2022年10月23日
聖霊は聖ルカがルカによる福音書を書くように霊感を与えました。その時、他の福音書(マタイ、マルコ、ヨハネ)にない今日の福音書の例え話を含めるように導きしました。“ファリサイ派の人と徴税人”との例え話です。この福音書を読む最初の読者達はキリスト信者やキリストに興味がある人でした。ファリサイ派の人と徴税人の為に書いたわけではなくて、教会の人々のためでした。この例え話は、他の人よりも、教会の人についてです。教会の人々はそのファリサイ派の人と徴税人のようでした。ある教会の人は、そのファリサイ派の人のようでした:祈る時、自分がどんなに良い人か誇りをもって祈りました。別の人は、その徴税人のように、自分の罪の為に悩みました。聖ルカの時代から、教会の歴史の中で、今日までに、ずっとこのようです。それで、この例え話が私達のためにも、自分の祈りの習慣や自分のキリスト者としての生き方を考える時、一つの忠告で、一つのチャレンジになります。今日の福音書の最初の一節を読みます。「18: 9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。《又、この例え話の目的とは、教会の中での誤りを直して、罪の赦しの確信を与える事です。
“11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、上正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』”
そのファリサイ派の人は、確かに良い人でしょう。正直で、正しい人で、誠実でしょう。宗教的に、祈りや断食や献金に対して真面目でしょう。教会の立派な会員になるでしょう。教会の中で活動的で、よく献金するでしょう。しかし、神様によって「義とされる《必要が無いと思いました。自分で自分を義とされるからです。自分が罪を犯した事が無いと思ったので、赦しや義とされる事がいらないと思いました。自分のプライドや他の人を見下す罪の一番ひどい時とは、「この徴税人のような者でもないことを感謝します《と言った時です。
もう一人がいます。「13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』《
そのファリサイ派の人と違って、多分、この徴税人は、別に良い人ではないでしょう。正直で、正しい人で、誠実ではないかも知れません。霊的に、祈りと奉仕が足りないでしょう。しかし、彼が知っていたのは、神様のみ前で、自分の業によって義とされる事が出来ない事です。神様の裁きの王座で、乞食のように、哀れみをこうことだけです。それで、愛と哀れみと希望と恵み深い神様から憐れみを受けました。義とされて、罪が赦されていました。イエス様は言われました、「14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。《
ほとんどのキリスト信者達は、この二人の人のミックスだと思います。同時にファリサイ派の人と徴税人であり、高慢でまた謙遜であり、聖人であり罪人です。“Simul Justus et Pecattor.”自分が完全に良い人ではないし、同時に完全に悪い人間ではないと思います。しかし、そのラテン語の用語の意味が違います。即ち、私達が完全な悪い罪人ですが、神様の恵みによって、私達が完全に赦されている義人です。
私達の心の中には、ファリサイ派の人のような者も、その徴税人のような者もいるでしょう。それで祝福の為に神様に感謝して、罪の赦しの為に祈る事も出来ます。しかし、私達の謙遜(けんそん)でさえも一つのワナになります。それは、このように祈る時です。『神様、私はほかの人たちのように、特に、あのファリサイ派の人のようではない事を感謝します。あの人はうぬぼれの強いもので、自分の事だけを考える偽善者だからです。私がそのようではないので良かったです!』。けんそんとは、別の人と自分を比べないで、自分が罪人であると分かります。けんそんは、自分が神様の憐れみと恵みを受ける為に、自分が何もする事が出来ないと分かります。『神様、罪人の私を憐れんでください。』と祈る時だけ、慰めと平和があります。心の中、思いの中、魂の中の完全な平和です。その平和を得る時に、義とされて家に帰ります。
イエス様はそのファリサイ派の人のように、実に、誇る事が出来ました。彼はほかの人のようではありませんでした。イエス様は奪い取る者、上正な者、姦通を犯す者、又その徴税人のような罪人ではありませんでした。イエス様は同時に神様であり人間であるので、イエス様は一つの罪も犯しませんでした。しかし十字架上で、御自分の上に私達の罪や、世の罪を取りましたので、罪人になりました。奪い取る者、上正な者、姦通を犯す者などのすべての罪人になりました。神様の子羊は、世の罪人になりましたので、世の罪を取り去る事が出来ました。イエス様はご自分の為に『神様、罪人の私を憐れんでください』と言う言葉を言われませんでした。
イエス様は私達の為に祈りました。私達の為にその犠牲の業を行いました。このように祈る事が出来たかも知れません:『父なる神様、罪人の私を憐れまないで下さい。その代わりに、私を信じる世の罪人、私の十字架上の犠牲によって赦されている罪人を憐れんでください。』と。そして、復活の中に、その憐れみを見ます。イエス様は死んで、葬られて、地獄に下って、三日目に甦って、天に昇りました。彼こそが義とされて家に帰る者でした。彼によって私達も義とされます。
最後の晩餐の時、イエス様は弟子達とすべての信者達の為に祈りました。彼らの救いの為を始め、安全の為にも、愛と働きが一つとなるように祈りました。聖霊を送るように約束しました。聖霊の働きとは、イエス様の祈りを成就する事です。それで、聖霊は私達に信仰、救い、愛とキリストの働きの為の導きも下さいます。
どのように私達が祈りましょうか?主の祈りを祈る事が出来ます。詩篇を祈ります。ある賛美歌は実は祈りです。苦しみの中でうめきの声をあげて、聖霊はそれを祈りに変えます。とっても綺麗な美しい祈りは良いですし、めちゃめちゃの祈りもOKです。子供のように祈ります。沈黙の祈りもあります。しかし、イエス・キリストの信仰による祈りでしたら、神様にふさわしいものです。それで、けんそんと子供のような信頼を持って祈ります、『神様、罪人の私を憐れんでください。』神様は、本当に憐れみ深いお方です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会