2020年12月6日、アドベント第2主日
洗礼者のヨハネはメシアのアドベント(来臨)を延べ伝えました。イエス・キリストが来られるので、人々を準備しました。ヨハネは荒れ野に住んでいたので、そこで説教しました。荒れ野に住んでいたので、荒れ野にある物によって生活しました。いなごと野蜜を食べました。洋朊も荒れ野に見つけられる物で出来たのです、らくだの毛で編んだ物や腰に革の帯を締めました。荒れ野にいましたので、そこで宣教のミッションをしました。彼の言葉を聞くために、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来ました。罪を告白して悔い改める人に、その罪を赦すバプテスマを述べ伝えました。又彼が知っていたのは、自分の後に、偉大なる救い主が来ることです。その方は聖霊で洗礼をお授けになるのです。
もし今日、バプテスマのヨハネが沖縄に来ましたら、どのように説教するでしょうか。沖縄は荒れ野ではなくて、島ですので、先ず、イザヤ書の聖書の箇所を変えます。イザヤ40:3は言います、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』《沖縄の場合には、この聖句はどうでしょうか、イザヤ42:10、「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。《
バプテスマのヨハネは私達の所に来ましたら、私達に何を言うでしょうか。イエス様が来られるので、その道を備える為に、自分の心と人生をまっすぐにしなさいと。ですから私達にも「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える《でしょう。もうすでに洗礼を受けたら、再び洗礼を受けるように言いませんが、信仰によってその洗礼を生かすように言うでしょう。心が乾かないように、洗礼の水でぬれている信仰を生かす事です。悔い改めによってそれをします。
悔い改めとは真の信仰です。真の悔い改めの為に真の信仰が必要です。信仰は、私達の罪を赦す為にイエス様が死んでくださった事を知っています。ですから、悔い改めは、霊的な苦しみばかりの時ではありません。自分の罪が赦されていると知る喜びです。悔い改めは礼拝の業で、私達の救い主になる為に神様がイエス様を送って下さった事の感謝とほまれです。イエス様の死と復活が私達に永遠の命を与える事を知ります。それで、私達の礼拝と人生の生き方になります。マルチン・ルターはその有吊な95か条を書きました。第一条は言います、「われわれの主であり師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。《と。
今日の福音書の日課はマルコの福音書からです。ここではバプテスマのヨハネは、優しい人みたいです。しかし、マタイとルカによる福音書では、彼を聞く為に来た人々に厳しい事を言いました。その人々は真の神様を信じるユダヤ人でしたが、ヨハネは彼らの心を開けてその罪を見せます。
「マタイ3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。《
私達に向かって何を言うでしょうか。私達の心を開けて私達の罪を見せます。又、「マルチン・ルターが自分の父と言うか?悔い改めと改心と義を持って宗教改革を続けなさい。信仰とは、ただの正しい教えを知る事ではなくて、聖霊の実を結ぶ事である《と私達に言うでしょう。
洗礼者ヨハネは、私達のアドベントの道を助けます。ルカによる福音書には、アドバイスを言います。私達にも似てるアドバイスを言うでしょう。
ルカ3:10 そこで群衆は、「では、私達はどうすればよいのですか《と尋ねた。11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ《と答えた。12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、私達はどうすればよいのですか《と言った。13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな《と言った。14 兵士も、「この私達はどうすればよいのですか《と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ《と言った。
ヨハネは『バプテスマのヨハネ』と呼ばれていますので、私達が自分のバプテスマの力によって生きるように言うでしょう。即ち、自分が洗礼を受けた神様の子どもであると知る事、キリストのアドベントを喜びを持って待ち望む事、そして、キリストの後に従う事です。これは「アドベントのアドベンチャーです《です。何故ならば、クリスマスで来るキリストを待つ事だけではなくて、もうすでに私達に来られたキリストをお祝いするからです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会