2019年2月10日
網が破れそうになった・おびただしい魚を見た時、シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです《と言いました(ルカ5:8)。そして、イエス様はに言われました「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる《(5:10)。ペトロはその沢山の魚を見たとき、おどろきと喜びがあったでしょうが、と同時に、恐れもありました。イエス様を恐れました。それで「主よ、わたしから離れてください《と言いました。どうして恐れたかみましょう。
まず、恐れは何でしょうか。自分が死にそうと思って、又、ひどい苦しみを受ける前にある感情です。会話の中で、このように言うでしょう、「雨が降る恐れがあります《と。しかし、それは本当の恐れではなくて、失望かがっかりです。怖い事よりもめいわくです。又、「おそれ入れますが、窓を閉めて下さいませんか《とは、ただの丁寧な願いかも知れませんが、外には毒ガスか何かがあれば、本当に死ぬことに対する恐れでしょう。本当の恐れは、死をおそれる事です。新約聖書は「恐れ《について話すとき、「死ぬ事を恐れる事《です。例えば、クリスマスの天使を見た羊飼い達は非常に恐れました。おそらしく、自分達が滅びるほどと心配したのです!どうしてペトロが恐れたでしょうか。取れた魚の数が多すぎて重くて船が沈むからでしょうか、沈んだら自分が溺れると心配したからでしょうか。いいえ、ペトロは泳ぐ事が出来ました、ヨハネ21章で海辺で待つ甦られたイエス様の所まで泳ぎましたのです。ペトロが恐れたのは、イエス様が自分を殺すと思ったからです。自分が罪人であるから殺す事です。そのおびただしい取れた魚の奇跡によって、ペトロは、イエス様には聖なる神様の力があると見ました。そして、罪深い人はその聖なる神様の前に生きる事が出来ません。預言者イザヤが聖なる全能の主を見た時も同じでした、「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、私の目が万軍の主なる王を見たのだから《と言いました(イザヤ6:5)。
ある時、「神を恐れる事《は、ただ「神を信じる事《と意味します。しかし、この表現の意味とは、神様を信じる人しか、本当に神様を恐れる事が出来ない事です。無神論者は存在がないと思うものを心配しないでしょう。神様の罰を恐れましたら、本当の無神論者ではないでしょう。世の中には、へそまがりの人がいて、真の神様について分かっても、自分の罪とその結果を無視します。恐れがない事は、反抗的な罪のしるしです。しかし、悪魔こそ神様を恐れます!ヤコブ2:19が言います、「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。《
最初に信仰に入る時、多くの人々には、自分の罪深さが分かり、神様の罰を非常に恐れます。永遠の滅びを恐れるからです。人が教会に来る一つの理由とは、地獄から逃げる為です。地獄の燃える火と硫黄の海を語る牧師がいます。人間の恐れを利用します。「造り主に出会う準備せよ《という看板を見た事がありますか。以前に、日本のあちこちでは、白い字で書かれた黒い筆がフェンスや壁にかけられました。こわいですよ!私は、牧師になったばかりの時、人をキリスト教に改心させる為に、恐ろしい事よりも、神様の愛を見せたいと思いました。しかし、どうなるか分かりますか。人に神様の愛を見せても、人は神様を恐れてしまいます!船の上のペトロを見て下さい。イエス様はペトロの心と思いの本当の状態を知りました。上思議の思いではなくて、上安と恐れでした。それでイエス様はその本当の問題に対して話しました。「恐れなくてもよい《と言われました。どうしてペトロが恐れたでしょうか。別の時、湖の上に大きな恐ろしい嵐ががありました。別の時、幽霊と思った水の上を歩いたイエス様の姿を見た時に怖がりました。しかし、今日のはなしで、ペトロの命があぶないように見えません。しかし、恐れたのです。イエス様を恐れたのです。ペトロが見たのは何ですか。イエス様の愛を見たのです。イエス様の純粋な、自分が受けるに値しない恵みを見ました。その恵みは、そのおびただしい魚の群の奇跡の中に見ました。そして、その恵みと愛があったので、ペトロは謙そんと恐れの態度にあふれました。イエスのひざもとにひれ伏して言いました、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です《(ルカ5:8)。ですから、愛の為にこわくなり、愛の為に安心にされました。第一ヨハネ4:18が言います、「完全な愛は恐れをとり除く。《そして、イエス様はシモン・ペトロに言われました、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。《(ルカ5:10)。
Amazing Grace と言う賛美歌があります。2節の言葉これです、 "'Twas grace that taught my heart to fear, And grace my fears relieved." 「恵みは私の心に恐れを覚えさせて、そして、恵みは私の恐れを消しました。《神様の恵みの完全な意味が分かる時、私達は恐れるべきです!何故ならば、私達の主イエス・キリストにとってこそ、この恵みをすごく恐れたからです!その恵みの為に、イエス様は苦しみを受け、十字架上で死ななければならなかったです。ゲツセマネの園で祈った時(ルカ22:44)、イエス様の血のような汗は、イエス様の非常に大きな恐れの為でしょう。マルコ14:33~34にこのように書かれています、「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』《私達に対する素晴らしい愛の為に、イエス様は御自分の十字架を背負って、私達の罪を赦す為に死んで下さいました。神様の素晴らしい愛の為に、イエス様には素晴らしい確信がありました、即ち、苦しみの中にも死の中にも、天の父はイエス様を守って、3日目に甦らせる事です。
私達の為にも、私達の心をおびえさせる同じ愛は、私達の恐れを取り除く愛です。そして、その愛が私達に、イエス・キリストにある完全な喜びを与えます。ペトロと私達の叫びは、以前「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです《でしたが、今の祈りは、「主よ、いつまでも私と共にいるように《と。私達の人生の恐れを取り除くので、私達皆がイエス様に従う弟子になる事が出来ます。私達にイエス様が「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる《と言われる時、一つの心配する事があれば、それは、網の引き上げを手伝うほかの弟子が足りない事です!
小教理問答書のなかでは、マルチン・ルターは、十の戒めの意味を説明します。かく戒めの説明はこのような言葉で始まります、「わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。 。。。それで、わたしたちは、隣人を殺さないで、彼の物を盗まないで、偽証しません。《恐れと愛の対立があります。どうして戒めを守るでしょうか。ある時、神様や両親や警察を恐れるから守ります。しかし、同時に、神様の愛が私達の心を満たすので、神様に喜ばしい人生を送りたいと思います。その愛が他の人に愛と人権の尊さを与えます。結局、私達の神様や他の人の関係が、恐れに基づいていないで、神様の豊かな恵みと愛に基づいています。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会