イエス様の愛と憐れみ
たったのパン五つと魚二匹しかで5千人を食べさせる

2017年8月6日

マタイ14:13*21

14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。《

14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。《

14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。《

14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい《と言い、 14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

たったパン五つと魚二匹でイエス様は女と子供を別にして、男が五千人ほどに食べさせました。奇跡でしたが、ただの大きいピクニックよりも大事な事がありました。イエス様は私達に何かを教えます。それは成長についてです。

先月、種まきの例え話を読みました。良い土に落ちた麦は、「実を結んで、あるものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊にもなった《のです。麦の一粒は多くの麦になります。そして、からし種の例え話もありました。とっても小さい種ですが、「成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる《のです。また、パン種の例え話もありました。女がほんの少しのパン種を取って麦の粉に混ぜると、やがて全体が膨れると、それでパンを沢山作りました。イエス様は天の国について教えました。最初は、小さくて、多くの苦難がありますが、大きくなります。この例え話の普通の解釈とは、福音伝道の事です。福音の言葉がちょっとだけでしても、私達の心の中に根を下ろして成長する事が出来ます。それで、私達の伝道の活動に希望と確信が与えられています。その上に分かるのは、聖霊は私達と共に働いているからです。成長と信仰を与えるのは、聖霊です。

今日の奇跡の話し、5千人を食べさせる奇跡は、ものが大きくなる事です。又は、例え話の教えの証拠でしょう。神の国の中の愛と憐れみの成長です。イエスキリストの愛と憐れみです。このように読みます、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた《と。その愛は、まず、病気の人と彼らを連れて来た家族に対する見せた愛です。そして、パンを裂く事によって、その日に来られたすべての人々に見せられたのです。弟子達には哀れみがありました。それで、イエス様に言いました、「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう《と。しかし、イエス様には、それより素晴らしいプランがありました。そのプランは弟子達にも群集にも神の国の愛と憐れみを教えます。イエス様は天を仰いで、賛美の祈りをしました。群集の前で祈りますと、これからの業が神様の業であると分かります。パンを取って、裂き続けますと、すべての人が食べて満腹するまで、パンを増やしました。愛を計る事が難しいですが、その日の測りは、5千人以上でした。

ところで、イエス様は奇跡をなさる時、上手にします。弟子達が残ったパンの屑を12の籠いっぱいほど集めました。もともとのパンの量よりも、残り物の方が多いでした!神様の愛と憐れみと力が永遠です。この愛こそは毎日全世界を食べさせます。「我らの日ごとのかてを今日も与えたまえ《とは、食べ物の願いだけではありません。信仰の証です。全世界の人々が生きる為に、必要な食べ物とすべての恵みが神様から来ると言う信仰の証です。それで、食前の祈りは、恵み深い愛と憐れみの為に、神様に感謝します。

イエス様は私達に何かを教えたいと思います。憐れみについて教えたいと思います。普通私達は、自分の痛みだけをかんがえます。他の人もそうです。自分の心配と問題がありますので、自分の事だけ大事に思います。神様が自分の事を知るかどうか思います。それなのに、私達は福音書のストーリの人々と同じです。イエス様の行く所に歩いて行きました。今朝、私達がここに来たのは、イエス様がここにいるからです。勿論、主イエスはすべての所にいますが、この教会で、イエス様の愛と憐れみの言葉をはっきり聞く事が出来るからです。それを聞いて、私達に他の人の為の愛と憐れみが与えられています。もしかしたら、これが主の祈りに教えられているでしょう。 「我らの日ごとのかてを今日も与えたまえ《と言う言葉の後に、他の人の為に祈ります、「われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ《と。罪と敵意の壁が砕けておろしましたら、本当の愛と憐れみが流れる事が出来ます。神様から私達にも、神様から私達を通して、他の人にも流れます。

数少ないパンを取って、イエス様は大勢の人々を食べさせました。洗礼式の時、聖霊は数滴の水を取って、完全な赦しと救いを私達に与えます。聖餐式の時、小さなパンと一口のワインが私達に与えるのは、十字架に掛けたイエス様の体の限りがない祝福と十字架上に流された血による赦しと新しい命です。何故ならば、その一人の人であるイエス・キリストにおいて、彼の死と復活によって、全世界のすべての人々の為の神様の愛が表されていたからです。イエス様は一人分の血を流しましたが、世の罪を赦す為に、十分でした。それこそは、神様の愛と憐れみの計りです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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