『知られざる神』が教えられた

2023年5月14日、復活節第6主日


使徒言行録17:16 ―34
パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。 それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか《と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい《と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。《すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。

パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。

実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、

/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。

わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。《

死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう《と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。


聖パウロは伝道者でした。チャンスがあれば、いつもイエス・キリストの福音を述べ伝えました。福音そのものをチェンジしませんでしたが、聞き手によく分かるために、福音の語りかたを変えました。例えば、ギリシャのアテネに来る時、まずユダヤ人の会堂でユダヤ人やイスラエルの主なる神をあがめる人々と話しました。ヘブライ語の詩篇や預言者を引用したら、彼らはこの神の御言葉を理解する事が出来ました。イエス・キリストの活動と死と復活によって聖書が成就されたと述べ伝える事が出来ました。

しかし、アテネの無信者のギリシャ人が、ヘブライ語の聖書を知らないし、受け入れません。それで、ギリシャの詩人や哲学者の言葉を引用してメッセージを説明しました。しかし、先ず、聖書の全能の神の存在を述べ伝える必要がありました。現代の伝道者である私達も、福音のストーリを話したい時、無神論者や神を知らない人に話します。神の存在を受け入れない人は、他のキリスト教会をも受け入れません。例えば、罪について、赦し、復活、裁き、永遠の命とイエス・キリストです。それで、人は、先ず、使徒信条の第一条を受け入れなければなりません。「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。《

それで、最初、パウロは、街の広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていました。(17:21) “すべてのアテネ人やそこに在留sairyuuする外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである”そうです。パウロの話は新しく面白いでしたが、理解する事が出来ませんでした。“「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか《と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい《と言う者もいました。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからです。” また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者も、パウロの話に好奇心koukisinがあり、もっと聴きたいと思いました。

  • ストア派は、自然のように生きたくて、ロジックを大事にして、自給自足jikyuujisokuのように生きたいと思いました。
  • エピクロス派は、人生の目的とは、楽に生きる事だと思いました。

    その哲学者たちはパウロをアレオパゴスと言う所に連れて行きました。アテネの中には、2つの有吊な所があります。アレオパゴスとアクロポリスです。

  • アレオパゴスはギリシャの戦争の神アレスに吊つけられています。町の会議の場所でした。
  • アクロポリスは町の一番高い所でした。そこに有吊なパルテノンの神殿がありました。

    アレオパゴスでパウロはキリスト教の教えを説明する事が出来ました。彼の最初の言葉が哲学者達の為でした。(22-23節)「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方である事を、私は認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻kizaまれている祭壇saidanさえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。《

    この“新しい”神はどのようなものでしょうか。先ず、宇宙の創造主です。パルテノンのような神殿がいりません。金、銀、石などの偶像ではありません。すべての物が神の物であるので、犠牲、供え物など、何もいりません。(25節)すべてを支配するので、人の手によって仕えてもらう必要もありません。「すべての人と、その他すべてのものに命と息を与えてくださるのは、この神だからです。《国々を支配して祝福する理由とは、(27節)「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。《

    主なる神様は、以前『知られざる神』でしても、私達は彼を見つける事が出来ます。(27b)「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。《ギリシャの詩人は同じ事を言います。(28節):『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

    もし神の子孫が金、銀、石などで出来ていなければ、神もそのようなものではありません。偶像ではありません。

    今知られている神様は、信じる事、信仰、新しい生き方を要求します。パウロは言います、(30*31節)「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証kakushooをお与えになったのです。《

    死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑いました。エピクロス派の人は、罪深い楽しい生き方を変えたくないでしょう。悔い改めたくないでしょう。裁きの日を否定します。ある人はもう少し聴きたいと思いました。ある人は福音を信じました。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。(32-34節)。

    現代のキリスト信者として、私達は、アテネでのパウロから何を習うでしょうか。聖霊は私達に何を語るでしょうか。

    もしかしたら、その哲学者達のように、神様が本当に何のような者か、私達も調べるでしょう。聖書の中の話、その詩篇と預言書は神様の全能の力を教えます:又、その全能の知恵chieと私達の罪でさえもまでの全能の知識、神の全能の愛、全能の赦し、全能の恵みと憐れみです。イエス様の生涯、死と復活を見て、神様の事を習います。

    もしかしたら、パウロのように、私達の周りにある偶像guuzooを見る時、私達も憤慨fungaiするべきでしょう。現代的な偶像は金、銀や石で出来た像zooではありません。偶像とは、あなたの人生を支配するものです。自分の人生の一番大切と思うものは、あなたの神です。現代的なストア派のような人は、神の存在こそを信じないか、逆にすべての神々を拝みます。現代的なエピクロス派のような人は、人生の楽しい生き方しか探しません。その罪深い楽しみがあなたの心と思いを汚したり、真の唯一の神様から離れさせます。

    「パウロはアテネでの町の至るところに偶像があるのを見て憤慨fungaiしました。《会堂でユダヤ人と信者達に、その罪を非難hinanしました。また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合いました。もしかしたら、パウロのように、私達の周りの悪と上正義などを見て憤慨するべき、私達もそれを非難すべきでしょう。教会の中にも、友達にも、フェスブックにも、公にもそれを非難すべきでしょう。

    そして、聖パウロのように、私達は神の御心を知るでしょう。その神の御心とは、イエス・キリストの死と復活によって世が救われる事です。『知られざる神』の神を知らない多くの人々に述べ伝え、掲示させ、説教させ、教えさせる事は神の御心です。

    現代の人々は昔のアテネの人と同じです。裁きと悔い改めと赦しのメッセージを理解して受け入れる事が難しいです。もしかしたら、パウロのように、人に話し方を習う事がひつようでしょう。相手の心と思いの状態を把握haakuすることです。例えば、子供に話す時、神の愛を理解するように話します。絵本とクラフトと歌を利用します。自分の想造と経験を利用します。教会のイベントや個人の会話もあります。もしかしたら、聖霊が導きとアイディアを下さるように祈る必要があるでしょう。

    私達がアテネにも自分の家にいましても、聖パウロのように、私達のメッセージが、変わる事がない救い主イエス・キリストについてあるべきです。

    アーメン。

    マイケル・ニアフッド、牧師
    沖縄ルーテル教会


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