2022年11月6日、全生徒の主日
2022年11月6日は、全生徒の主日です。1949年11月6日も全生徒の主日でした。その日に、僕の両親は洗礼を受ける為に3週間生まれたばかり僕を教会に連れて来ました。その洗礼式によって、僕は神様の家族のメンバーになりました。又、聖徒の交わりに登録されました。
今日は全聖徒の主日です。ある聖書に出てくる聖徒には、教会のカレンダーで、特別の日があります。例えば、聖ペテロ(6月29日)や聖ヨハネ(12月27日)です。教会の歴史の中には、多くの殉教者、伝道者、宣教師、教師などがいます、そして、その誕生日や殉教者として死んだ日が記念されています。有吊な教会の聖徒の一人は聖パトリックです。彼はアイランドで福音を述べ伝えました(3月17日)。この人々を覚えるのは、彼らは私達の信仰の生き方の模範になるからです。迫害があっても、福音を述べ伝える勇気を与えます。私達の毎日の生活に力を与えます。しかし、有吊ではないし、又知られていないし、また 忘れられた多くの素晴らしいクリスチャンもいます。全聖徒の日にはその人の為に、神様に感謝する機会です。
又、今日、有吊な聖徒を覚えながら、私達が個人的に大切にする聖徒をも覚えます。その人は私たちの両親、親戚、教師、友達、又自分のクリスチャンの人生に影響を与えた人です。ですから今日の礼拝には、特別昇天者のための記念の祈りがあります。
「聖徒《とは何でしょうか。「聖徒《と言う言葉の意味とは、「聖なる人《です。しかし、人を「聖《にするのは何でしょうか。「聖なる事《には、「清い《や「罪が無い《との意味もあります。しかし、聖徒達が聖になったのは、罪が無い人生を送ったからではなくて、十字架上のイエス様の犠牲によって赦されていた人達です。その人々が完全に罪が無いのは、この罪深く、誘惑の多い世に住んでいたからです。
又は、その人が聖なる人になったのは、彼らが今日の福音書、マタイ5章の人々だったからでしょうか。「幸いである者は、心の貧しい人、悲しむ人、柔和の人、義に飢え乾く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、迫害された人です。《ある時は聖徒たちはその通りです。そして、彼らは私達の為の模範で、私達が彼らと同じようになる事が出来ます、迫害があってもです。しかし、その人々がそのような人だったから聖なる者ではありません。彼らの性格によって聖なるものになった訳ではありません。彼らにそのような生き方があったのは、先ず、自分が聖にされたからです。
今日、「聖《と言う言葉をこのように定義しようと思います: 聖なる事とは、聖なる神様に属している事です。例えば、私には2冊の本があります。一冊は普通の小説です。もう一冊は聖書です。聖なる書物であるのは、神様の御言葉であるからです。神様の本であるので聖です。洗礼の水は聖です。普通の飲み水と違うのは、神様の御言葉と神様の約束に属しているからです。その約束とは、マルコ16:16 です。「信じて洗礼を受ける者は救われる《と。聖餐式が聖であるのは、キリストの体と血であるからです;ですから普通の食パンと違います。この物は聖なる神様と結ばれています。
人を聖にするのは、その人が神様とつながれているからです。そのつなぎとはイエス・キリストです。神様の恵みと愛によって、イエス様がこの地上に送られていました。キリストは人間になって、産まれて、苦しんで、死んで、葬られて、復活しました。キリストは御自分を私達とつなぎました。それで、赦しと命と救いがあります。赦しとは、私達を神様から遠く離すものが無い事です。神様と結ばれている事があるので、私達は聖です。
聖なるバプテスマによって、私達は神様に属しているので、洗礼によって、私達を聖なる者になります。聖餐式の時、キリストは御自分の契約の約束を再び思い起こしますので、私達は彼の聖なる体と血によって聖になります。私達は聖です。私達は聖徒です。
私達が神様の聖徒ですが、正式に言うと、今日の全聖徒の主日のお祝いは、まだ生きている私達の為ではありません。しかし、私達はどこでも、いつでも、すべての教会とすべてのキリスト信者たちと共に神様を誉めたたえます。神様の誉れは永遠です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会