2023年3月26日
受難節、及び、四旬節第5主日
エゼキエルは幻を見ました。「わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。《聞かれた、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。《今日の福音書で、ラザロは、お墓の中にほうむられました。彼の骨は生き返る事が出来ますか。私自身の骨や関節が痛い時、ひざの関節のコラーゲンが乾く時、私も聞きます、私の乾いている骨が生き返る事が出来ますか。人生の問題でつかれている時、テレビで、戦争や災害や病気や上正義の恐ろしい幻のようなヴィションを見る時、この世界の骨が生き返る事が出来るでしょうか。又、日本のキリスト教会の状態を考えますと、又、この教会の状態を考えますと、教会の乾いている骨や、自分が乾いている信者たちが生き返る事が出来るでしょうか。
気持ちが落ち込んでいるとき,悲観的な言葉のようです。それは旧約聖書の預言者エゼキエルの気分でしょう。イスラエルの民は、バビロニアで捕囚(ほしゅう)されていました。エゼキエルはその人々の事を悩みました。その時、主なる神様はエゼキエルに一つの幻を見せて下さいました。ある谷の真ん中には骨でいっぱいでした。その骨は甚だしく(はなは)枯れていました。この幻は、例え話のように、神の愛を教えます。幻で、その骨は戦争で殺されたイスラエルの兵士です。わすれてしまって、葬(ほうむ)られなかったのです。何年間、暑い太陽の下で、骨だけが残ったのです。それで、甚(はなは)だしく枯れていて、その中には、命が全然ないはずです。バビロニアで捕囚されたイスラエル人は、自分も同じだと感じました。神様に見捨てられて、忘れ去られてしまって、故郷の約束の地に帰る希望がもうありませんでした。知らない外国で死ぬだろうと思いました。
しかし、捕囚(ほしゅう)されたユダヤ人が主なる神の契約の約束を忘れても、主なる神様は、ご自分の民とその約束を忘れませんでした。彼らを帰らせます。70年の後になりました。それを待つ間、神様の愛、哀れみ、赦しと救いを思い起こす必要がありました。
幻の骨が復活された後その意味がエゼキエルに与えられました。読みます。
11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家(ぜんか)である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。 12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。 13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる《と主は言われる。
主なる神様はその約束を守りました。ユダヤ人達は約束の地に帰り、エルサレムの町を再建しました。
私達キリスト信者はこの話が大好きです。まず、想像させる話です。「7わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。 8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋(すじ)と肉が生じ、皮膚(ひふ)がその上をすっかり覆(おお)った《のです。最後に、「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った《のです。そして、この話は、私達の枯れている骨に希望を与えます。私達も再び生きる事が出来るでしょうか。はい、出来ます。それは復活祭のメッセージです。イエス様が甦ったので、私達もします。ラズロを復活させたイエス様には、私達をも復活させる力があります。
それがいつ行うでしょうか。行われる為に、先ず、私達が死んで、最後の日に復活して、天国に行く事でしょうか。今、この地上に生きている内に、その新しい命を持つ事が出来ますか。聖霊の風と息が枯れた骨を満たしたと同じように、私達の人生を満たすでしょうか。はい、出来ます。今日の使徒書で、聖パウロはこのように書きました、ローマ8:11、「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。《 “あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。” 聖霊は今も私達の中に住んでいます。聖パウロによりますと、私達は聖霊によって生きるのです。この世の罪深い人間的な思いによってもう生きていないと聖パウロは言います。このチェンジが起こる為に、父なる神様は、み子イエス・キリストをこの体の肉と血の世に送って下さいました。それで、私達の肉と血と骨の体に命を与え、新しい息をも与える事が出来ます。
バビロニアの捕囚(ほしゅう)にいるイスラエル人が心配しました。兄弟ラズロが死んだ時、マリアとマルタが心配しました。私達も人生の多くの事で心配します。ローマの教会は、神様との関係、即ち、救いについて心配しました。牧師であり説教者であった聖パウロがローマの教会に書かれたアドバイスは私達の為にも良いです。この地上にいる私達に、父なる神様はみ子をこの世に遣わして下さいました。十字架上で、私達のすべての心配を御自分の上に取りました。私達の罪を赦す為に死んで蘇りました。聖霊が私達と共にいますので、神の約束を信頼する事が出来ます。私達の疲れた骨や心に新しい命を下さいます。幻の骨が再びつなぎあわせたと同じように、聖霊は私達のメチャメチャな人生を合わせて直します。そのカタカタという音は、私達の感謝の歌です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会