十字架を背負う

2021年2月28日、受難節第2主日B


マルコ8:27*38
8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか《と言われた。8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。《8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。《ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。《8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。《
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。《

十字架を背負う

今日、「従う《と言う言葉について考えたいと思います。聖書の中でよく出てくる言葉です。今日の福音書の日課にも出て来ます。

マルコ8:34-38. 「8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。《

マルコ1:16-18. 「1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう《と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。《

マルコ11:9-10. 「11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の吊によって来られる方に、/祝福があるように。11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。《《

先ず。従う事は、ただ誰かの後ろについて歩く事です。人にも、行列にも、はやっている物にも、パレードの後にも従って行く事が出来ます. 付いて行く事でしたら、動く事です。私達クリスチャンにとっては、キリスト信者としての人生は、じっと教会の長い椅子に座っている事ではなくて、動いていることです。活動的なキリストに従って、聖霊の導きによって生きます[行きます]。ですから、キリスト信者でしたら、「教会の中に座る事《だけではなくて、愛と奉仕に活動的です。

次。従う事は朊従〔ふくじゅう〕です。命令に従い、法律に従い、イエス様の教えに従います。それで、キリストの弟子達として、自分自身のように隣人を愛し、敵をも愛します。又、キリストに反対の考え方やそのような生活ぶりに従いません。

次。従う事は理解する事です。誰かの考え方について行きます。大学の先生の話について行きます。迷う時に教えられた説明に従います。私達はイエス様の教えを理解する事が出来ます。「左の頬hooをも向けなさい《の意味についていて理解します。その命令に実際に従って朊従するかどうかの事は、私達クリスチャンにいつもある誘惑とテストです。

キリスト信者として、この3つの方法でキリストに従います。イエス様の教えを理解して、朊従して、人生の中でイエス様が導いて下さる所で動きます。私達は、キリストに従って行くのが幸せだと思います。

が、今日の福音書の日課を読みます、マルコ8:34*38.「8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。《

もし私達がキリストの後について行きましたら、イエス様が十字架上で死んだ所にも行きます。イエス様はご自分の十字架をその場所までに背負いました。もし私達は自分の十字架をも背負ってイエス様の後に行きましたら、私達もイエス様と同じように死ぬと意味します。それが問題であるのは、私達は、喜びを持って人生を過ごしたいと思うからです。キリスト者としての喜びが欲しいと思います。苦しみではなくて、健康が欲しいと思います。命を失わないで自分の命を救いたいと思います。イエス様の言葉について行くのは、難しいです、理解しにくいです。文字道理に朊従して従う事が難しいです。

英語だけの表現かも知れませんが、「偲びづらい十字架《。それは、解決する事が出来ない一つのハンディキャップや苦しみや恥の事です。一生涯それと戦う人がいます。その人々の為に祈ります。イエス・キリストにある信仰によって力と勇気を得るでしょう。しかし、このような苦しみはイエス様の十字架ではありません。イエス様の十字架とは、弟子であるので、イエス様の教えに従うから受ける苦しみです。つきつめると殉教者として、キリスト者であるから死ぬ事です。又、迫害やいじめもあります。又、それを避ける為に秘密のように生きる事です。又、日曜日ごとに教会に行き、仕事や学校や遊びをやめる事です。

価値があるかどうか考えさせられています。イエス様は言われました、「8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音の為に命を失う者は、それを救うのである。《その理屈について行くのが難しいです。生きる為に死ぬ事ですか。自分の命を救う為にそれを失いますか。

ご自分について話したイエス様の言葉を覚えましょう。「8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。《イエス様の十字架上の死は、御自分の復活に至りました。私達が背負う十字架はイエス様の十字架です。ですから、私達の復活にも至ります。それを背負う為にイエス様は私達を手伝います。又、私達の為に背負ってくださいます。又、御自分の永遠の腕の中で私達を抱idaきます。このようにして、永遠の命へと、私達はイエス様に従います。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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