2006年9月〜12月
2006.9.10「心を守り、主を信頼する」 詩篇 37:1-11
2006.9.24「そこにイエス様がおられても」ルカ 6:6-11、:17-19
2006.10.1「そこには愛がある」ルカ 14:1-6
2006.10.22「祈りはきかれるのか。」使徒 12:1-17
2006.11.5「正しい判断をするために」マルコ15:6-15
2006.11.19「弱さを誇ろう」 2コリント 12:7-10
2006.12.31「神が望んでおられる」1テサ5:16-18
2006.9.10
「心を守り、主を信頼する」
詩篇 37:1-11
序)いつも神様の前に立つ
これは、ダビデの歌です。 ダビデはいつも神の前に立つ人でした。
神様に心を向けて歩む人でした。 そうじゃない時もあり、罪を犯したこともありましたが、その後、正直にその罪を神の前に告白し、神様に心を向け続けた人でした。
このダビデの歌が聖書に記されている。 つまり、神の言葉として私たちは受け取ることができるのです。
いつも心を神様に向けましょう。とお話ししています。
今日、この箇所から、神様の前に立つ人ダビデとその神の御言葉から、私たちもまた神の前にいつも立つものであるために教えられたいと思います。
この箇所で私たちが教えられることを二つみます。
1.心を守る。
腹を立てるな。
ねたみを起こすな。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
これらを実行することは一見難しく思います。
これは何をいわんとしているのでしょうか。
エペソ 4:26-27 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。
とあります。
腹が立ったり、怒ったり、憤ったりすることはあるでしょう。
でも、そのままでその日を終わらせてはいけないと新約で語られています。
ダビデも、怒ることも憤ることもあったでしょう。
でも、それらは何にもよいものを生み出さないことを知っていたのでしょう。
そのようなものに、自分の心を任せてはいけないことを教えられているのではないでしょうか。
:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
とあるように、悪を行うもの、不正を行うものに対して、そのような感情が引き出されることがあると思うのです。
みなさんも腹が立つこと、怒ること、憤ること、妬んでしまうことはあるんじゃないでしょうか。
だいたい、そういうことは、不正なことをされたり、悪いことに遭遇したりしたときだと思うのです。
つまり、私たちの中の正義な部分が触発されるのかもしれません。
だまされたり、悪いことをされたり、、、
でも、そのままで日を終わらせてはいけない。そのままでいてはいけない。と聖書は言っています。
そのままでいると、「それはただ悪への道だ。」というのです。
だから、私たちは、イエス様によって、心に平安をいただき、心を癒していただき、心を守っていただく必要があるのです。
怒ったり、憤ったり、腹が立ったり、妬んだりしやすいことがあるでしょうが、
そのままで日が暮れることのないよう、イエス様に心を守っていただきましょう。
2.主に信頼する。
怒ってはいけない、妬んではいけない、憤ってはいけない、腹を立ててはいけない、、、
と、マイナス向きの面を話しましたが、プラス向きの面も見ていきましょう。
主に信頼するもの、主にゆだねるもの、主を待ち望む者、になりましょう。
主に信頼するものは善を行うでしょう。
これは、善業によって救われるということではありません。
主に信頼するならば、悪を行うものに対して腹を立てたり、不正を行うものに対してねたみをもつのではなく、
主に信頼して善を行うものになろう、という意味です。
また、世のいろんなことを喜びとしないで、主を自分の喜びとする時に主は私たちの心の願いをかなえて下さるのです。
私たちの歩むその道を主に委ね、主に信頼する時、主が正しい道を歩む人生を成し遂げて下さるのです。
そして、私たちの義を明らかにして、その道が正しいことを真昼のように明らかにして下さるのです。
主は悪を行うものに祝福を与えず、断ち切られ、しばらくの間だけいるだけで、いずれいなくなるとおっしゃいます。
しかし、主を待ち望むものは、地を受け継ぐといわれます。
ですから、私たちは主を信頼し、主にゆだね、主の道を歩み、主を待ち望むものでありたいと願います。
結)悪は滅び、義は輝く。
怒ったり、憤ったり、腹を立てたりするなと言われても、理不尽に感じて、そういう感情がくることもあることも話しましたが、聖書は言っていますね。
その原因である、悪を行うもの、不正を行うものは、しばらくはいるけどもいなくなるというのです。
人は全世界を得たとしても自分の命を失ったら何の得があるでしょう。
それならば、永遠の命をいただいているものは、なんと幸いでしょう。
私たちは、いずれ滅びいなくなってしまう悪や不正を行うものの為に心を乱されて、悪の道へ行くのではなく、
主によって心を守っていただき、主を信頼して、主の道、義の道を歩み、主を待ち望み続けるものでありたい。
そして、そのような道をイエス様が十字架で命を捨てて用意して下さったのです。
その救いの道、義の道を更に歩み続けるものとなりたい。
祈りましょう。
2006.9.24
「そこにイエス様がおられても」
ルカ 6:6-11、:17-19
序)そこに必要な人がいても。。
先日、新しくPCを買い換えました。
仕事用のものが丸7年だったので、突然止まればたちまち仕事にも影響するので、少し前から検討していました。
そんな検討しているときに、ノートPCのHDが壊れてしまい、データが飛んでしまいました。
まあ、仕事の方ではなかったのでよかったですが、ノートPCも見てもらって、そちらのHDも換えてもらうことにしました。
で、いよいよ注文して、木曜に納品でした。
午後から来てもらって、結局夜7時半に帰られるまで、設置からデータの移行から、セッティング等、いろいろとしてくださいました。
使い方や、変更点など、いろいろと教えてもらいました。
ほかに何か聞いておくことはないか・・と思い、いくつか聞いて教えてもらったり、セッティングしてもらったりしました。
帰られて、夜にできる分だけでも、自分でやらなきゃいけないセッティングとかをしようといろいろと触っていました。
すると、これは?あれは?といろいろと出てくるのです。
早速、翌朝、電話して聞いて、セッティングしたり、どうしても見てもらわないとできないものは、保留にして、とりあえず使うことにしたりしました。
もし、そこにそのために必要な人がいたとしても、何も聞かなかったら、その人の持っている専門的な能力で自分が恩恵にあずかることはできません。
でも、その人の能力を期待し、わからないことは何でも聞いて、教えてもらったり、セッティングしてもらったりできれば、その恩恵にあずかれるわけです。
今読んでいただいた箇所では、イエス様がおられるという同じ状態であるにもかかわらず、かなり違う状態になっています。
そのことから、私たちも学び、私たちのとるべき行動、信仰とは何かを見ていきたいと思います。
まず、一つめは、、
1.会堂でのイエス様
会堂でイエス様が教えておられたときに、律法学者やパリサイ人たちは、イエス様を訴える口実を見つけようとしていた。
右手のなえた人がいて、イエス様はこの人の右手をいやされた。
しかし、ここでは、このしるししか書かれていない。
イエス様がせっかくそこにおられても、さほどしるしも起こらず、
そのしるしをされたとしても、分別を失ってしまって、このイエス様をどうしてやろうかと話し合うような状態です。
聖書の知識があり、行いをしているように見える人たちが集まっていて、
そこにイエス様がおられてもこのような状況になってしまうのです。
これは、イエス様を信じず、疑い、それどころか、邪魔者扱い、異端あつかいしている状態です。
このようなところでは、イエス様の御業はあまりにも少なく、雰囲気も悪くなってしまうようです。
出エジプト 20:8-10には、
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 」
とありますから、一見、律法学者やパリサイ人が主張しているようなことは、正しく見えます。
私たちがこの会堂の中にいたら、どういう反応をしていたかわかりませんね。
この会堂の多くの人たち(律法学者やパリサイ人)のイエス様に対する気持ちは、
妬み、疑念などで、あるいは憎しみだったかもしれません。
そんな気持ちでイエス様に対しているようでは、せっかくイエス様がそこにおられても、こんなことになってしまうのです。
もうひとつは、、
2.平地でのイエス様
平らな所、つまり平地、野原みたいなところでしょうか。
そこには、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海辺からきた大勢の民衆がいました。
それらの人々は、イエス様の教えを聞き、また病気を直していただこうしてきた人であったり、
汚れた霊に悩まされていた人たちでした。
そして、それらの人々はどんどん癒されていったようです。
群集のだれもが何とかしてイエス様にさわろうとしていたとあるように、みんながイエス様に期待し、求めていたのです。
ここでは、多くのしるしがなされました。
会堂での様子とは全然違います。
この人たちのイエス様に対する気持ちは、
期待、望み、求め、といったイエス様のすばらしさを認め、信じ、期待する気持ちが大きかったのでしょう。
そのときにイエス様の多くの御業がそこにあらわれました。
では、イエス様はどうなのでしょう。
:19後半に
大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。
とあります。
イエス様から大きな力が出ていたのです。
これは、多くの人の、イエス様を信じ、イエス様を求める信仰がイエス様の内にある無限の大いなる力を引き出したということもいえるでしょうし、同時に、イエス様には大きな力があるということが言えるでしょう。
会堂でのイエス様も同じイエス様です。
大きな力を持ったお方です。
でも、その力が現されたのは、右手のなえた人のいやしだけでした。
この平地では押し寄せる大勢の人々が次々といやされていったのです。
イエス様に期待し、イエス様を求める人々に主はその大きな力をあらわされるのです。
結)その違いはどこに・・・。
一見、会堂というすばらしい場所でイエス様の教えがされているというすばらしい状況に思える中でも、
そのイエス様に対する、妬みや疑念や憎しみといった心がそこに多くあると、
そこは、会堂であっても、うるわしい場所ではなくなってしまう。
しかし一方で、一見、アウトドアの平地の何もないようなところで、雨でも降れば濡れ、風が吹けば砂埃が目に入るかも知れないような会堂と比べるならば、恵まれているとは思えない状況であっても、
そこにおられるイエス様に対する、期待や希望や愛といった心(信仰)が多くあると、
そこは、ただの平地、原っぱではなく、すばらしいイエス様の大きな力が現される、うるわしい場所となるのです。
この違いはどこにあるのでしょうか?
イエス様?いいえ、違いますね。
イエス様がそこにおられるという状況での私たちの側にあります。
律法学者やパリサイ人と、平地での多くのいやされた人の違いは、その人の内側にあるのです。
会堂で右手がいやされた人は、きっとイエス様に対する期待をもっていたのではないかと思うのです。
だから、こんな状況の会堂でもこの人はいやされた。
つまり、違いは、
私たちの内側にあるのです。
哀歌 3:25
新改訳)主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
口語訳)主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
真にイエス様を待ち望み、尋ね求め、主につくものになりたいですね。
そのときに、本当のイエス様の大きな力にそこにあらわされるからです。
2006.10.1
「そこには愛がある」
ルカ 14:1-6
序)イエス様がされたこと。
先週も同じような状況の箇所からのメッセージでした。
安息日に何のわざもしてはいけないのに、癒しをするだろうか・・と見ていた律法学者やパリサイ人等がいた会堂での一人の人の癒しと、
平地で、多くの人がいろんなところから集まってきて、多くの人が癒されていったお話でした。
同じように、大いなる力を持ったイエス様がそこにおられても、私たちの側の違いでその表される力は違ってくることを見ました。
イエス様は変わらないのですが、私たちの側が違うということです。
さて、今日の箇所も先週の会堂での状況と同じようです。
そして、またしても、安息日であるにもかかわらず、イエス様は、水腫をわずらっている人を癒されました。
イエス様がされたことは同じですね。
先週は、私たちの側の心に注目してみましたが、今日はイエス様の心に注目してみたいと思います。
1.愛ゆえに・・・
イエス様が水腫をわずらった人を癒されたのは、律法学者やパリサイ人達にあてつけるためにされたのでしょうか?
そうではないですね。
これは、イエス様の愛ゆえに・・です。
イエス様は、水腫をわずらっている人を哀れみ、愛するがゆえに癒されたのです。
私たちが救われたのはどうでしょうか。
私たちが癒されたのはどうでしょうか。
それがイエス様の仕事だから、そのようにされたのでしょうか。
否、それは、イエス様が私たちを愛しておられるから、救われたのであり、癒されたのです。
イエス様は私たちを愛するゆえに、救いを備え、
あらゆるよき物を備えてくださっているのです。
2.イエス様からあふれているもの
@イエス様の律法は愛から
律法はだれが作ったものですか。
だれからあたえられたものですか。
モーセの十戒から始まり、律法は神様から与えれらたものです。
つまり、神様から出たものです。
その律法は私たちを裁くために、私たちを苦しめるために、憎しみから作られてものでしょうか。
この律法は、神様の愛があふれたものです。
神様が私たちを愛するゆえに、私たちを愛し、私たちを守るために作ったものです。
水腫をわずらっている人をイエス様は愛するがゆえに癒されたように。。
イエス様の律法は愛なのです。
イエス様の愛があふれたものが、律法とも言えるでしょう。
Aイエス様の行動は愛から
イエス様の行動はいつも愛にあふれています。
5000人を給食されたときも、群集を見て哀れに思われ、教えられ、給食されました。
姦淫の場で捉えられた女に対しても、私もあなたを罰しない、と言われ、裁くためではなく、救うために行動されました。
イエス様の行動は、そのうちにある愛があふれたものなのです。
イエス様のその行動を聖書から見るとき、いつも愛からです。
癒しの必要な人を哀れみ、息子を亡くした人をかわいそうに思い、、、
イエス様の愛があふれて、その行動となって表れているのでしょう。
結)十字架は究極の愛のしるし
イエス様は私たちを愛し、律法を与え、行動してくださるお方です。
その究極の表れが、十字架の御業です。
十字架の死に至るまで、忠実に仕え、私たちを愛してくださった。
そして今も愛してくださっている。
私たちはこの愛を受けることができるのです。
ローマ 5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
この大きな愛を受けて、癒された水腫をわずらっていた人は、きっとこの後の人生をさらに神を愛し、仕える人生を歩んだと信じます。
私たちもイエス様に流れ、あふれている愛を受けて、神を愛し、自分を愛し、人を愛する歩みをしていきたいですね。
その一歩を踏み出す人は幸いです。
2006.10.22
「祈りはきかれるのか。」
使徒 12:1-17
序)祈りはきかれるのか。
今まで、どのようなことを祈ってきましたか?
そして、その祈りは聞かれてきましたか?
数え切れないほどの祈りの課題をイエス様につきつけてきたなぁと思います。
そして、それらは聞かれたものもあれば、今はまだのもの、聞かれなかったのかな?と思うもの、等さまざまです。
今日、お読みした箇所で、「祈っていた」という箇所が出てきます。
この祈りによって、何が起こったのか、そのことから教えられていきたいと思います。
1.大ぜいで祈っていた。
:5 教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
:12 そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
ペテロが捕らえられてしまったわけですが、
教会では、熱心に神に祈り続けられてました。
また、ヨハネの母マリアの家でも大ぜいの人が集まって、祈っていたのです。
マタイ 18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
マタイ 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
少なくとも複数の人が集まり、祈られていたのです。
私たちも普段、一人で祈ることもあるでしょう。
それは素晴らしいことです。イエス様との交わりが深くされていくことです。
また、複数人で集まり、祈り会を持っています。
これは、本当に素晴らしいことですね。
その中にイエス様がおられ、そこでの二人以上の心を合わせた祈りがささげられているのです。
ここでも、教会で、またヨハネの母マリアの家で、祈りがささげられていたのです。
2.わからない道も通る。
ペテロは結果的に、牢から助けられました。
すばらしい御業がなされたのです。
しかし、ペテロがそのことに気づいたのは、
:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。・・
です。
それまで、7節から10節までに書かれているように、御使いが現れ、ペテロを起こし、脱出する準備をさせ、御使いの後をついてこさせ、門を次々と開けて、町に通じる門まで開けて、導いたのに、ようやくそこで、何が起こったのかがわかったのです。
私たちの人生の中で、今はわからないがあるときに、今までのことの意味がわかるときがくるということを経験されると思います。
これは、年齢の高い人ほど多いかも知れません。
祈っていても、それが聞かれるまでの間、どこで何が起こって、それが祈りの応答なのかどうかもわからないこともあると思います。
しかし、あるときに、それが祈りの応答であることがわかることもあるのです。
ペテロを途中までは、幻をみているようで、現実のこととして受け止められなかったようですし、そのようなすばらしい御業がなされているのに、御使いがいなくなってから、ようやく気づいたようです。
また、祈っていた人たちも、ペテロが帰ってきたというのに、信じませんでした。
何が起こっているのかわからなかったのです。
私たちにもまだ聞かれていないと思っている祈りの課題があるかもしれません。
でも、実は私たちの理解できないところで、すでに動き始めているかもしれないのです。
祈り続けたいですね。
結)祈りはきかれる。
ここでは、祈りは聞かれました。
ペテロのための祈りは、ペテロが牢から解放されるという応答がなされました。
私たちが祈っている課題は、課題として祈りましょう。
でも、その応答、つまり答えは主にゆだねるのです。
もし、義務教育で、聖書が教えられるな教育制度になりますように、、、と祈ったとしましょう。
でも、それが果たして神様の御心なのかどうかわかりません。
ローマの国教がキリスト教になってから、キリスト教は荒廃していきました。
同じとは思いませんが、神様の御心は神様の側にあるのです。
私たちが変えることはできません。
家族が救われてほしいと願います。
でも、その方法は私たちが願った方法になるかどうかはわからないのです。
神様は、祈りを聞いてくださっています。
そして、時にかなって答えてくださいます。
イエス様が地上にこられた時、弟子たちは
「この方こそ、メシア救い主だ。この方が王国を築いてくださるのだ。」と希望を持ちました。
しかし、十字架で死なれることを聞いて、ペテロはそんなことがあってはなりませんといいました。
その気持ちとしては、理解できます。
救い主として来られた方が王として王国も作ってないのに、死んでしまうなんて、、、。
人々の希望なのに、そんなことあってはならないという気持ちもあったと思うのです。
でも、イエス様はそんなペテロに対して、
「サタンよ、下がれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
と言われました。
神の御心は、イエス様が十字架にかかって命をささげることでした。
では、神様は救い主を待ち望んでいた人々の希望を打ち砕いたのでしょうか?
そうではないですね。
その十字架の死によって、救いは完成したのです。
祈りは答えられたのです。
私たちは、自分にできることをしますが、この結果(答え)は神様にゆだねましょう。
祈りは聞かれるのですから、希望をもって、祈り続けることをしていくものになりたいですね。
2006.11.5
「正しい判断をするために」
マルコ15:6-15
序)イエス様の十字架刑が決まった。
まさに、イエス様が十字架の刑に決まった瞬間の出来事がかかれてあります。
イエス様が十字架にかかることは、私たちが救われるためにはなくてはならないことでした。
これはまた預言の成就でもありました。
でも、イエス様は罪に定められるような方だったのか、罪人だったのか、、、
だから、十字架の刑に決まったのか、というと、実は違います。
人々は間違った判断をしたのです。
つまり、罪人ではない人を罪人とし、罪のないかたに罪を定めたのです。
なぜ、そのような間違った判断を下してしまったのでしょう。
そのことは、今日読んだ箇所でも見ることができます。
見ていきましょう。
1.扇動された。:11
祭司長たちは群集を扇動しました。
人々は、上に立つような人や、策を持った人に扇動されて、間違った判断をしてしまうことがわかります。
ア○リカがイラ○戦争を起こしました。
911テロにより、ア○リカはテロにより、その脅威にさらされた。
だから世界中のテロの脅威を撲滅するのだ。とか、
イラ○が大量破壊兵器をもっているから、とかいって、
イラ○を攻撃しました。
これも上にたつ人によって、ア○リカという国が扇動されて、間違った判断をした例です。
ア○リカ人が全て悪いとはいいませんが、実際、このときに、ブ○シ○大統領の支持率は上がりました。
多くのア○リカ人は扇動されたのです。
私たちは、誰かに扇動されて信仰を持ち、信仰生活を送るのでしょうか?
きっかけを作ってくれる人もいるでしょう。
でも、扇動されて、その信仰を持ち、扇動されて、信仰生活を送ることは、避けなければなりません。
イエス様に影響を受け、御言葉の土台の上に自分をおき、神の御心を求めて歩まなければならないのです。
そこには、誰にも扇動されることがあってはならないのです。
もうひとつ、
2.多数の意見が通った。:14-15
扇動された人々は、ますます激しくイエス様を十字架につけるように要求しました。
それにより、ピラトは、群集の機嫌をとろうと思い、バラバを釈放し、イエス様を十字架につけるように引き渡したのです。
ここでは、多数の意見が通ったのですが、それは間違った判断でした。。
多数決というのは、民主主義の基本でしょう。
一見正しく見えるようですが、実はこれは、正しいか否かを判断する基準ではありません。
多数決は、多く人がそれを望んでいるということであって、正しいかどうかの判断ではないのです。
北○○という国は、現在の元首を支持しています。
選挙をしても、投票率は限りなく100%に近く、その支持率もそうです。
でも、それが正しいかどうかというとそうではないのです。
多数決で多いから、それが正しいのではなく、そう望んでいる人が多数いるという状況なのです。
もし、多数決がただしいのでしたら、キリスト教は正しいとはいえませんね。
少なくとも日本では、そうでしょう。
ア○リカが起こしたイラ○戦争、これも多数決でいうなら、もしかしたら、賛成が多いのかも知れません。
でも、その判断が正しいかどうかの基準ではないのです。
同じように、多く人がある出来事に賛成しているからといって、それがいつも正しいとはいえません。
でも、この世の中では、多数の意見が通る世界なのです。
だから、注意も必要です。
天皇制についても、女性天皇を認めたほうがいいという世論も多くなってきています。
だからといって、それが正しいかどうかはわかりません。
世の中の人々がそう望んでいるに過ぎないのです。
これは、キリスト教の世界でもいえます。
多数が賛成しているから、それが正しいかどうかというのは、また違うのです。
結)神の言葉は正しい。
私たちが正しいかどうかを判断することは難しいかも知れません。
でも、神の言葉は正しいし、神様は絶対に間違いのない方です。
神様が「白」といわれて、50億人の人が「黒」といい、
1対50億という票数であったとしても、
50億人が「黒」だと思っているが、正しいのは、「白」なのです。
私たちは、何を基準に信仰生活を送るのでしょうか。
神様が正しいと言われることを基準にしなければならないのです。
でないと、判断を間違うこともあるのです。
神の言葉にしっかりと立って、神様が正しいとされることを基準にしていきたいですね。
そのことは、私たちの能力でできることではないかもしれません。
でも、神様にそのことを絶えず求め、判断を間違うことがないように、祈り続け、求め続けるときに、
ここで、十字架にかかられたイエス様が私たちを救い、助け、導いてくださると信じます。
この神様だけを唯一正しい方として、見上げつつ、その歩みを進める人は幸いです。
2006.11.19
「弱さを誇ろう」
2コリント 12:7-10
序)弱点はありますか。
完璧な人はいないと思いますが、誰しも弱点はありますよね。
ぼくもたくさん弱点はあります。
どちらかというと、広く浅く物事を知ることが好きで、
ひとつのことに深く理解を進めようとすると、続きません。
忍耐がないんですね。。
オタクといわれる人はある意味すごいと思うんですよ。
一つのことについては、本当に異常なほどに詳しいわけです。
ぼくにはできないことです。
みなさんはいかがですか?
いやぁ、私は弱点だらけだ・・・って人がおられたとしても大丈夫です。
今日はそんな方には一番恵まれるお話かもしれません。
パウロにとって、肉体に与えられた一つのとげ、つまり弱点は、高ぶることのないようにするためのものであったようです。
でも、実はそのままでいいと主は言われたようですね。
その理由を見ていきましょう。
1.主の恵みは十分であるから。
「私の恵みはあなたに十分である」と主は言われました。
私たちはつい、「主よ、あれも必要です。これも必要です。ここに恵みが足りない・・」というように主に求めることがあるでしょう。
求めることはいいことです。
でも、時にイエス様はこのように言われることもあるんですね。
「私の恵みはあなたに十分である」
これは、これ以上はあなたに恵みを与えませんよ、という意味ではありません。
もう既に十分恵みは与えていますよ、という意味です。
私たちに対して主は、十分な恵みを与えてくださっています。
それなのに、「足りない、足りない・・」と不平不満を言うことは避けたいですね。
たとえば、こういうたとえはどうでしょう。
あなたの両親には莫大な資産があり、お金持ちです。
その両親から「必要なものはいつでもいいなさい」といわれたとします。
しかし、毎月の小遣いは5000円だとします。
とりあえず、親にいわずに買う必要のあるものはその5000円で買えるとします。
で、必要なものができました。
移動のための自動車が必要なら、自動車が与えられます。
かばんが必要なら、かばん。服が必要なら服。靴が必要なら靴。家が必要なら家。。
でも、現金で1億円がほしいといったら、どうでしょう。
両親にその現金を用意する能力はあっても、与える必要のないものは与えません。
不足はしていませんし、十分なお金はあります。
でも、必要以上にはあなたは「自分では」もってはいないのです。
神様の恵みも十分です。
あなたに必要なものは神様はご存知で満たしてくださるお方です。
不足はしていません。十分に用意されており、与えられているも同然なのです。
このように、神様の恵みはあなたに十分なのです。
その神様を求め、神様に信頼するものになりたいですね。
2.キリストの力が現れるから。
「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」
弱さをもったままでいいというのは、
その弱さのうちにキリストの力が完全に現れるからです。
弱いところにその力が現れるということはいろんなところで経験することでしょう。
寒さに弱い人は、あったかい格好をします。
ダウンジャケットなんかは本当にあったかいですよね。
ダウンジャケットの力が発揮されるわけです。
「補強」という言葉がありますが、まさに弱いところを補い強めるという意味ですが、
そのような意味合いがあるとすれば理解しやすいでしょう。
昔から正義の味方のような子供用の番組がありますが、
誰かが助けを必要としているところに颯爽と現れて、
敵をやっつけて助けるというお決まりのパターンでした。
もし、ヒーローが現れる前に、やっつけちゃったらどうでしょうか?
ヒーローの出番はなくなります(笑)
弱さがあるから、強いヒーローの力が現れるのです。
先ほどの両親と子供のたとえ話ですが、
もし、その子供に莫大な支払いが必要となったときに、
自分で支払ってしまえば、それで終わりですが、
親がそれを支払えば、親の資金力という力が現れるわけです。
私には、忍耐がない、継続することが苦手という弱さがあることを最初に少し触れましたが、
それでも、クリスチャンになってこの信仰生活を19年継続できていることは、
まさに神様の力が現れた証だと思います。
私たちが弱さを覚えるとき、それはイエス様の力が現れるチャンスなのです。
だから、そのままでもいいのです。
イエス様の力を私たちの人生に、生活に現していただきたいですね。
結)弱さを誇ろう。
だから、私たちは弱さを誇りましょう。
弱点、弱さがあっていいのです。
その弱さの中でもキリストの恵みは十分で、
その弱さにこそ、キリストの力が現れるからです。
パウロも言っています。
「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と。
2006.12.31
「神が望んでおられる」
1テサ5:16-18
序)今年を振り返って・・
今日は大晦日です。
今年を振り返ってみることはとても有意義なことですね。
聖書には、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」ともあります。
「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること」とあります。
神が私たちに望んでおられることを見て、今年を振り返るときにしたいと思います。
1.いつも喜んでいなさい。
先週は、クリスマスパーティで楽しいときを過ごしました。
主を喜び、その時間を喜びました。
楽しいことがあると喜ぶことができるものです。
でも、ここでは、「いつも」喜んでいなさい、とあります。
楽しいときじゃなくても、主を喜び、そのときを喜んでいなさいというのです。
「いつも」つまり、いつでもどんな時でも、喜んでいなさい。
いつもいつも、楽しい気分になれるときばかりではありませんが、その中でも主を喜び、互いに喜んでいられたなら、本当に幸いでした。
そして、神がそのようにいつも喜んでいることを私たちに望んでおられるのです。
みなさんの今年一年の中ではどうだったでしょうか。
来年はますます、いつも喜んでいるものになりたいですね。
2.絶えず祈りなさい。
「絶えず祈る」ということは、簡単なことではありません。
でも、だからこそ、これをしていくことを主は望まれているのです。
現在、いろんな方の祈りの課題があり、祈っています。
ある方は、家族のために毎日信じ続けて祈っているということをお聞きしました。
絶えず祈ることは、神が私たちに望んでおられることでもあり、神が私たちの祈りに応えてくださることでもあると信じます。
12月は、「絶えず祈ること」を神が望んでおられて、そのことに取り組んだときであったと思います。
そして、これは今後も是非続けていきたいですね。
3.全てのことについて、感謝しなさい。
一年を振り返るとき、年忘れじゃなく、感謝を数え覚えるときとしたいですね。
神様が全てのことについて感謝することを望んでおられます。
みなさんの今年1年の中でも、いろいろなことがあったことでしょう。
でも、その全てについて感謝するなら、それは神が望んでおられることですから、神様は喜んでくださいます。
@互いに感謝しましょう。
A自分に感謝しましょう。
B神様に感謝しましょう。
感謝を数え、覚えることは神が望んでおられることであり、神様が喜ばれることです。
今年を忘れるものではなく、今年を覚えて感謝するものでありたいですね。
結)神が望んでおられること
「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する。」
今年を振り返って、
いつも喜んでいられたか、
絶えず祈っていたか、
全てのことを感謝していたか、
振り返って、イエス様に感謝を捧げ、この年を締めくくり、新しい年をイエス様に期待していきたいと思います。
祈りましょう。
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