全聖徒主日2016年11月6日
今日の午後は、沖縄ルーテル教会の墓地献堂式です。23年前からの計画が出来上がりましたので、嬉しくて神様に感謝します。式の中で、説教の時間を取りましたが、外でしますので、よく聞く事が出来ないので、今の午前中の礼拝でその説教をしようと思います。そして、丁度全聖徒主日にふさわしいテーマです。
墓地に書かれている聖書の言葉はイエス様の言葉です。イエス様はいわれました、「わたしは道であり、真理であり、命である。」
イエス様は最後の晩餐の時に弟子達に話しました。その時から起こる事の為に弟子達の心を準備しようと思いました。イエス様が逮捕され、裁かれ、十字架につけられます。そして、復活して、天に昇って、聖霊を送ります。最後の晩餐の時、弟子達にはよく分かりませんでした。今日、私達がよく理解出来るのは、私達はその出来事がどのようになったかを知っているからです。しかし、イエス様の話を理解する為に、一生懸命にした弟子達と同じように、私達も、私達自身の為に、イエス様の話を理解する為に一生懸命に努力します。それで私達は、その最後の晩餐の言葉を読んで、私達の信仰は強くなります。
イエス様は弟子達に話しました、「14:2 私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。」 弟子のトマスはイエス様がどこに行くか分かりませんでした、
どのようにイエス様の話を理解しましょうか。それは、イエス様は御自分の死と復活、と同時に、御自分の昇天と再臨について話していると思います。何故ならば、死んで甦られなければ、救いも天の住まいもありません。ですから、弟子達の為に場所を用意する第一歩とは、十字架上で死ぬ事です。それは、天国への道の第一歩です。世の罪を赦す事が出来るのは、イエス様だけです。ですから、イエス様だけが命への誠の道です。彼は道です。ですから、福音の言葉、その約束は確かなもので、真理です。ですから、イエス様の死と復活には、救いがあります。
イエス様は言われました、14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」私達は神様を信じる時、私達は命への真理の道を歩いています。不信仰の心は神様の道を歩こうと思いません。それは、イエス様が永遠の命の道であると信じないからです。ある人はイエス様や福音を全然知りません。それで、私達は彼らをキリストに導く必要があります。そのような道路標識は伝道や証しと呼ばれています。
一度、この道に入ったクリスチャンの一つの問題とは、その道を続けて歩く事です。道から離れたり、迷ったりします。又、ちょっと罪の誘惑にまけて、遠まわりをして、あと戻りします。私はこの道に戻る事は、信仰の力だと思います。私達はいつも狭くて真っすぐな道を歩みません。しかし、私達はイエス様を信じるので、いつも正しい生き方に戻りたいと思います。ルーテル教会の中の神学的な表現と言いますと、“simul justus et pecator, 同時に罪人であり聖徒です。” 私達はトマスとフィリポのようです。私達はイエス様の話を理解する事が出来ません。神様の律法が分かりません。神様のやり方が分かりません。神様の御計画の細かい所を知りません。しかし、自分の人生の計画を神様がいないように立てましたら、それは天国への道になりません。
しかし、、イエス様は弟子達に言われました、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」その信仰は私達のコンパスと地図になります。私達の人生はイエス様に従って、誠の命への道を歩みます。
それで、クリスチャンの墓地は、ただ死のしるしだけではなくて、信仰と希望と永遠の命の慰めの徴です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会