日を守っていないのだから・・・とか言ってる。
このパリサイ人は、言い切っている。
でもこれは、事実(客観)ではなくて、主観である。
「あの人が罪人だと思っているのだが・・・」なら、自分の主観であることを認めた発言であったから、まだよかったかも知れない。
私たちも、自分の主観を事実(客観)と勘違いしていないだろうか。
自分が感じること、思うことは、自分にとっての事実(客観)であるだろうが、それは、自分の主観であって、事実(客観)ではない。
事実とは、本当のこと。
また、客観とは、誰もがあるいは大多数がそう判断するようなこと。
主観とは、その人が判断すること、感じること。

例えば、、ジェットコースターについての話しですが
「○○ス○ーランドの、スチール○○ゴンはすごい。こわい。面白い。」>>>これは、主観です。人によって違うもの。
でも、「スチール○○ゴンは、最後部の高さが97mで、最大落差が93.5mその角度は68度で、最高時速は153km/h、その全長は2,479m、その時間は210秒」>>>これは事実です。
これを、高所恐怖症の人に、「このスチール○○ゴンは、すごいよ。面白いよ。一緒に乗ろう」といったら、それは、主観で人に勧めているわけですよね。
好きな人は、面白いだろうが、いやな人にはいい迷惑なわけです。
主観は人には押しつけてはいけないものだということもわかりますね。

「イエス様以外に救いはない。」というのは、事実です。
しかし、「教会はいいところ、楽しいところだから、来て!」と無理矢理連れてくるのはどうでしょう。
いいところか、楽しいところかは、その人の主観です。
「イエス様が救い主」というのは事実です。
集会には、イエス様の恵みがあります。これは事実です。
でも、その集会で恵まれるかどうかは、その人の主観ですから、わかりません。

もう一人の人・・・

2.見えないと言う人。

目が開かれた盲人は、
「あの方が罪人であるかどうか、わたしは知りません。・・・」

この種類の人たちの特徴
見たこと聞いたことを受け止め、律法の中の本質を感じ取れる。
イエスの弟子だと言っている。>その内面に触れたからではないか。

私たちには、理解しがたいことがいろいろある。
でも、それらは分からなくても、見えなくてもいいのです。 主よ、見えませんと祈ればいいのです。
主はきっと導いてくださるでしょう。

事実(客観)と主観が分けられている。
「あのかたが罪人であるかどうか分かりません。」と言っている。
「あのかたは罪人ではない」とは言っていない。
「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」
自分に起こった事実を話している。

私たちは注意しないと、 事実(客観)と主観とを混同してしまいがちであるから、気をつけたい。
この盲人の発言を使って表現するなら、
「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。そして、あの方の弟子となることは、正しいことであると思います」

一般的な表現をすれば、こうなるかな?
「私は見えません。でも、私にも見えることはあります。それは私の身の上に起こったことです。それゆえに私はみえてはいませんが、これでよかったと思っています。」

これが、事実(客観)と主観の違いです。
そして、こういう人が本当に見えている人なのではないでしょうか。

結) イエス様は、見える人を見えないように、見えない人を見えるようにしてくださる。
これは、見える”と言う人”を見えないように。見えない”という人”を見えるようにしてくださるという意味だと思うのです。
なぜなら、見えると言い張るところに罪が残る、と言われましたから。

私たちは、見えないものまで、見えると言ってしまわない様に気をつけましょう。
そのときに、見えないものになってしまうからです。そこに罪が残るからです。
「主よ、見えません」という者を、主は見えるようにしてくださる方だからです。
私たちは、私たちのために死んでくださったイエス様だけを見上げて歩みましょう。
その時、見えないこともイエス様が見えるようにしてくださるでしょうし、
見えないままでも、イエス様は導いてくださると信じます。
このイエス様を見上げて、歩む人の人生は幸いです。
祈りましょう。



2005.6.12

「恵みによって」

マルコ 11:1-11

序)この箇所は、イエス様がメシヤとしてエルサレムに入城される箇所です。
その時、用いられた「ろばの子」から、主に用いられるとはどういうことなのかを見ていきましょう。

結論を先に申し上げます。
・・・それは、「恵みによって」である、ということ。

主に用いられているなら、それは主の恵みによってであり、何かしたからできるからではない。
パウロも言っています。
1コリント 15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

また、用いられるためには主の恵みが必要です。
いかに用いられることが主の恵みなのか、用いられるために恵みが必要かを見ていきましょう。

1.向うの村へ行きなさい。

この村ではなく、向うの村だった。
これは、主にとっては、場所は関係ないことを示しているのではないか。
どこにいても、主は恵みによって用いられる。
主にとっては、場所は関係ないのです。
どこにいる人でも、どんな場所にしても、用いようとされれば、用いられる。
主は恵みによって用いられるのです。

あなたが何処にいても、あなたができることを主は御自身の恵みによってさせたいと願っておられるにちがいない。


2.まだ、誰も乗ったことがない・・・

誰も乗ったことがないなら、人を乗せることはできないかもしれない。
そんなろばを主は用いられた。 まさに、恵みによる。
私にはできない・・・ではなく、主が恵みによって用いようとされているなら、主に用いていただきましょう。


3.ろばの子

乗るなら、馬の方がよかった。 せめて、大人のろばの方が安全だろう。
でも、ろばの子だった。
小さいものと思われても、主は恵みによって用いられるのです。
主は小さいと思えるようなものをあえて用いられた。 まさに恵みです。
主にとっては、あなたの能力を超えて用いて下さるのです。
恵みによって・・・


結) だからと言って、何もできなく小さいもののままでいいわけではありません。
2テモテ 2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
口語訳では、 あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。

ただ、根本的には私たちが用いられるのは、主の恵みによるのだということを覚えましょう。
用いられる場所や、状況、奉仕はそれぞれ違うかも知れませんが、
主の恵みによって用いられることに自らをささげていくときに、
主はさらに鍛練し、恵みを注ぎ続けて、用いて下さるでしょう。
さらに主の恵みを求めて、また受け取っていきましょう。 祈りましょう。




2005.6.26

「優先することの重さ」

創世記25:27-34

序) エサウは長子の権利を軽蔑した。
これは、神の祝福を軽視したことを意味する。
物事を軽く見ることは、わたしたちの生活の中でもあることでしょう。
しかし、軽く見てはいけないことがあることも事実です。

さて、エサウが長子の権利を軽くあつかったように、
神の祝福を軽く扱ってもいいのでしょうか。 答えはNo!です。
神の祝福、神様を優先しなかった時に、エサウのように軽視してしまうのです。

エサウが神様の祝福、神様を優先せずに、何を優先したから、軽視してしまったのかを見て、 私たちは共に教えられ、共に神様を神様の祝福を優先し、重視するものとなりたいと思います。

さて、エサウが神様を差し置いて何を優先したのか見てみましょう。

1.赤い物・・・「肉を満たすもの」

エサウは神の祝福よりも「赤い物」を優先したのです。

エサウは、狩りから帰って来て、飢え疲れていたのです。
ですから、ヤコブが作っていた「赤い物」を食べたいと思いました。
別にこれは健全なことですね。
お腹が空いたから、食べたい。
喉が渇いたから、飲みたい。

しかし、この時、ヤコブは、「赤い物」をあげるかわりに、「長子の権利」を売るようにいいました。
エサウはここで、長子の権利を売ってまで「赤い物」を買う必要があったのでしょうか?
ここは、長子の権利を優先すべきでした。
しかし、エサウは長子の権利を売ってまで「赤い物」を買ったのです。

「赤い物」・・・つまり、自分の肉体的な欲を満たすものを優先したのです。

一時的に満足するでしょう。 しかし、長子の権利は二度と買えないものです。

私たちは、神様の祝福よりも、一時的な肉欲を満たすものを優先させてはならないのです。
もし、優先させてしまったら、比べようもないような大切な物を失うことになるかもしれないのです。

私たちは、肉を満たすものではなく、神の祝福を神様ご自身を優先するものになりたいですね。


2.今の私に・・・「今だけを満たすもの」

エサウは、「長子の権利など今の私になんになろう」といって、
”今さえ”よければいいという「今だけ」を満たすものを求め、優先しました。

今さえよければいいという「今だけ」を満たすものを優先する時に、
神の祝福を失うことになるのです。

私たちは、今だけを満たすものではなく、神様の祝福を神様ご自身を優先するものになりたいですね。

結) エサウにとって、この出来事は軽視したくらいですから、小さな出来事だったのでしょう。
しかし、その結果はあまりにも大きな違いでした。
ヤコブはイスラエルとなり、イスラエル民族の父祖になりました。
もし、エサウがこの時、長子の権利を売っていなかったら、歴史は変わっていたかも知れません。
この小さいと思える出来事での決断ひとつで、エサウの人生は変わってしまったのです。

私たちの優先順位の上位に置く物は何でしょうか。
「神様からのもの」です。

私たちは小さな決断、あるいは小さいと思える決断をすることによって毎日を生活しています。
その決断の時に、「神様からのもの」を優先し、選択していく決断をして行く時に、 大きな祝福を受けることになるのです。

「神様からのもの」を優先するものになりたいですね。




2005.7.3

「自分で用意する」

マタイ 25:1-13

序)用意することは大切なこと。
いろんなことの為に用意することは大切なことです。
私たちはキリストの花嫁なる教会です。
この花嫁のたとえ話は、わたしたちにもあてはまることだと思うのです。

今朝は、イエス様がお話になったこのたとえ話から、 用意することについて共に見ていきたいと思います。

2種類の人がいました。

1.油を用意していた(:4)

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れてもっていた。」 とあります。
自分で用意して持っていたのです。
今日はこのひとつだけ心に留めて下されば感謝です。

「自分で用意していた」 ということです。

油は、よく聖霊の油をあらわしているとも言われますが、
ともしびを消さない為に必要なものです。
この油を自分で用意していたのです。
人に用意してもらったのではありません。

私たちは自分で用意する必要があります。

どうやって用意するのでしょう。。。
御言葉によって用意します。
聖書を通してイエス様の御心を知り、イエス様と交わり、イエス様を知り、イエス様と親しくなる。
自分で聖書を通してイエス様から油をいただくのです。

あなたの入れ物に誰かが油を入れてくれると思ったら大間違いですよ。
私もあなたの油を用意することはできません。
自分の分で精一杯です。

この箇所でも、賢い娘たちは、
「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。」 といっています。

油を入れて下さるのはイエス様だけです。
ですから、このイエス様に入れていただく為には、
聖書を通して、用意するのです。
人に期待してはならないのです。

じゃあ、礼拝は行かなくてもいいの?
いいえ。確かに個人的に自分でイエス様と交わって、聖書を通して、油を用意するでしょう。
でも、弱さゆえ、辛く感じたり、苦しく感じたりすることもあるかもしれません。
教会はそんな時、励ましあい、助け合い、祈りあい、慰めあい、支え合うことができるところとなるのです。
一人では困難でも、互いに横のつながりを通して、 縦のつながり、つまり神様とのつながりを強くする役目も果すのです。
それに、聖書に互いに集うことも書かれてありますからね。

ですから、わたしたちはそれぞれは、個人的に油を用意するものであるべきですが、
それぞれが横のつながりで、支え合うものとなりたいですね。

自分で用意しましょう。
それは聖書を通してイエス様によって用意させていただきましょう。


2.油を用意していなかった(:3)

「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。」 とあります。

油を用意していなかった娘たちは、婚礼の祝宴には入れなかったのです。
ご主人が帰ってきた時に、この愚かな娘たちはどうしましたか。
まず、賢い娘たちの油を貰おうとしました。
しかし、自分の分しかないから無理だと断られました。
そこで、店へ買いに行きました。
そして、婚礼の祝宴へと向かったのです。
しかし、主人は、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言ったのです。

この娘たちは、油を自分で用意していませんでした。
そして、店で買ってきたのです。
自分で用意せずに人から手に入れようとしました。
ここで、私が個人的に教えられたことは、 やはり、
「自分で用意する」 ということです。
有償無償に関わらず、人から得ることに対して注意が必要なのではないか、ということです。
この箇所は、主人がいつ帰ってくるかわからないから、目を覚まして用意しておくようにというたとえ話としてよく語られますが、
個人的にもうひとつの意味があるのではないかと思ったのです。
それが、 「油を自分で用意しておく」ということです。

油注ぎを求めて、あちらの集会、こちらの聖会・・・とお金を出して渡り歩いて、油を得ようとする人もいますが、
一見、自分で用意しているようでありますが、
実は、油を買いに行った娘たちを同じことをしているのではないかと思うのです。
また、そこで売っている油は果たして婚礼にふさわしい油であるのかどうか。。。

ガソリンスタンドでガソリン以外のものが混じっている不純物の入ったガソリンを売っているところが摘発されたりする事件がありますが、
油が売っているからといって、その油が本当に神様の前に出る時にふさわしい油であるのかどうか吟味は必要なのではないでしょうか。
いや、吟味するまでもなく、わたしたちは自分で用意すべきなのです。
つまり、イエス様から油を入れてもらうのです。
この娘たちが「私はあながたがを知りません」と主人に言われたのは、
「主人が帰ってくる時に備えていなかった」ということと、
「自分で用意せずに、店で買ってきた」ということも理由なのではないかと思うのです。

聖書には、「にせ預言者に気を付けなさい」と何度も警告されています。
私たちはその吟味する力が本当は必要です。
でも、その力がなくても、
自分で聖書を読み、
自分でイエス様と交わり、
自分でイエス様から受け、
自分でイエス様に従い、
自分でイエス様を信じているなら、
惑わされることなく、信仰を持ち続けられると信じます。

私たちは、油を買いに行ったり、人からもらうものにならないようしたいものです。


結)信仰というともしびを消さない為に、わたしたちは油を自分で用意しましょう。
油は自分で用意するのです。 私たちには聖書があります。
イエス様がおられます。
別に誰か人を通してでなければ交われないわけでもなければ、御言葉をえられないわけでもありません。
直接イエス様と交われるのです。
イエス様から油をいただけるのです。
この終りの時代において、人を通して油を得ることには細心の注意が必要です。
その油がどんな油かわからないからです。
横のつながりで支え合うことは素晴らしいことです。
それを通して、個人的な神様との関係を深くすることの励みにすればいいのです。

私たちは、イエス様の花嫁となるため、自分で用意し、待ち望みましょう。
祈りましょう。



2005.7.24

「あなたを生かす個性」

マタイ 14:22-33

序) 人には、それぞれ個性があります。
それは、神様が与えられたその人のオリジナルなものです。
外見もそうですし、内面にも言えることです。
今日は内面についての話しですが、神様の前にいい面、用いられる面、喜ばれる面、もありますが、 用い方によっては失敗したり、神様の前にふさわしくない時もあるでしょう。
でも、個性は個性ですから、それがいいとか悪いというものではないのです。
神様の前にどう生かすことができるか、
ペテロの個性を通して、自分の個性についても神様の前に祈ることができれば幸いだと思います。


1.ペテロの個性・・・大胆さ

ペテロは、この状況で「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 といいました。 大胆ですね。
いくらそんな状況でも、「自分も」って言ったのは、ペテロだけでした。
思ったことはすぐに口に出しちゃうんでしょうね。

他にもペテロが大胆であることがわかる箇所があります。
いくつか紹介しましょう。
マタイ 4:18 湖で網を打っている時にイエス様に召されて、すぐに網を捨ててしたがった。
マタイ 16: イエス様に、「私をだれだと言うか」と聞かれ、「生ける神の子キリストです」と一番に言ったし、 イエス様が殺されて三日目によみがえるべきことを話された時には、「そんなことが起こるはずがありません」と言って、 「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われた。
マタイ 17:4 イエス様が栄光の中で、モーセとエリヤと話合っている状況を見て、「ここにいることは素晴らしいこと、よければ、ここに三つの幕屋を造ります・・・」と言った。
マタイ 26:33 「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と大胆告白。
マタイ 26:58 イエス様が捕らえられた時に、成り行きを見ようとついて入っていった。
ヨハネ福  20:4 イエス様の墓を見に行った時に、先についた人はかがんでのぞきこんだのに、ペテロは入っていった。
ホントに大胆ですね。

ペテロの個性のひとつだと思いますが、
この「大胆さ」が神様の前に用いられた時もあれば、失敗した時もありました。
水の上を歩いたのは、ペテロだけでした。 すごいことです。
個性が神様の前にいい方向で用いられる時、神様の御業を見たり、体験したりすることができるのだと思います。
ペテロの場合は「大胆」という個性が特によくわかります。
使徒の働きの中で、弟子たちが聖霊を受けた時に、立ち上がってメッセージしたのもペテロでした。
大胆が神の前に用いられた出来事のひとつです。
その時に、神様は多くの人を救われました。

あなたの個性はなんでしょうか?
それぞれ違うでしょう。でも、それでいいのです。
その個性がいいとか、悪いとかではなく、神様の前に生かされる為に何をすべきかを祈ってみる機会にしてみましょう。
個性があることはいいことです。 考え方が違うことも個性のひとつです。
それが神様の前にいかされているかどうかが大切なのです。


2.イエス様はいつもそばに

失敗することもあるかも知れません。
でも、それは構いません。すぐにその失敗を生かして次につなげればいいのです。

ペテロも「来なさい」とイエス様に言われて、水の上を歩きはじめました。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言ったのです。

大胆さゆえに、水の上を歩くという素晴らしい体験をしたのですが、 失敗してしまったのです。
でも、イエス様は、すぐに助けて下さり、 「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。

ペテロの大胆という個性は完全ではなかったのですね。
でも、それを神の前に用いたペテロをイエス様は喜ばれたんではないかと思うのです。

私たちの個性も個性としてあっても、完全なものはないと思います。
どこか足りない部分があるでしょう。
でも、それを神様の前に用いていく時に、イエス様はいつもそばにいて、いざと言う時は助けて下さるのです。


結) 私たちは、自分自身を神様へ捧げることはきいてきています。
それは、その賜物や個性と用いるということも含まれているのだと思います。
ペテロが自分の持っているものでイエス様に仕え、イエス様に捧げたように、
私たちも持っていないものを無理して捧げようとするのではなく、
自分の持っているもの、その一つが「個性」でしょう、
それを捧げ、それを用い、それによって、神様の御業を見て、体験するものになりたいですね。

あなたは、世界の中で、歴史上で、ただ一人の存在です。
その個性を神の前に生かしていただく為に何ができるのか、何をすべきなのか、
今日のメッセージを通して、祈る機会とできれば感謝です。
祈りましょう。




2005.7.31

「キリストへの信仰」

ピリピ 4:11-13

序)あらゆる境遇に対処する秘訣を心得てますか。
今日は、この箇所を通して、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていると言ったパウロから、わたしたちの信仰について学びたいと思います。


1.どんな境遇にあっても満ち足りる。

パウロはこのように言いました。
:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 :12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

お金のこともありますが、それ以外のことについても、
あらゆる境遇に対処することについて、そこに向かっていくべきだと思います。

そして、これは私たちの信仰について語られていると思うのです。

私たちの人生にはいろんなことがあります。
それは、まさに、貧しさの中にいる時、豊かさの中にいる時、飽く時や飢える時、富む時、乏しい時、とあらゆる境遇が想定されます。
私たちはその人生の中で、信仰を持って歩んで行くように神様から御言葉が与えられ、聖霊によって助けられるのです。
つまり、自分の人生を歩む時、あらゆる境遇に対処するようになるよう成長するべきだと思います。
もし、わたしの目から見て、 「あー、そんな道を歩んでいたら、失敗するかも・・・」と思っても、おそらく止めないと思います。
もし、その人が失敗したとしても、わたしは責めないつもりです。
その失敗によって、その人がまた成長すればいいのですから。。。
もし、成功したなら、その成功によっても成長すればいいのです。

わたしも含めてみなさんが自分で考え、自分で祈り、自分で判断し、自分で責任を持ち、自分の人生を歩むためです。
あなたの人生は、誰の人生でもありません。
あなたの人生です。神様から与えられた、あなたの人生なのです。

牧師や兄弟姉妹やまわりの人々は、助け合ったり、慰め合ったり、祈り合ったり、戒めあったりはしますが、 あなたの人生はあなたが歩むのです。

さて、「そんなこと言われても、自分の人生だからって、自分で決断して歩んでいくには自身がない・・・」 という風に思う方もいるでしょう。


2.キリストによって歩む。

パウロはこの後言いました。
:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

私たちが神から与えられた自分の人生を自分で決断して歩んでいく為に最も必要なことは、
「キリストへの信仰」です。

あなたは、あなたを強くしてくださるキリストによって、どんなことでもできるのです。

キリストへの信仰が私たちの人生を大きく左右するのです。
クリスチャンは、牧師を通してキリストを見るのではなく、
直接キリストにつながるのです。
最初は、牧師やクリスチャンの先輩を通して、キリストを見るでしょう。
でも、成長するというのは、直接キリストにつながっていくことなのです。

その時に、 神から与えられたあなたの人生を
あなたのうちの生きておられるキリストによって決断し、
あなたのうちに生きておられるキリストと共に歩み、
神の栄光を見る人生を全うすることができるのです。

私たちは、あらゆる境遇が待ち受けている人生を歩み、
神の栄光をあらわす人生を送りたいですね。

そのためにも、キリストへの信仰を持ち、成長するものになりたいと思います。
祈りましょう。



2005.8.14

「神様はどんな方?」

ホセア 6:3

序)神様を知ろう。
神様はどんな方でしょう。
それは、聖書を読むたびにわかりますし、聖書の話しを聞く度に垣間見ることができます。
しかし、語り尽くせるような方ではないことも事実です。
でも、今日は、その中から、どんな方であるのかを少しかいつまんでみていきましょう。

1.創造される方
創1:1-

神様は、天と地を創造し、光と闇を、地と海を、地上のあらゆる植物や生き物、全てを創られ、
アダムとエバという最初の人を創造されました。
そして、それらは、神の言葉によって創られたのです。
その造ったものを見て、「よし」とされたのです。すなわち、良いものをつくられたということです。
今も神様は私たちを創って下さっている。
私たちは神様によって創られたのです。

このように神様はあらゆる良きものを創られる方です。
そして、神様がわたしたちも含め、人を創造されたのは、
神が愛の対象として、私たちを愛する為に創られたのです。
最初に創ったこの時から、いやその前から、神様は人を私たちを愛して下さっているのです。


2.さばかれる方

アダムとエバもさばかれたことがありました。
創 2:16-17
しかし、これを破ってしまった二人は、園から追放されるという裁きを受けました。

また、ノアの時代には大きな裁きがありました。
創 6:5-

神様が最初に創ったものはすべて良いものであったのでしたが、地上を委ねれらた人々の中には悪がはびこり、神様は自ら裁くことを決心されました。
これは、神様は怒ったというよりも、悲しみ、心痛めて、さばくことをされたようです。
なぜなら、神様は愛しておられたから、その愛している人々が悪に満ちていくのを見ていられなかったのでしょう。
それは、人を滅ぼす為ではなく、悪を滅ぼす為に裁かれたのです。
私たちの中に悪が満ちてくるなら、神様はその悪を滅ぼす為に裁かれるでしょう。
でも、それはあなたを愛するがゆえです。
その神様のお気持ちをしっかりと理解したいですね。


3.約束し、導かれる方
創 12:1-

アブラハムに約束を与え、導いて、祝福し、そして、そのアブラハムへの約束が実現されていくのです。 イサクという子供が与えられ、イサクからヤコブが、そして、ヤコブからイスラエル12部族が生まれ、イスラエル民族となったのです。
また、後の時代では、サムエル、イザヤ、エレミヤ、エリヤ、エゼキエル・・・等、多くの預言者を通して神は語られ、導かれる時代もありました。

神様は私たちに約束し、そして導かれる方なのです。


4.救われる方
ヨハネ3:16

ノアの洪水によって、地上の悪をさばき、滅ぼされた後、 神様は二度とこのような洪水のよって滅ぼすことはないと約束されました。
しかし、今度は、神様はイエスキリストとして地上に生まれて下さり、罪のない生涯を歩まれ、その地上の最後に十字架で死んで下さり、わたしたちの罪をその身に負って下さいました。 そして、墓に葬られ、三日目によみがえって、天に昇られたのです。
こうして、救いを完成して下さり、わたしたちがイエス様を信じる時に、救われて、神の前に立てるようにして下さったのです。
神様は私たちを救われる方です。
これは、今日話す5つのうちで最も大切なことで、忘れてはならないことです。


5.共におられる方
詩篇119:105
マタイ28:20
ヨハネ14:18

神様は共におられ、導かれる方です。
聖書という書物を通して、私たちの人生を導かれる方。そんな形でも共にいて下さる方。 聖書は神の言葉です。その神の言葉がいつでも読める境遇にいるというのは、神の言葉にいつでも触れることができるということです。 まさに神が共におられるのと同じだと言えるでしょう。
神様にこのことを感謝して、聖書に親しみたいですね。

更に神様は今の時代、聖霊として共におられるのです。
世の終りまで、いつも、共にいると約束して下さっています。

有名な「あしあと」という詩です。

ある夜、私は夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合って下さると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」


神様は、わたしたちと今も共にいて、歩んで下さっているのです。


結)これらのことから、わかるとても大切なことがあります。
それは、
「神様は私たちを愛しておられる」 ということです。
”あしあと”の内容からもわかりますが、
神様は私たちを愛の対象として創造し、
愛するが故に、さばくこともなさいます。
また、愛するからこそ、約束し、導かれる。
愛するからこそ、滅びの道に行かないように、救いの道を備えて、わたしたちを救って下さる。
そして、愛するからこそ、共にいて下さる。

神様がどんな方がを知れば知るほど、
神様が私たちを愛して下さっているということがわかります。

私たちも神様を愛し、受け入れるなら、
神様は私たちを救って下さる。
そして、導いて下さるし、共にいて下さる。

神様がどんなに素晴らしい方か、そして愛して下さっているかが少しでも知ることができましたか。 あなたは神様を愛するでしょうか。
祈りましょう。




2005.8.21

「光の中を歩む」

1ヨハネ 1:5-10

序)神のうちには、暗いところは少しもない。
神様ご自身が光だからです。
光の中を歩むということは、つまり、神の中を歩むということ。
私たちは、神様の中を歩みたい。神様と共に歩みたいですね。
私たちが神様の中を歩むということは、どういうことなのか、今日は二つ見ましょう。


1.神様との交わりがある。

神様との交わりがあるというのは、とても素晴らしいことです。
今日午後、食事会がありますが、人と交わることは楽しいことです。
また、何かレクレーションをして交わるのも楽しいですし、
じっくりと語り明かすように交わるのも楽しいです。
でも、人との交わりは一時的ですから、いつもいつもというわけにはいきません。

神様との交わりは24時間365日休み無しです。
いや、これは、私たちがそうしなきゃいけないということではなく、
神様の側が休み無しでいつでも待っていて下さるということです。

夜中、眠れない時や、目が覚めてしまった時、
神様に心を向けて、神様に話し掛けたら・・・
神様は寝ておられますか?いいえ。交わって下さるのです。

神様との交わりがあるというのは、なんと素晴らしいことでしょうか。
本当に大切にしましょう。

しかし、もし、わたしたちが闇の中を歩んでいるならば、神との交わりがない状態と言えます。
そんな状態というのは、なぜ起こってくるのでしょう。
その原因は「罪」です。
しかし、失望することはありません。
神様は、ちゃんと解決を与えて下さっています。
イエスキリストの十字架という解決を・・・。


2.罪の赦しときよめがある。

私たちが神様に罪を告白するならば、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくだるとあります。

神様との交わりがある時に、そこに、罪の赦しときよめがあるのです。
神様の中に歩んでいなければ、神様と交わっていなければ、罪を自覚することも難しくなってくるのです。
すると、罪があるにもかかわらず、「自分には罪はない」と勘違いしてしまい、闇の中を歩んでしまうことになるのです。
だから、聖書は、
「:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」
「:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」
と書いてあるのです。

でも、罪を神様の前に言い表すならば、イエス様の血潮によって、罪赦され、きよめられるのです。

光の中を歩む時、罪の赦しときよめがあるのです。


結)光なる神様の中を歩んでいるなら、
神様との交わりが保たれているでしょう。
光なる神様の中を歩んでいるなら、
罪の告白により、赦しときよめを経験しているでしょう。

私たちはこの素晴らしい真実で正しい方である、神様の中を歩んでいますか。
もう一度、自分の歩みを確認して、神様の中に歩むものになる決心をする人は幸いです。
祈りましょう。




2005.8.28



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