あきらめましょうか

2019年10月20日


ルカ18:1*8
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』《 18:6 それから、主は言われた。「この上正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。《

あきらめましょうか。いつあきらめたら良いかと分かるのが大切です。同時に、いつあきらめないで、いつ絶望しないでたえ偲ぶか分かるのが大切です。私達の神様との関係の事でしたら、イエス様が言われるのは、私達が神様の事を決してあきらめていけない事です。何故なれば、神様は私達の事を決して諦めないからです。聖書の中では、神様が人間の事をあきらめようと、思われた事に近い時がありました。例えば、アダムとエバが罪に堕落した時です。神様は二人をエデンの園から追い出しましたが、まだ創造された人間を愛したので、守る為にと恥を取る為に、働物の皮の朊を下さいました。又、世が、完全に、希望がないほど罪深くなった時、大洪水を送りましたが、愛された人間を救う為に、箱舟を用意しました。荒れ野でイスラエル人が金の牛を礼拝した時、神様はそのおろかな人々をあきらめる事が出来ましたが、御自分の人々を愛したので、次の40年間で荒れ野の中で彼らを導いて、ご自分を信頼するように訓練しました。そのずっと後に、イスラエルが神様を見捨ててしまった時、その愛された人々をバビロニアの捕囚に導いて、そこで、神様の愛と約束の尊さをおぼえさせて、神様は再びイスラエル人を約束の地に帰らせました。そして、最後に、この世をあきらめないで、この世を愛しましたので、ご自分の1人子を送りました。そして、イエス様は、御自分の上にこの世の罪を取って、この世を救う為に十字架上で死んで下さいました。神様は決してあきらめません。それで、私達をいつまでも愛し続ける事がわかります。

しかし、私達はこの罪深い世に生きているので、人生のチャレンジが大き過ぎると感じる時があります。あきらめてしまうほうが良いでしょうか。イエス様は、神様をあきらめてはいけないと言われました。ルカ18:1、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。《 一人のやもめには裁判官のところに来ては、18:3『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていたのです。もしかしたら、その相手は彼女をだまして彼女の遺産を取ろうと思ったでしょう。それを考えさせたのは、ルカ20:46-47でイエス様はこのように言われたからです。「律法学者に気をつけなさい。[彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。20:47 そして、]やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。[このような者たちは、人一倊厳しい裁きを受けることになる。]《このやもめは、自分が正しいと分かりましたので、裁判官が彼女のケースを裁くまで彼にうったえました。気を落とさずに絶えず祈りました。

この例え話によって、イエス様は私達にも気を落とさずに絶えず祈りなさいと言われます。それは、神様は私達の絶えまない祈りを聞いて、私達の為に正義と裁きをします。私達には多くの敵や相手があります。自分で戦いや解決を探しますが、同時に神様の助けを頼みます。しかし、いつまでたえ偲ぶ事が出来るでしょうか。いつあきらめるでしょうか。イエス様はその誘惑を知るので、今日の例え話の最後に言われます、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。《

私達の敵は誰でしょうか、何でしょうか。人生には、いつも問題があります。それで、その為にいつも神様に祈ります。イエス様はそれをするように勧めます。祈る事は信仰の業です。祈る事は、すべてが神様の御手に有ると分かる事です。ですから、私達は健康を始め、平和、愛、友情などの為に祈ります。

  • その敵が他の人でしたら、その問題を解決する知恵と愛の力の為に祈ります。

  • その敵が悪魔でしたら、誘惑と疑いと試練の時の力の為に祈ります。

  • その敵が天気や天災でしたら、安全と助けと援助のためにいの要ります。

  • しかし、敵が神様こそである時、どう祈りましょうか。本当ですよ!神様が私達の罪や悪い行いの為に私達を攻撃する時、どのように神様の御前に立つ事が出来るでしょうか。自分が有罪なる罪人であると分かる時、どのように聖なる、正しい裁判官である神様の前に自分のケースを話す事が出来るでしょうか。その時、特別な弁護士や仲介者が必要です。聖霊が必要です。 p class=MsoNormal style='line-height:200%'> 最後の晩餐の時、イエス様は聖霊を送るように約束しました。ヨハネ14:26、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの吊によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。《“弁護者”や“助け主”や“仲介者”という翻訳もあります。そして、私に多くの慰めや力を与える箇所は、ローマ8:26*27です。「8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。《

    有る時、神様が自分の敵であるように感じるかも知れません。又、ある時、神様が私達の祈りが聞こえず、無視しているように感じるかも知れません。ある時、祈りに答えて、私達を助けるまで長い時間がかかると感じるかも知れません。詩篇22編で、ダビデ王は、その苦しみを伝えました。しかし、自分を助ける事が出来るのは、神様だけであると知りました。詩篇22:2*6を聞いて下さい。
    「22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
    22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
    22:4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
    22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
    22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。《

    詩篇42:2,12  
    「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
    42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。
    わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い《と。わたしの神よ。《

    詩篇40:2  
    「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。《

    神様の御前で祈る時、裁判官の前に立つように感じてはいけません。裁判ではありません。裁判にかけられていたのは、イエス様でした。御自分の上に私達のすべての罪を取って、十字架上で、その罪の罰をも取りました。それで、イエス・キリストによって、私達が赦されて、無罪、義と認められています。祈る時、「イエス・キリストの御吊によって祈る。アーメン。《と祈る時、イエス様の権利によって祈っています。いや、イエス・キリストご自身が祈っているようです。そして、勿論、洗礼によって、彼の吊前によって洗礼を受けたので、神様の洗礼を受けた子供として知るのは、神様が、御自分の愛されている子供として、私達を愛して助ける事です。

    いつあきらめたら良いかと分かるのが大切です。同時に、いつすべてを神様にゆだねるかと分かる事が大切です。それを表す聖書の言葉は「悔い改め《です。罪の告白は信仰告白です、そして、神様の赦しと愛を受ける事です。神様は私達の事を決して諦めないからです。

    アーメン。

    マイケル・ニアフッド、牧師
    沖縄ルーテル教会


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