2019年1月13日主の洗礼 C
ルカ 3:2*3、15*22 3:2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 3:3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。《 3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 3:19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 3:20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。 3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者《という声が、天から聞こえた。 |
ローマ 6:1*11 6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 6:7 死んだ者は、罪から解放されています。 6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 |
イエス様の洗礼は私達の洗礼と違います。又、バプテスマのヨハネの洗礼も違います。ヨハネのバプテスマは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼《(ルカ3:3)でした。しかし、イエス様には罪がありませんでした。自分が罪を犯した事がありませんでしたので、罪を赦す洗礼を受ける必要がありませんでした。マタイによる福音書(3:13-15)には、この対話がありました。『13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。《15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しい事をすべて行うのは、我々にふさわしいことです。《そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。』
「正しい事をすべて行うのは、我々にふさわしいことです。《イエス様はいつも正しい事をしました、赤ちゃんの時からそうです。先ず、この世の中に生まれて、私達と同じ人間になりました。生まれて八日目に律法に従って、吊前を受けて、割礼を受けて、ベツレヘムの町で、ダビデ王の家系に登録されました。40日目に、エルサレムの神殿でご自分の父なる神様にささげられました。12歳の時、律法に従って、過ぎ越しの祭りの為にエルサレムに行きました。言い換えますと、イエス様は普通の人のように律法によって過ごしました。バプテスマのヨハネは多くの人に洗礼をほどこしました。宗教的にはやっていた事でしたが、多くの人にしたからイエス様がした訳ではありません。イエス様が洗礼を受けたのは、その人の洗礼とつなぐ為です。彼らが洗礼を受けるのは、彼らの罪を赦す為でしたが、けっきょく、罪が赦されたのは、十字架上のイエス・キリストの死によってでした。
私達が洗礼を受ける時、私達はイエス様の洗礼とつながれています。言い換えますと、イエス・キリストによって私達の罪が赦されています。けっきょく、私達の罪が赦されるは、十字架上のイエス・キリストの死によってです。洗礼によって私達はイエス様の死につながれています。
聖パウロはローマ人への手紙6章にその事をこのように書きました。「6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。6:4 私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。《
イエス様が私達の罪をご自分の上に取ったので、私達もキリストと共に十字架上にいたようで、私達もイエス様と共に死んだようです。洗礼によって、私達はイエス様と共におぼれて死にました。これが必ず必要です、もし私達は彼と共に復活するならば。このようにして、私達には新しい生き方があります。聖パウロが書いたように、「6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。《ですから洗礼は大切で、必要です。
先週、私のデボーションの本には、マルティン・ルターが書いた箇所がありました。大教理問答書の洗礼についての言葉でした。その要約はこのようなものでした。洗礼によって私達はおぼれて死にます。しかし、教会である船によって救われています。ここで、キリストと共に、良いクリスチャンとして人生を送ります。しかし、私達は船から海に落ちます。それは、罪や疑いや誘惑や恐れのためです。又、人生の嵐の中で、転んで、海の中にすべり落ちます。その時、何をするでしょうか。もしキリストや教会の事をあきらめましたら、向こうの岸まで泳ぎ始めます。しかし、遠過ぎます、疲れてしまって、キリストなしにおぼれます。「そのようにしてはいけません《とマルティン・ルターが言います。「船から海に落ちましたら、船の方に泳ぎ戻りなさい。船の中にもう一度引き上げてもらえます。そして、必ずすくわれます!《何故ならば、その海とはバプテスマの海であるからです。私達の罪を赦すからです。ですから、船の中にもう一度私達を受け入れる、私達を愛する神様を信じるからです。ライフラインを私達に投げる教会の人がいます。即ち、私達の為に、祈ったり、支えたり、愛したりします。
ルターの為に、洗礼は、人生の一回でして終わる出来事ではありません。人生の一生涯の経験です。このように書きました(L.C.洗礼83)。「こうして、洗礼がどんなにすばらしいものであるかが理解される。すなわち洗礼は、私達を悪魔ののどから奪ubaいかえし、私達を神のものとなし、罪をおさえ除き去り、日ごとに新しい人を強め、そして、私達がこの世のみじめな状態から、とこしえの栄光に入る日まで、常に働いて止まないものである。《
言い換えますと、洗礼の水がもうすでに乾かしてしまっても、私達の心が私達の信仰と神様の約束でまだまだ新鮮にうるおっています。そして、何があっても、神様の約束はいつも私達の信仰より強いです。何故ならば、洗礼によって、神様は私達と共にいますし、私達は神様と共にいます。私達が父と子と聖霊のみ吊によって洗礼を受けたからです!
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会