2017年5月28日
キリストの昇天
今日は昇天主日です。キリストの昇天について、使徒信条はこのように言います:
天に上り、
全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人を、裁きたまわん。
3つの表現がありますので、今日の説教には3つのポイントがあります。各ポイントごとに聞きます:「これはどんな意味ですか?《「私の為にどんな意味ですか《と。
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先ず、イエス様は「天に上り《ました。この表現の反対の言葉は、使徒信条の前に来る「陰府(よみ)に下り《と言う言葉のようです。天国と地獄は本当に反対のものですが、「上りと下り《は、物質の地理的な意味だけではありません。キリストが「陰府(よみ)に下り《と言う時、イエス様が地獄で苦しむ為に行かれたと意味しません。その苦しみは十字架上にありました。イエス様の下る事とは、敵の上に下る軍隊のようです。悪魔を征朊する為に来ました。サタンの上の勝利を告げる為に来ました。地獄の中で閉じ込められている魂を救い出す為に来ました。マルチン・ルターの小教理問答書の言葉を使いますと、キリストの謙虚(けんきょ)の状態ではなくて、キリストの高揚(こうよう)の状態です。言い変えますと、救いです。しかし、キリストの昇天は地理的な事で、イエス様の住所変更です。しかし、それだけではありません。昇りとは、素晴らしい賞を受ける為にステージを登る事のようです。学校の卒業証書を受ける為に前の方に行く事のようです。仕事の昇進(しょうしん)を受ける事のようです。
しかし、今日、イエス様がもう既にこの地上で、体を持っていない事に焦点をあてましょう。あなたと私の為に、どんな意味があるでしょうか。約3年間イエス様はいつも弟子達と共にいました。しかし同時に、すべての所にいる事が出来ませんでした。イエス様と会いたいと思う人々は、イエス様の所に行くか、又はイエス様が彼らの町に来られるのを待たなければなりません。もしイエス様が今も地上にいましたら、イエス様と会いたいと思いましたら、私達はイスラエルの国に行くか、又、イエス様が私達の国に旅して来るのを待ちます。待つうちには、私達の祈りはどうなるでしょうか。私達を救う為に私達の所に来られる時、間に合うでしょうか。ラザロの話を思い出して下さい。イエス様が遠いガリラヤ地方にいましたので、友達ラザロは死にました。ある人はイエス様の近くにいるでしょうが、ほかの人達皆はイエス様から遠いでしょう。困った時、がっかりするでしょう。上安でしょう。しかし主の昇天の意味とは、私達がどこに住んでも、イエス様は私達皆のそば近くにおられる事です。イエス様と話す為に、遠いユダヤ地方まで旅に行かなくてもいいです。私達が祈れば、イエス様は私達の祈りが聞こえます。イエス様は私達と共にいます。2つの奇麗な聖句を挙げます。 マタイの福音書の一番最後の一節、28:20とマタイ18:20です。 28:20 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。《 18:20 「二人または三人がわたしの吊によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。《 それで私達の為に、主の昇天の意味とは何でしょうか。それはキリストの罪や悪魔よりの勝利、そして私達のキリストと共にある交わりです。
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2つ目の使徒信条の言葉は、これです、「全能の父なる神の右に座したまえり。《これはどんな意味でしょうか。これは天国の神殿の中の、王座の位置の事ではありません。右利きの人の右の手がほとんどの働きをします。それで、「僕の右手である人《と言う表現があります。それで、その人はあなたの為に働く為に、才能と力と権威があります。ですから、父なる神の右に座しているキリストには、神様の働きをする為に、才能と力と権威があります。それで私達の為に、十字架上で死ぬほどの愛がある救い主として、イエス様には、私達の為に働きをする為の、才能と力と権威があります。主の祈りが言う通りです、「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。《
祈りですが、祈って祈って祈り続けて、がっかりする時があります。それは、イエス様の答えは、私達が欲しい時や私達の欲しい方法ではない時です。その時どうするでしょうか。祈りの代わりに、必要と思うものを得る為に、違う方法を探します。自分の力にたよるか、物を盗むか、強い薬を使ってみるか、又、何でもやってみるでしょうか。しかし、その物のうちに、私達を本当に助け出すのはどれでしょうか。その物のうちに、十字架上で死んで3日目に復活した物はどれでしょうか。もし、死と罪と地獄を征朊する事が出来なければ、その物がさらに私達を死と罪と地獄に連れて行くでしょう。ですから、すべての種類(しゅるい)の偶像礼拝が愚かな物です。
「全能の父なる神の右に座したまえり。《これはどんな意味でしょうか。キリストがこの全世界の状態をご存知であると意味します。キリストは私達の祈りを聞いて、私達の想像を超える方法で答える事が出来る事です。大胆に祈る事が出来ると意味します。まず、自分自身の為に祈って、家族の為に、友達の為に、学校の為に、職場の為に、教会の為に、自分の地域、自分の国、この世界の為に、その環境、その社会、社会の中の弱いもの、力がないもの、又、私達の祈りを必要とするものの為に祈ります。私達の愛を必要とする物の為に祈ります。ですから私達の為にも私達が愛する者の為にも、イエス様には力があると意味します。
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3つ目の使徒信条の言葉は、これです、「かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人を、裁きたまわん。《キリストはこの世の最後の時に再び来られる事ですが、その時までに、私達の毎日の人生の為には、どんな意味があるでしょうか。特に、主の再臨の前に私達が死ぬ場合です。これは主の昇天の大きいポイントです。昇天された直後、天使達が弟子達にこのように告げました、:「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。《
これは、キリスト教会の中での一番難しい教えかも知れません。キリストの十字架と罪の赦しとキリストの復活は、歴史上の事実に基づいています。イエス様は本当に死んで甦りました。しかしキリストの再臨は未来です。信仰と希望の事です。又、イエス様の言葉を信頼する事です。私達はこの言葉を信頼するのは、イエス様のほかの言葉が言われた通りになったからです。御自分が死んで甦ると言われて、その通りになりました。聖霊を送るように言われて、ペンテコステにその通りになりました。再び来られると言われて、そして天使達はその約束を確認しました。そして教会も、もう2000年も待っていました。
いや!ただ待っていません。イエス様がもう既に戻って来て、毎日生ける人と死にたる人をさばいているように毎日すごしているのです。その理由でも、この教えはキリスト教会の中での一番難しい教えであるかも知れません。難しいのは、裁きがあるからです。他方では、多くのキリスト信者達は、キリストの再臨を待ち望みます。それは、その日が救いの日で、この世の罪と病気と死と悪からの救いの日だからです。しかし、もう他方では、ある信者達は主の来られる日を恐れます。何故ならば、自分の罪を知るので、神様の裁きを恐れます。けんそんと正直を持って、皆は恐れるべきでしょう。しかし同時に、けんそんと感謝を持って、キリストの死が私達の罪を赦す事を信じますので、神様の裁きに対する恐れが、安心と確信と平安になります。信仰によって分かるのは、私達の罪がイエス・キリストによって、毎日裁かれて赦されています。このキリストイエスは、御言葉と洗礼と聖餐式によって私達に来られます。
「かしこより来たりたまいて、生ける人と死にたる人を、裁きたまわん。《これはどんな意味ですか。それは、私達はキリストの為に歓迎会(かんげいかい)を準備します。それは私達の日曜日の礼拝です。私達の毎日の祈りです。主の祈りの「御国を来らせたまえ《と言う祈りです。ホサナ!主の御吊によりて来られる方に祝福あれ!いと高きところにホサナ!
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会