2017年9月10日
第一日課 エゼキエル 33: 7-9 (p. 旧 1350)
33:7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。33:8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。33:9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。
福 音 書 マ タ イ 18:12-20 (p. 新 35 )
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。《
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。18:20 二人または三人がわたしの吊によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。《
エゼキエルは旧約聖書の預言者でした。彼の時代は、イスラエルの民はバビロンに捕(と)らわれたのです。その時、神様は彼に言われました、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした《と。民には危険がありました。外国の奴隷でしたが、それより危険なのは、イスラエルの神に対する信仰を失う危険がありました。以前、神様は、モーセの時、彼らをエジプトでの奴隷状態から救い出したり、ダビデの時、敵であったペリシテ人から救い出したりしましたが、今は、バビロンの軍隊はエルサレムを破壊したり、民を奴隷として捕らえました。当然に人々は神様の事を考えたでしょう。神様の愛とアブラハムやダビデへの約束はどうでしょうか。それで、エゼキエルの仕事とは、見張りとして、ガードマンとして、人が罪の中で死なないで、人を守る事でした。十戒を破りましたら、赦しがあります。第2の戒めから第10の戒めまで赦しがあるのは、第一の戒めを守ればです。即ち、罪を赦して救いを与える全能の神様を信じ、愛し、信頼する時です。
エゼキエルは見張りでした。ほかの預言者もそうでした。又は、バプテスマのヨハネもイエス様も使徒達も、又は数え切れない多くの牧師や親たちです。羊のように子供を見張り、守り、導き、注意する事です。
神様は私達を見張って下さいます。それは聖書のメッセージです。困って時、死にそうな時、神様はただ私達を見て何もしない訳ではありません。私達の状態を見るのです。私達の罪を見ます、私達をおどす天災も、私達の個人的な災いをも見ます。そして、見張りである神様は私達を救い出して下さる者を送って下さいます。即ち、御子イエス・キリストを送って下さいます。
神様の救助プランはヨハネ3:16です。このように言い換えましたらどうでしょうか。「神は、その独り子を、世を救い出す為にお与えになったほどに、天災と悪と罪に困らされている世を愛された。独り子を自分の救い主や救助主として信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《
イエス様は良い羊飼いです。 言われました、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである《(ルカ19:10)。今日の福音書には九十九匹の羊を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜す羊飼いがいます。その羊飼いとは、イエス・キリストです。天の父なる神様は、さ迷っている、いかなる一匹の羊でさえも失われて欲しくありません。. 失われて死ぬ たった一人の人でさえも、死んで欲しくありません。 この理由で、この世に御子イエス様を遣わしになりました。イエス様は言われました、「悔い改めて福音を信じなさい《と。 その意味とは、「さまよわないで、神様の家に帰りなさい《と。 それで一匹の羊でも帰りますと、神様は喜びます。 さ迷っている羊を探して、イエス様は全世界を探します。. イエス様はゴルゴダの山まで行って、そこで十字架につけられました。 この捜索(そうさく)に、イエス様は地獄まで行きました。それは苦しめられる為ではなくて、御自分の愛する羊を見つける為に、安全に天国に帰らせる為でした。 イエス様は私達の心にこられて、「あなたは見つけられていますよ。一緒に帰りましょう《と。
イエス様はあなたを何回探したででしょうか。 あなたは十戒を何回破ったでしょうか。 イエス様はあきらめません。「悔い改めと赦し《という言葉をよく使います。 即ち、「あなたは見つけられていますよ。赦されていますよ。帰りましょう。《と。 ペテロはある時、イエス様に聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。《 イエスは言われました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倊までも赦しなさい。《(マタイ18:21-22)。言い代えますと、数え切れないほど、絶えず赦し続ける事です。それは、神様が私達を赦す方法です。 神様の憐れみと愛は無限です。詩篇136編が言うように、「慈しみはとこしえに。《 PTL. 神に感謝します!
今日の福音書でイエス様は言われます。18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。《その兄弟は迷っている羊のようです。見つけられなければなりません。赦されなければなりません。 帰らせなければなりません。その兄弟を見つけられなければ、ほかの人を連れて探せばいいです。もしかしたら、そのほかの人の言葉を聞き入れて自分の罪深い行いを直すかもしれません。そうしなければ、今度、多くの人々を連れていって、彼を探しましょう。
イエス様の御吊によって、兄弟が帰るように祈りましょう。 これについて、イエス様は言われました、「18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。18:20 二人または三人がわたしの吊によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。《イエス様も私達の捜索隊(そうさくたい)の中にいます。
それが神様のやり方です。神様の愛と憐れみと忍耐と赦しは無限です。エゼキエルのように、私達の見張りです。神様は良い羊飼いです。 私達を探して下さいます。私達を見つけますと、神様は喜びます。教会も喜びます。 一人一人の見付けられた人は嬉しいです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会