「これらの骨は生き返ることができるか《

2021年5月23日
ペンテコステ、聖霊降臨日

エゼキエル書37:1―14

預言者エゼキエルは、枯{か}れた骨でいっぱい谷の幻を見ました。旧約聖書の幻は、新約聖書のイエス様の例え話しのようです。エゼキエルの幻は、未来への文字通りの出来事、また文字どおりの予言ではなくて、むしろ絵画的に神様について語る方法です。主なる神様はエゼキエルに聞きました、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。《勿論、出来ません、再び生き返る希望がありません。戦争で負けた兵隊の遺骨で、殺されていて、荒れ野にそのまま残されて、完全に乾{かわ}ききっています。この骨は生きる事が出来ませんが、預言者に分かることは、主なる神様には何でも可能なことです。それでこのように答えました、「主なる神よ、あなたのみがご存じです。《 神様は言われた、「これらの骨に向かって預言しなさい。《預言者がそうしますと、 「見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」。しかし、まだ生きていませんでした。その中に霊がなかったからです。主はエゼキエルに言われました。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。《と。エゼキエルは命じられたように預言しました、すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ったーー彼らは非常に大きな集団となったのです。そして、神様はこの例え話しのような幻を説明して下さいました。その骨はイスラエルの民のようです。イスラエルの民はもう死んで、希望がないように枯れてしまったと感じます。イスラエルの民は、エルサレムから捕らえられてバビロンに連れてこられてバビロンに住んでいました。愛するカナンの故郷は永遠に失われてしまい、国民としても民族としても、もうすぐ死んでしまうだろう。神様の約束の地に帰る希望が無い。エルサレムがかんりゃくし負けた。神殿が破壊されて、民族として全滅される為に捕囚となりました。もう、神様の選民ーー選ばれた民として残る希望がありません。その枯れた骨のようでした。しかし、主なる神様には、異なった考えがありました。神様は以前から契約をイスラエルと結びました。ご自分の選ばれた民を約束の地に戻らせます。それをする時、それはまるで、死からの復活のようです。人々は新しい命、新しい息、新しい霊、希望で満たされます。

その枯れた骨の幻を見る時、私達は、その荒れ野の中に自分の枯れた骨を見るかも知れません。自分の人生に希望がない時、自分が骨まで完全に枯れてしまったみたいです。年を取った人々は、実際に自分の骨は枯れて壊れやすく、折れやすいと思うかも知れません。もし希望なしに死ぬと思いましたら、彼らはもう既に、その荒れ野の骨のようです。若い人も、骨までの渇きを感じる事が出来ます。将来への希望が無い時、就職への希望が無い時、恋人を得られないとき、幸せへの希望が無い時、彼らはもう既に死んでいると感じるかも知れません。体に肉と皮膚があっても、希望が無いと、本当に生きていないような感じです。

自分が枯れてしまった感じの理由の一つとは、涙がもうないからです。人生の悲しみと寂しさと痛みと惜しみと失敗と間違えが、私達の体力を奪う事が出来ます。恐れは私達を乾かします。体に対する危険や心に対する危険もあります。過去の間違いと犯罪と罪の結果を恐れます。それで、人をも神様をも地獄をも恐れます。

エゼキエルが見た谷の中の骨ほど、自分が枯れていると思う時、もう生きる価値かや意味があるかどうか考えるかも知れません。自殺を考えるかも知れません。そして、こんなんに乾きと失望がある時、主なる神様がエゼキエルに話された言葉を聖霊は私達に話して下さいます。そして、私達クリスチャンは、ドライ・スポンジのように、その福音の言葉を吸い込みます。

主はエゼキエルに言われました、「預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。《この霊は福音の言葉です。私達に命の息、命の霊があるのは、イエス・キリストによってその命が私達に与えられているからです。イエス様が十字架に付けられた時、頭の上に、「これはユダヤ人の王である《と書かれていました。これは、弟子達の希望でした。即ち、イエス様が彼らを救ってくれる王なるメシアである希望でした。しかし、イエス様が殺されて、彼らの希望も殺されました。殺されて、古い骨のようにお墓の中に入れられました。「これらのイエス様の骨は生き返ることができるか。《これは悪魔の侮辱の声です。そして、最初の人を創造する時、神様はアダムに命の息を吹き込まれたと同じように、イエス様を甦らされました。イエス様は再び生きる者となりました。この同じ息が私達にも命と希望を下さいます。

私達が自分の周りを見ると、枯れた骨の谷しか見えないかも知れません。この世、自分の家族、私達の教会を見て、「希望があるでしょうか、この骨は生き返る事が出来るでしょうか」と聞くかも知れません。人間的に言うと、「イイエ、決して出来ない」と答えます。しかし、主なる神様が「この骨は生き返る事が出来るでしょうか《と聞きましたら、神様は私たちに信仰の答えを要求しています。即ち、「主よ、あなたには出来ない事がありません、あなたには、希望があります」と。

今日はペンテコステです。生まれたばかりの教会は、イースターの50日目の日曜日の朝、集まりました。確かに、このように祈ったでしょう、「私達は生きれるでしょうか。生き残って、愛と赦しと永遠の救いの福音を宣べ伝え事が出来るでしょうか。希望があるでしょうか。《 その時、聖霊は彼らの枯れている骨の中に、息を吹き込みまして、彼らの信仰と希望を新しくしました。ペテロとほかの弟子達は、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました、「主の吊を呼び求める者は皆、救われる。《その日3千人の人々が洗礼を受けました、彼らの霊的な骨は、もう枯れていません。聖霊は彼らに希望を下さいました。

今日、自分の骨をリーフレシューしましょう。自分の信仰をそう快しましょう。聖霊の炎(ほのお)にまきをふえましょう。信条の言葉によって自分の信仰を告白しましょう。自分の心の中で、聖霊が素晴らしい信仰を創造した事を悟りましょう。自分の洗礼を覚えましょう。洗礼の時、三位一体神様はあなたに約束して、あなたを御自分の子供にしました。聖書を読む時、聖霊は再び霊感によって私達に語ります。それで、私達の信仰と愛と奉仕と希望と平和がふえます。

私はペンテコステの祭りが大好きです。赤の色は元気で生き生きしている色のようです。吹いてくる、気持ちを清々seiseiさせる風が好きです。私の以前の教会では、聖霊の炎を覚えるために、いつもペンテコステのバーベーキューをしました。ペトロの説教を聞いて、その日に3000人が洗礼を受けたので、宣教のミッションに希望と熱心を与えます。又、営利化していないので、ペンテコステのウサギやペンテコステのサンタがありません。完全にキリスト教会の聖日で、聖霊に祝福された日です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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