2005年9月〜12月
2005.9.25「あなたの信仰が」 ルカ 7:36-50
2005.10.2「律法を完成する愛」 ルカ 14:1-6
2005.11.13「愛によって動かされる」 使徒 20:7-12
2005.11.20「神につく人」 1コリント 3:1-9
200512.4「主を信頼する心を備える」 創世22:1-14、ヘブル11:17-19
2005.12.11「主に期待する心を備える」 マルコ5:25-34
2005.12.18「主を愛する心を備える」 ルカ 10:25-37、1コリント
13:13
2005.12.25「クリスマスの本当の意味」 ルカ 2:1-20
2005.9.25
「あなたの信仰が」
ルカ 7:36-50
序)この箇所は、あるパリサイ人がイエス様を食事に招いた時に、そのことを聞きつけて、その町で罪深い女と言われていた人がイエス様のもとにやってきて、泣きながら、イエス様のうしろで足のそばに立ち、涙で足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、足に口づけして、香油を塗った出来事と、その時のイエス様の反応、言葉が書かれてあります。
この女の行動とイエス様の反応から、共に教えられたいと思います。
1.女は精一杯愛した。
パリサイ人はイエス様を食事に招いた。しかし、女は自分の涙で水がわりにしてイエス様の足を濡らし、タオルのかわりに自分の髪の毛でその涙をぬぐい、その足に口づけし、香油を塗った。
食事に比べれば、お金もかからないようなことかもしれないが、この女にとっては、イエス様に対する精一杯の愛情表現だったに違いない。
それは、そのあとのイエス様の言葉からもわかります。
私たちは、精一杯イエス様を愛しているでしょうか。
精一杯とは、どんなことをいうのでしょう。
什一献金というのがありますが、これは与えられたものの十分の一を神様にお返しすることです。
月収10万円の人の1万円も月収100万円の人の10万円も神様の前には同じです。
でも、たとえば、月収10万円の人が10万円捧げた場合と、月収100万円の人が50万円捧げた場合とでは、神様の前にどうでしょう。
神様の前に、より精一杯、より多く捧げた人は、月収10万円の人の10万円のささげものです。
什一は10%ですから、同じです。
でも、この場合は、前者は100%、後者は50%です。
どちらのささげものも素晴らしいですが、神様の前により精一杯は、前者の100%です。
女の行動は、食事を用意したパリサイ人に比べれば、金額は少ないかも知れませんが、女にとっては、精一杯でした。
このような信仰は、聖書の他の箇所でも見ることができます。
イエス様は、この女の精一杯の愛に、心が動かされたんじゃないかと思うのです。
私たちは、精一杯の愛でイエス様を愛したいですね。
2.イエス様は最大の評価をして下さる。
口語訳では、 「多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」
とあります。
この女の行動をイエス様は最大限の評価をされているのです。
500デナリと50デナリ、明らかに割合とかじゃなく、金額が違いますよね。
単純に言えば、500万円と50万円の借金の帳消しです。
この女が愛してくれた愛は、500万円の方に相当するという評価をされたのです。
単純に金額の多い方が・・・というたとえ話の中に女のことを表現し、最大限の評価をされたといえるのではないでしょうか。
イエス様は、わたしたちが精一杯愛する時、最大限の評価をして下さる方なのです。
結)最大の恵みをもって報いて下さる。
イエス様はこの女に最大の恵みをもって報われました。
その恵みは、「救い」です。 救いは最大の恵みです。
イエス様は女に「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」といわれました。
この女の信仰とは、何でしょう。 「精一杯、愛する」信仰ではないでしょうか。
この信仰がこの罪深い女の罪がすべて赦されるという救いの恵みに預かる根拠となったのです。
私たちもこの女のように、イエス様に対して精一杯の愛を捧げる、つまり、イエス様を愛する時に、イエス様は最大の評価をして下さり、最大の恵みによって報いて下さるのです。
既に救われているなら、それ以上の祝福を持って報いて下さるに違いないと確信します。
イエス様の愛をいっぱい受けて、イエス様を愛し、神様の恵みと祝福を受けて歩みたいですね。
今日、その一歩を踏み出す人は幸いです。
あなたの信仰は・・・何ですか。
2005.10.2
「律法を完成する愛」
ルカ 14:1-6
序)この箇所は、ある安息日のイエス様の言動についてかかれてあります。
安息日というのは、モーセの十戒にも出てきますが、
出エジプト 20:8-10 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・
という箇所に根拠をおいています。
この日は神様の前に聖なる日として、すべての仕事をしてはいけない。休みなさい。という日です。
ですから、この安息日に、仕事をすることは律法すなわちモーセの十戒を破ることになりますから、それは罪を犯すことだと考えられていました。
そのような安息日の出来事です。
パリサイ派の指導者の家で、イエス様の目の前に水腫という病気の人がいました。
律法の専門家やパリサイ人たちは、イエス様が安息日にこの病気の人をどうされるのだろうか・・・と見ていたのです。
もし、いやされたなら、安息日を破ることになるから、イエスを罪人呼ばわりしようと思っていたのでしょう。
しかし、イエス様は聞かれました。
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と。
でも、彼らは黙っていたのです。
そこでイエス様はその人を抱いていやし、帰されたのです。
そして、こう言われました。 「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
それに対して、彼らは答えることができなかったのです。
イエス様は律法を破られたのでしょうか。 そうではありません。
律法を全うされたのです。
1.黙っていた律法の専門家・パリサイ人
みんながじっとイエスを見つめていた、とあります。
これは、イエス様が「安息日を覚えてこれを聖とせよ。なんの仕事もしてはならない。」という律法を破って、病人を癒すという仕事をするんじゃないだろうか・・・と「じっと」見つめていたようです。
この種類の人達は、人の悪いところ、過ちやスキャンダル等を見つけることが得意のようです。
人間関係の中で、人の悪いところを見つけてそれを指摘していたら、どうでしょう。
関係は悪くなりますよね。 そんなことばかりの中では、いい関係も育たないし、人も育ちません。
本当のその人を知ることもできません。
もちろん、よくないところを嘘ついていいところのように言っているのもどうかと思いますが。。。
この種類の人達はイエス様のいいところよりも、悪いところがないかどうかを必死にみつけようとしていたようです。
だから、イエス様がどんな方なのか、その本質をみることができなかったのです。
これは、律法には詳しかったかも知れないけれど、その本質をみていなかったということにも言えます。
では、イエス様はどうでしょう。
2.癒しをされたイエス様
イエス様は、律法の専門家・パリサイ人に質問もされたし、実際に水腫の人を癒されました。
一見、安息日に仕事をしてその律法を破られたように見えるかもしれません。
でも、そもそも律法とは何か。
マタイ 22:36-40
:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:38 これがたいせつな第一の戒めです。 :39
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
とあります。
律法とは、神様を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する。という言葉に集約されているのです。
イエス様の行動は、その水腫の人を愛した行動です。
仕事をしたら、律法を破ることだから、そんなことをしたら、神様が怒るのか?
そうではないです。神様もその人を愛しておられるから、同じ思いになられたに違いないと思うのです。
愛は律法を完成させるのです。
本物の愛は、ちゃんと伝わるのです。
本物の愛は、心に届くのです。
残念なことに、律法の専門家もパリサイ人もその律法の本質を見つけられずに、その表側だけを知識として貯えていたようです。
私たちは、本当の律法の本質を見、イエス様の本物の愛を見極め、互いに愛し合い、助け合い、支え合い、赦し合い、神様を愛し、成長する人生を歩みたいですね。
今日、そのような歩みを一歩踏み出すことができれば幸いです。
2005.11.13
「愛によって動かされる」
使徒 20:7-12
序)受けた人は動かされる。
阪神大震災から10年以上たちましたが、その震災の時には多くのボランティアが被災地へ援助へ行かれました。
その後、北陸でロシアのタンカーの座礁で重油が海岸に漂着した時や、いろんなところではの地震や天災の時に、阪神大震災の被災者がボランティアとして参加されたというニュースを何度か見たことがあります。
そのインタビューを聞くと、阪神大震災の時にたくさんのボランティアに助けてもらったから、今度は自分達が助ける番だと思った、という話しをよく聞きました。
人は、何かを受ける時に、何かをしてあげたい、という行動へと動かされるのだと思いました。
心に何かを受ける時に、心が動かされるんですね。
今日、聖書から、神の愛に触れ、神の愛を受けて、心動かされた出来事を通して、共に教えられていきたいです。
1.神の愛に触れ、神の愛を受け、 2.神の愛に動かされる。
パウロは、翌日出発することになっていたにも関わらず、夜中まで、明け方まで語り続け、話合ったとあります。
普通、出発する前夜は早めに寝て、備えるものです。
しかし、パウロは、違いました。
翌日に出発だから、もうこれで今度はいつ会えるか、もしかしたらもう会えないかも知れない、だから、出発までの時間を語り合い、交わったのです。
ここには、この人々を愛するパウロの心が見えます。
神と人を愛する愛によって、最後の時間まで捧げたのだと思うのです。
パウロもまた、神の愛に触れ、神の愛を受け、神の愛によって動かされた人だったのでしょう。
使徒9には、サウロがまだクリスチャンを迫害していたところから、イエス様に触れられて、変えられていった記事がかかれてあります。
サウロは、クリスチャンの殺害に賛成し、また、そういう人々を牢にいれるために探し回って、教会を荒らしていた人物でした。
その為にダマスコへ向っている途中での出来事です。
使徒 9:1 -:20
サウロは、イエス様に打たれて、命を落とすような裁きを受けても仕方のないことをしていたと思ったかも知れません。
でも、イエス様はそんなサウロをも愛し、アナニヤを遣わして、選び、生かし、もちいられたのです。
サウロは、主の愛に触れたでしょう。
また、アナニヤがサウロのもとに来た時に、「兄弟サウロ・・・」と言いました。
サウロは自分がアナニヤのような人を迫害していることをアナニヤは知っているにも関わらず、
「兄弟・・」と呼んで祈ってくれた。 そこに主の愛を感じたでしょう。
この記事は、サウロがイエス様の愛を最初に受けた、その愛に触れた出来事だったのでしょう。
その愛を受けて、サウロは神と人を愛する人へと変えられていったのだと思うのです。
だから、このように翌日に出発するというような時でさえ、心が動かされて、
最後の最後まで、今できることによって、愛したのでしょう。
また、アナニヤもこの記事でわかるように、「兄弟サウロ」という前には、主の促しに対して拒んでいました。
しかし、主の愛を受けていたので、最終的には、その愛によって、心動かされて、愛によって動かされて、サウロを愛したのだと思うのです。
また、ルカ19章では、ザアカイという人が登場します。
ザアカイもまた主の愛に触れられた一人でした。
イエス様がエリコを通られた時、そこにいたザアカイにイエス様は声をかけられて、家に泊まられました。
ザアカイは取税人で、嫌われていました。 そのザアカイの家に、あのイエス様が泊まるといわれた。
そして、実際にそうされた。 ザアカイはきっと、イエス様と交わり、話しを聞き、イエス様の愛に触れ、イエス様の愛を体験したのだと思うんです。
そして、ザアカイはいいました。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
施しますといったことも素晴らしいですが、「私が騙し取った物は・・・」と罪の告白もし、その悔改めの実を結ぶ告白までしていますよね。
ザアカイもイエス様の愛を受け、心動かされて、変えられていった一人でした。
そして、貧しい人達を愛するという、ザアカイにとって今できることを告白したのです。
神様の愛に触れ、愛を受ける時、心が動かされて、神と人を愛することへと行動できるようになるのです。
さて、使徒7章では、ステパノという人が出てきます。
このステパノは、イエス様によって変えられて、主の恵みと力に満ち、知恵と御霊によって語っていた人でした。
そのステパノが偽の証言によって、議会にひっぱっていかれて、弁明を求められ、聖霊に満たされて、語った行った時、
人々が煮えくり返る思いで、ステパノを町の外に追い出し、石で打ち殺したのです。
しかし、ステパノはこの時、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。とあります。
正しいことをしているステパノが自分が殺されようとし、まさにその真っ最中に、この言葉を言ったのです。
自分を殺している人を愛しているのです。
神様の愛に触れ、その愛を受けている人はなんという力でしょうか。
神の愛に触れ、神の愛を受けて、心動かされることは本当に大きな力となるのです。
このステパノと同じような情景を思い出されませんか?
結)そうです、イエス様の十字架です。
イエス様もまた、偽りの証言で議会にひっぱってこられ、最後は人々が扇動されて、イエス様を十字架へ・・・となりました。
しかし、イエス様はその十字架につけられている時に、
「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは何をしているか知らないでいるのです」と祈られました。
神は愛です。
イエス様はまさに愛そのものです。
ですから、イエス様は人々を愛し、私たちを愛し、その愛によって行動され、私たちを最後まで愛しとおされた方です。
私たちは、神様の愛に触れ、愛を受ける時に、愛によって動かされていくのですが、
その根源はイエス様です。
イエス様はその愛そのものですから、受けるも何も、その愛によって愛して下さったのです。
私たちは、パウロやザアカイやステパノや多くの聖書に人々、また信仰の先駆者達のように、
神の愛に触れ、神の愛によって動かされるものになりたいですね。
愛がなければ一切は無益である。とコリント1にあるように、
私たちの行動は、神様の愛によって動かされたものとなるよう、
イエス様の愛にもっともっと触れて、もっともっと受けて、
その愛によって動かされて、行動するものになりたいと思います。
2005.11.20
「神につく人」
1コリント 3:1-9
序)誰かにつく?
先日、プロ野球のドラフト会議がありました。
それぞれ希望していた球団から指名されたり、そうでなかったり、といろいろあるようです。
皆さんはどこかのファンですか?
私は○○を応援している。誰のファンだ。 といろいろとひいきにしているところもあるかもしれません。
中には、アンチ○○という人もいたりしますね。
別にそれらは、あなたの人生を変えるわけではありませんから、何ら問題ないでしょう。
勿論、人生をその応援にかけて、財産を全て投げ打って、それらに投じるなら、問題かもしれませんが・・。
でも、私たちはどこかをひいきにしたり、何かに望みを置いたり、だれかについていきたいと思うこともあるでしょう。
しかし、それらが人生に関わることであるなら、とても注意が必要です。
今日は、お読みいただいたところから、
私たちが「人に」つくのか、「神に」つくのか、
その違いをみて、主から個人的に教えていただきたいと思います。
1.人につく・・・肉に属する人
私はパウロに、私はアポロに・・・といっている人々がいたようです。
これらの人は肉に属している人でした。
私は○○先生に、私は○○派に、私は○○教団に、私は○○さんに・・・。
それらは、肉に属する人が取る行動ですし、発言することのようですね。
人間的なレベルでの話しです。
先程のプロ野球だとか、Jリーグだったり、では、人間的なレベルで当たり前です。
カリスマ的な存在だとファンもつくでしょう。
それらは別に構わないのですが、
こと、信仰に関しては、人生そのもの、いや永遠にまで関わってくることなのですから、そうはいきません。
人気のある先生や教会、そういうことも実際はあります。
でも、それが最初の入口にはなっても、本来の信仰がそのままであってはいけないのです。
:5に、 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
とあります。
人が信仰に入るために用いられたり、その信仰の成長の為に用いられたりすることはあるようですね。
でも、その「人」につくことは聖書は警告しているのです。
また、肉に属するとき、ねたみや争いがある:3とあります。
まさにそれは、サタンからきていることだと言えますよね。
肉に属する時、そこからサタンが入り込んでくる危険が非常に大きいといえます。
人につく、肉に属することのないように気をつけて目を覚ましているものになりたいですね。
では、私たちは何につけばいいのでしょう。
2.神につく・・・御霊に属する人
:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。
神につく人は、神様が自分を成長させて下さることを知るのです。
ある人に植えてもらうかも知れません。
ある人を通して、水を注いでもらうかも知れません。
でも、成長させて下さるのは神なのです。
私たちは、誰かを通して植えられたかも知れない、だれかを通して水を注がれたかもしれない、
でも、成長させて下さっているのは神なのです。
植えた人や注いでくれた人に感謝はしても、拝んではいけないように、
人につくのではなく、「神」につくことを聖書は語っています。
どんなに立派な人であっても、
どんなにカリスマ的な人であっても、
どんなに大きな教会を開拓した牧師であっても、
どんなにすごい奇跡をする伝道者であっても、
その人々は、所詮「人」なのです。
その人についていったからといって、救われる保証もなく、正しいとは限りません。
それは所詮、肉に属することだからです。
これからの時代、確実に終わりの時代へと近づいています。
いや、入って来ているかも知れません。
だからこそ、ますます「人」が強調されることもあるかもしれません。
これは、終りの時代に「反キリスト」があらわれることの預言からもわかります。
反キリストということばには、「キリストの代わり」
すなわち、キリストの代用品という意味あいがあります。
キリストということばや、神ということばを使いながら、
その実、キリストと異なる者というニュアンスがあるのです。
ですから、ますます「人」が強調される時代にあって、その注意をすることは私たちに求められるのです。
聖書のこの時代では、パウロやアポロは特別な人だったと思います。
「人」が注目されるのは、聖書の時代だけではありません。
だから、聖書のこの時代のこの出来事についても、それらは肉に属することであって、
御霊に属する人、すなわち神につく人になるように書かれているのです。
結)大切なのは成長させて下さる神です。
大切なのは成長させて下さる神様だけです。
神様についている一人一人であるという信仰を大切にして下さい。
オアシスチャーチを大きくしたいとは思っていません。
私の願いは、ここがその人の救いのきっかけになったり、救われたり、
神様に癒されたり、成長したり、回復したりしていかれることです。
その後、その人々が他の教会で信仰生活を送ることになったとしても、
その人にとってそれが一番神様の前に恵まれた信仰生活を送られることになるなら、大きな喜びです。
教会が1000人になったとしても、その人達がもし私についてきているなら、私は悲しいです。
教会が1000人になるよりも、 1000人の人がオアシスチャーチを通して、救われたり、回復したりして、
生涯イエス様と共に歩む人生を送っていかれて、
私が地上の生涯を終える時に、オアシスチャーチが私一人だけであっても、
その方が私にとっては、喜びです。
教会の人数が増えることは神様がされることだと思っています。
大切なのは、成長させて下さる神だからです。
人につく肉に属する人であるなら、神様につく御霊に属する人へと成長したいですね。
神様につく御霊に属しているなら、神様につき続けましょう。
200512.4
「主を信頼する心を備える」
創世22:1-14 、ヘブル11:17-19
序)アドベント(待降節)ですね。
クリスマスまでの3回の日曜日をクリスマスを迎えるにあたって、
私たちの心を備えていきましょう。
クリスマス、イエス様を地上にお迎えした、その時を祝うときです。
私たちも救い主としてきて下さったイエス様をお迎えする備えとして、
御言葉を通して、私たちの心を備え、イエス様をお迎えするにふさわしいものに今月も成長させていただきたいと思います。
イエス様を迎えるために三つの心を備えさせていただきましょう。
今日はそのひとつめです。
★ 主を信頼する心を備える。
アブラハムとイサクのこの物語から、
「主を信頼する心」を学び、備えていきましょう。
主を信頼するとは、主により頼む、主を信用する、主に従う、といったような意味が含まれていると思います。
一言で言えば、「信仰」といえるかもしれません。
この信仰をアブラハムはもっていました。
アブラハムにとって、イサクはひとり子でした。
また、ただ単に一人っ子だったというだけではありません。
神の約束があったのです。
「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる」と。
そしてまた、この子孫は夜空の星のように、海辺の砂のように増え広がるという約束もされていたのです。
この約束の子をささげよ、といわれたのです。
本当に感情だけで考えるなら、神を敵にまわしても、このかけがえのない我が子を守ろうと考えるでしょう。
それは親として正常な感情です。
でも、アブラハムは、イサクが与えられたことそのものも神からのもので、人間的には不可能だったことが起こったこと。
神がこのイサクから多くの子孫を増やすといわれていること。
そのことを考えると、この子をささげたとしても、神は死者からも生き返らせて下さる方。
死人を生かし、無から有を生み出される方であることを信じ、
神を信頼して、このことに向かったのです。
神を信頼する時、神により頼む時、それは時には感情的に無理と思われるようなことにも従わなくてはならないこともある、ということをも示されているのだと思います。
こうして、アブラハムは、示された山へ、モリヤの山へと向っていったのです。
アブラハムの中では、その覚悟ができた時でした。
その時点で彼の中ではもうイサクは死んだも同然だったでしょう。
そして、3日目にようやくその場所に到着しました。
ふたりは神が告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築きました。
そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いたのです。
イサクはこの時点では、何が起ころうとしているのかわかっていたのでしょう。
老年だったアブラハムを突き飛ばして逃げることもできたかもしれません。
しかし、そのようなことは書かれていません。
そして、アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしたのです。
ここで、アブラハムの信仰だけでなく、イサクの信仰をも見ることができます。
イサクもまた、神が自分の父に何を語られたのかを悟ったのでしょう。
しかし、イサクはそれが神の前にするべきことであるなら、それに従おう。
神に信頼しよう。神にささげようと決心したのではないでしょうか。
イサクの神様に対する信仰、神を信頼する心、神に従う心があらわされています。
アブラハム、イサクともに神に対する信仰、信頼はすごいものだったのですね。
ひとつ感じたことがあります。
アブラハムは素晴らしい信仰者です。信仰の父とも呼ばれています。
しかし、イサクもまた同じように素晴らしい信仰者です。
これは、信仰の継承、信仰を子に受け継ぐことの素晴らしさ、大切さを教えていると思います。
アブラハムがどんなに素晴らしい信仰者であったとしても、イサクに信仰がなければ、ここで逃げ出していたかも知れません。
イサクもまた、神に対する素晴らしい信仰の持ち主だったのです。
さて、アブラハムがイサクをほふろうとした時、
主の使いが天から彼を呼びました。
「アブラハム。アブラハム。」 彼は答えた。「はい。ここにおります。」
御使いは「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。
今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
そうです。 イサクは実際に生きた状態でアブラハムのもとに返ってきたのです。
神はその信仰を見て、喜ばれました。
さて、もうひとつ、気付くことがあります。
アブラハムは決心し、モリヤの山へ出発して、イサクをささげようとした時は3日目でした。
出発した時点で既にアブラハムの中ではイサクは死んだも同然でした。
そして、3日目にイサクが生きて返ってきたのです。
そして、ヘブル書では、「これは型です」とあります。
そう、イエス様が十字架で死なれ、3日目によみがえられたことと重なって見えてきます。
アブラハムもまた、ひとり子をささげ、3日目に生きて返ってきました。
神がひとり子イエスを与えた、この気持ちがアブラハムにはわかるかもしれませんね。
ここにも、アブラハムが信仰の父と呼ばれる所以があるのかもしれません。
クリスマスはイエス様の誕生をお祝いする日。
でも父なる神はイエス様を地上に誕生させられた時、とても苦しい気持ちだったかも知れません。
その三十数年後には、十字架で死ぬことになるのですから。
主を信頼する心とは、このように時には神に従い、感情的には苦しい思いをしいられることもありうるかも知れないのです。
それでも、神を信頼することは素晴らしいことなのです。
なぜなら・・・
結)神は常によい方。
神は常によい方で、私たちに最善をして下さる方なのです。
だから、信頼してもいい。信用していい。従っていいのです。いや、そうすべきなのだと言えるのです。
アブラハムはイサクをささげました。でも生きて返してもらえましたし、アブラハムとイサクの神に対する信仰はますます強いものになったでしょう。
クリスマス、イエス様がお生まれになったことは素晴らしいことです。
でも、その生涯の最後に十字架で死なれたことは、それ以上に私たちにとって素晴らしいことです。
なぜなら、私たちの罪の為に十字架で死なれたから、今私たちは救われて神の前にいることができるからです。
神は最善をされる方なのです。 だから、この神様を信頼するものになりましょう。
神を信頼する心を、クリスマスに向けて備えていきましょう。
2005.12.11
「主に期待する心を備える」
マルコ5:25-34
序)期待することで生きている。
先週、「主に信頼する心を備える」お話しをしました。
私たちは、主に信頼する、拠り頼む、従う心を備えることによって、素晴らしい祝福を体験できるのです。
アブラハムとイサクの話しからそのことを学びました。
さて、今日もまたクリスマスに向けて私たちの心を神様の前に備えていきたいと思います。
今日は、主に期待する心を備えましょう。
私たちの日々の生活はある意味、期待することで生きているといってもいいかもしれません。
先週トラクト配布をしました。 そのトラクトを通して、一人でもイエス様のことに興味を持って下さる方が起こされることを期待します。
私たちは無意識にいろんなことを期待しながら生きているんです。
今日、礼拝にこられた皆さんも、神様からの恵みを期待してこられたのではないでしょうか。
期待することはいいことなんです。
では、期待することを長血の女のお話しから見ていきましょう。
1.期待がはずれることがある
この女は、多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
とあります。
たくさんの医者にかかり、治してもらえるであろうと期待して、お金を払ってみてもらったのに、結局治らず、それどころか悪くなる一方だったのです。
期待が裏切られることは私たちもありますよね。
この映画は面白そうだと思って観にいったけど、期待外れだったとか、
レストランにいって、おいしそうと期待して注文したら、期待外れだったり、
ボーナスを期待していたのに、思ったほどもらえなかったり、
そう、期待外れの時もあるのです。
ある人は、一生懸命勉強して、高学歴の大学へ進学し、将来を期待して一流企業に勤めます。
しかし、今ではそんな一流企業であっても、リストラや倒産も有り得る、そんな時代です。
期待外れだったというような軽いことでは済まされないようなこともあるんですね。
この女もそのように多くの医者に期待を裏切られ、ひどい状態だったのです。
私たちが期待する時、必ずしも期待通りだとは限りません。
しかし、それは仕方ないですよね。
それに答える側が不完全なものですから。
だからかもしれませんが、よく、
「あまり期待しすぎると、外れた時にショックが大きいからあまり期待しない」って人もいますよね。
ぼくも以前はそうでした。
不完全なものに対して期待する時、それは仕方のないことです。
それが現実の世界です。
でも、そうじゃないこともあるのです。
2.希望は失望に終わらない
この女は、 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
とあるように、イエス様の着物にさわることでもできればきっと治る、救われると考え、言っていたのです。
そう、イエス様に期待していたのです。
イエス様に希望をもっていたのです。
「イエス様に」期待していたのです。
今までは不完全な人間に期待して、裏切られてきたのですが、
今後は、 完全な神である、イエス様に期待したのです。
そして、この女は、見事に癒されました。
ローマ 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
イエス様に期待することは外れない、裏切られない。
イエス様に対する希望は失望に終わることがないのです。
結)イエス様を期待する心を備える。
クリスマス、イエス様をお迎えする記念の時です。
その時を、イエス様に期待する心で迎えたいものです。
イエス様に期待することは、虚しく終わらず、裏切られず、外れず、
その期待が大きければ大きいほどイエス様の祝福もまた大きいものであると信じます。
主を期待する心を備えましょう。
そして、強く大きく期待するものに成長させていただきましょう。
イエス様はそれに答えられる完全なかただからです。
2005.12.18
「主を愛する心を備える」
ルカ 10:25-37
1コリント 13:13
序)主を愛する心を・・・
先週、先々週とクリスマスに向けて、私たちの心を備えましょうということで、聖書からご一緒に教えられてきました。
アブラハムとイサクの箇所から、主を信頼する心を備えました。
そして、長血の女の箇所から、主に期待する心を備えました。
私たちが主を信頼し、主に従い、主に対する信仰を持って、
不完全なものや人に期待するのではなく、完全な神であるイエス様に期待する時、
主は私たちの人生に素晴らしい祝福と計画を持って導いて下さるし、応えて下さることを見てきました。
私たちは、イエス様が何かして下さるから、祝福して下さるから、自分の目標を達成させて下さるから、主を信頼し、主に期待し、主に従うのでしょうか。
私たちの欲望の為に、主を使うようなことがあってはならないのです。
私たちの行動には、「愛」が伴っていなければなりません。
1コリント13章では、そのことが書かれてありますね。
愛がなければ、何の値打ちもなく、何の役にも立たないのです。
今日は、3つめとして「主を愛する心」を備えさせていただきましょう。
1.愛する心
愛する心は、いろんなところに向けられます。
プレゼントひとつ買ってあげるにしても、本当に喜んでもらえるものをあげたいと思いますよね。
高いものなら何でも喜ぶとかじゃなく、心のこもった贈り物と表現するように、
「心」を込めるんですね。
これが愛する心であったりするわけです。
だから、相手に伝わったりするのです。
最初に読んでいただいた、サマリヤ人の話しでは、強盗に襲われた人がいましたが、
そこに通りかかった祭司もレビ人も、見て見ぬふりなのか無視していったのです。
しかし、サマリヤ人が通りがかって、この人を見て「かわいそうに」思い、手当てをし介抱したのです。
「かわいそうに」思ったというのがひとつの愛の心であると思うのです。
神様は私たちの心に愛という一言では表しきれないようないろんな感情を与えて下さっています。
かわいそうに思うのは、同情かも知れません。でもこれも愛のひとつだと思うのです。
喜んでいる人を見て、「よかった」と思う心も愛のひとつだと思います。
愛する心とは、相手の思いを察する心、相手の立場に立つ心だと言えるかもしれませんね。
サマリヤ人は、愛する心を備えていた人であったといえるのです。
人を愛する時、それはまた、見返りを期待してしまう時もあるでしょう。
恋愛している人は、相手に自分を好きになってもらいたいがために、愛を表現します。
それは、時には期待通りにはならないこともあるでしょう。
でも、神様を愛する時に、そこには、見返りは必要ありません。
それは、神様がまず私たちを愛して下さったからです。
神様は私たちが神を愛するかどうかもわからない前から、私たちを愛して下さったのです。
そして、今も愛し続けて下さっているのです。
私たちは逆に応える立場なのです。
主が私を愛して下さったから、私も主を愛し、人々を愛します、という心こそ、主を愛する心と言えると思うのです。
サマリヤ人は、イエス様を愛したのでしょうか。
強盗に襲われた人を愛したのでしょうか。
答えは、その両方です。
イエス様は、「これら小さい者の一人にしたことはすなわち私にしたのである」とおっしゃいました。
地上で私たちが隣り人を愛することは、それはイエス様を愛していることでもあるのです。
ペテロはイエス様が死んで復活された後、 「私を愛するか?」と3度言われ、「主よ、私があなたを愛することはあなたがご存知です」と答え、その時のイエス様の返された言葉が、「私の羊を飼いなさい(牧しなさい)」という言葉でした。
イエス様を愛するなら、あなたに委ねられている人々(羊)を愛し、養いなさい、といわれたのです。
イエス様を愛することは、イエス様が愛しておられる人々を愛することなんですね。
イエス様を愛する心を備えたなら、それは隣り人を愛する心を備えたことなのです。
2.愛する心は見える
主を愛する心を備えたなら、隣り人を愛する心を備えたわけですが、
愛することは、何か目に見えないことではないのです。
見えることなのです。
サマリヤ人は、強盗に襲われた人を助けました。
主を愛することがそのような形としてあらわされたのです。
主を信頼する心、主に期待する心、に比べて、主を愛する心は見えにくいにようも思えますが、実はそうではなく、最も見えやすいのだと思うのです。
私たちは、行いを求められているのではありません。
サマリヤ人は善の行いの為に、助けたのではなく、その人を愛する心から助けたのです。
見えている結果は同じでも、その心が違うなら、意味は変わってくるのです。
たから、「愛がなければ、何の値打ちもない」といわれているのです。
私たちも、やらなきゃいけないから行動するくらいなら、辞めておいた方がいいかもです。
愛する心が備えられているなら、そう行動するからです。
ペテロはイエス様に3回も「愛するか」と聞かれました。
ペテロは3回目に聞かれた時は、心を痛めたとあります。
私たちは、もし、愛の心が備わってないから、無理してるから、辞めておこうとする時、
心が痛むのではないでしょうか。
愛する心が備わっていない自分に心が痛くなるのですね、きっと。
それが何度もあるなら、ペテロのように、心を痛めることでしょう。
だからこそ、イエス様に祈るのです。
そして、私たちのうちに賜っている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれると約束されています。
愛する心が備わっていないと感じたら、祈りましょう。
愛なる神様に。。。
その繰り返しの中で、主を愛する心が備わり、人を愛する心が備わり、見える形となってあらわれてくると信じます。
決して、行いを求められているのではないのです。
愛する心を備えましょう。
結)私たちが備える心は・・・
主を信頼する心(信仰)
主に期待する心(希望)
主を愛する心 (愛)
この3つを備えるものになりたいですね。
この3つは、1コリント13:13にあります。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
私たちが備える心は、 信仰と希望と愛、なのですね。
そして、その中でもっとも優れているのが、愛なのです。
今年の世相をあらわす漢字1字は「愛」になったそうです。
私たちの備える心は、 イエス様に対する信仰と希望と愛なのです。
今日、主を愛する心を備えていく人は幸いです。
祈りましょう。
2005.12.25
「クリスマスの本当の意味」
ルカ 2:1-20
序)本当の意味を知ること
本当の意味を知ることは、その出来事やお話しのもっとも伝えたいことを知ることであり、そうしないとわからないこともあるのです。
本当の意味を知ることはとても大切なことですよね。
今日は、クリスマスです。 クリスマスの本当に意味を知って、あなたにとって、今までと一味違ったクリスマスとなれば嬉しく思います。
1.クリスマスの本当の意味とは
:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
@あなたがたのために・・・
クリスマスは、だれの為のものでしょうか。
それは、みなさん一人一人のためなのです。
子供達だけの為にサンタさんがきてくれるから、子供達だけのため?
それとも、イスラエルという遠い国の出来事で、その国の人だけのため?
キリスト教のお祭りだから、クリスチャンだけのため?
そうじゃないんです。 あなたがたのため、全ての人のためのものなんです。
じゃあなぜ、私たちのためなのでしょう。
それは、神様が私たちを愛しておられるからです。
ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
神はあなたを愛しておられ、素晴らしい人生を送ってほしいと願っておられます。
私たちであっても、愛する人には、喜んでもらえるものを本当に大切なものを用意するでしょう。
例えば、今ここにいる人達で、船で旅をしているとします。
タイタニックじゃありませんが、ある時、船が氷山に激突して、沈没してしまうような状況になりました。
なんとか、一艘のボートがありました。ところが、定員があります。
どうしても、1人だけ乗れないとします。その時、自分の命を捨てる覚悟で、誰かがその席を譲ってくれたら、あなたはその人の愛をどう思いますか。
素晴らしい愛だと思うでしょう。
神様はそれ以上の愛で、私たちを愛して下さっているのです。
だから、私たちのためにクリスマスがあるのです。
そして、もう一つ・・・
A救い主がお生まれになりました。
クリスマスは、救い主がお生まれになった出来事です。
クリスマスはイエスキリストの誕生日だというと聞いたことがあると思います。
でもそれは、歴史上のある人の誕生日というよりも、
救い主が地上に生まれた出来事そのものであるといった方が正しいでしょう。
先ほど、神様が私たちを愛しておられるので、私たちの為にクリスマスがあることを見ました。
では、そもそも私たちに救い主は必要なのでしょうか。
ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。
全ての人は罪人であることを聖書は言っています。
刑務所に入ったことはないかもしれません。
法を犯すようなことをした覚えがないとおっしゃるかもしれません。
素晴らしいことです。
でも聖書は、人は罪を犯して、神から離れてしまったので、神の愛も計画も知ることができなくなってしまっていますといいます。
本来、神様と交わることができるものとして神様によって創られたのに・・・です。
エデンの園で、アダムとエバが神の命令に背いて神から離れたから、人間はそうなってしまったのです。
神様に対する反発であっても、神様なんて関係ないという無関心であっても、
神様を認めず、神様に背を向ける自己中心が、聖書のいう罪なのです。
的外れというギリシャ語が使われています。
神様中心で、神様に向かっていなければならない私たちの心がその的から外れた方向に向いている状態をしてしているのでしょう。
そのため、私たちは神様と離れてしまい、神様の存在もその愛も知ることができないのです。
この間を橋渡ししてくれるのが、「救い主」です。
そうです。私達には「救い主」が必要なんですね。
クリスマスの本当の意味とは、
「あなたを愛しておられる神様が、
救いを必要をしているあなたのために、
救い主として地上にお生まれになった。」
結)あなたも救われて、神の愛を知る
実際にイエスキリストは、その生涯の最後に十字架で死なれました。
これは、私たち人類の罪の身代わりとして死なれたのです。
ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
先程の船の沈没の話しをたとえにしますと、
その時に席を譲ってくれた人が身代わりとなったのです。
その身代わりがあったから、あなたが救われるのです。
全ての人が罪人であることをお話ししました。
罪人が罪人の罪の身代わりになることはできません。
罪のない人じゃないと身代わりにはなれないのです。
イエスキリストは、クリスマスに生まれられ、罪を犯すことなくその生涯を送られ、
その生涯の最後に罪のない人として、罪の身代わりとしてその罰を受けられたのです。
クリスマスの本当の意味を知りました。 それは素晴らしいことです。
でも、もっと素晴らしいことは、その救い主の救いを自分のものにすることです。
ボートに乗って救われるのに、その席を空けてくれた身代わりになってくれた人がいるのに、
自分もボートに乗らなかったら、せっかくあけてくれた席は空席のままで、あなたも救われません。
身代わりになってくれた人の好意を愛を受け入れて、その救いを助けを受け入れる時、あなたは救われるのです。
イエスキリストがあなたの罪の身代わりとして死んで下さったのに、それを受け入れないでいるなら、せっかく救いが用意されているのに、救われません。
イエスキリストを受け入れ、その愛を受け入れる時に、あなたは救われ、あなたはその愛を知ることができるのです。
今日、このキリストを受け入れる時に、あなたにとって、本当の意味でのクリスマスを体験することでしょう。
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