2018年3月18日、四旬節第5主日
みことばの歌:“みさかえあれ”*80*
12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです《と頼んだ。12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。《
12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ、御吊の栄光を現してください。《すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。《12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った《と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ《と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。《12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
「栄光《と言う事について考えましたら、何が考えるでしょうか。例えば、オリンピックのチャンピオンが金のメダルを受ける為に台の上に立つ事です。映画のオスカーを受ける俳優です。素晴らしいショーで演じるロックのスターです。綺麗な朝日や夕日の栄光です。栄光は広く輝きますので、栄光を受けるものだけではなくて、それを見る人も、感情的に動かされて、その栄光を分かち合います。それで、自分の国の選手が金メダルを受ける時、自分にもプライドがあります。自分のチームが勝ちますと、興奮します。一日の終わりに綺麗な夕日を見て、「すごい《と言います。
「栄光《の反対とは、「恥《でしょう。以前に栄光を受けたものにスキャンダルに落ちて罰されましたら、それを見る人にも恥を感じる時があります。もし栄光の輝きが他の人にプライドを起こしましたら、恥は他の人をその失敗と暗闇に引っ張ります。
イエス様の栄光はどうでしょうか。輝く栄光でしたら、彼の変貌の山、復活、昇天、又世の終わりの再臨もあります。イエス様は多くの奇跡をしたので、特に、友達のラザロを復活したので、エルサレムに登場した時、群集はイエス様を迎えて、叫びました、「ホサナ!主の御吊によって来られる方に万歳!《と。私達も栄光のイエス様をお祝いします。
ヨハネ12章に、イエス様は御自分の栄光について話します。十字架上で高く上げられる時に栄光を受けます。イエス様は良く矛盾のような言葉を使います。古い言葉に新しい預言的な意味を与えます。イエス様の栄光と勝利とは、多くの人が彼の恥と負けと思います。イエス様は御自分の十字架上での死は御自分の栄光であると言われます。何故ならば、御自分の上に私達の罪を取って、私達の代わりに死んで下さった時、悪魔を征朊したからです。このような偉大なる事をして、確かに彼のもっとも栄光がある時です。彼の死の栄光は麦の一粒の種のようです。土に椊えて、葬る事のように、死んだ種は新しい稲になって、多くの実を結びます。同じように、イエス様の死は多くの人々に命を与えます。この新しい収穫は素晴らしい栄光です。
オリンピックのチャンピオンが栄光を受ける時、台の上に行きます。職場の地位が上がる事もあります。イエス様も、栄光を受ける時、上げられます。十字架上に上げられます。これは神様のご計画であるとイエス様は知りました。これがベツレヘムで生まれた理由であると知りました。十字架が御自分の栄光の時であると知りました。
人々は栄光がある所に引っ張られていますが、恥がある所から逃げます。しかし、イエス様の場合には違います。このように言われました、「12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。《それで私達クリスチャンが十字架に引っ張られています。恥と死のしるしは栄光と勝利のしるしになったからです。
今日の福音書の日課に、ユダヤ人ではない私達にとって、もう一つの大切な事があると思います。あるギリシャ人がイエス様の所に来ました。今日の福音書のストーリの最初の所をもう一度読みます。
12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです《と頼んだ。12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。. . . . . .
12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ、御吊の栄光を現してください。《
この言葉の大事な所とは、救いが全世界も為であると言うからです。そのギリシャ人は、私達を含めて、イエス様を探すすべての異邦人を表します。人の子が栄光を受ける時は、世の救いの為です。ユダヤ人は、自分達だけが神様が愛する民であると思いました。しかし、ヨハネ3:16によりますと、神様は全世界を救いたいと教えます、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。《又、マタイによる福音書の最後に、偉大なる宣教があります、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の吊によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。《イエス様は一粒の麦ですが、全世界への豊かな収穫です。それで、イエス様は私達皆が彼に従うになって彼に仕えるように招きます。イエス様に仕える者がいれば、父なる神様はその人を大切にしてくださいます。即ち、それは救いです。
それで、この福音書の日課は、私達もイエス様を探すように招きます。私達もイエス様を見たいと思うでしょう。イエス様と会いたいです。御言葉と聖礼典において会います。しかし、私達は本当に何を見たいと思うでしょうか。苦しみと死を見たいと思いますか。イエス様の恥を見たいと思いますか。イエス様のように、私達も死にたいと思いますか。いいえ。かえって、イエス様の奇跡を見たいと思うでしょう。癒しを受けたいのです。成功がほしいです。お金がほしいです。楽しみたいのです。多くの人々が最初に教会に来る時、このようなものを見たいと思います。このような栄光を見たいのです。イエス様が私達自身を上げてもらいたいと思います。心のうつろな状態から、失敗の状態から上げてもらいたいと思います。しかし、世俗的な物を探せば、日々の糧の為に神様に信頼しない時、イエス様を見つけられないでしょう。イエス様の栄光よりも自分自身の栄光を考えます。しかし、それは恥になります、永遠の恥です。イエス様が言われるとおりです、「12:25 自分の命を愛する者は、それを失う。《
良い知らせとは、イエス様が私達を見る事です。ルカ19:10、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである《と。イエス様は私達の罪と私達の恥を見ます。私達はどこに探せば、どこを見れば良いか分かりません。しかし、イエス様はそれを知ります。それで、私達が上を見上げて、彼を見る事が出来るように、イエス様が十字架に高く上げられています。イエス様が言われた通りです、「12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう《と。又、「12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る《と。恥のただ中には栄光があります。罪のただ中には赦しがあります。死のただ中には復活があります。その時、その所に私達はイエス様の本当の栄光を見ます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会