癒し、信仰、祈り

2018年9月16日


マルコ 9:14–29
9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。9:16 イエスが、「何を議論しているのか《とお尋ねになると、9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。《9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。《
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか《とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。《
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。《9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。《9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。《9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった《と言った。9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか《と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ《と言われた。

癒し、信仰、祈り

イエス様は多くの人々を癒して下さいました。ショーのためではなくて、人々を集めるためにしませんでした。人を癒したのは、憐れみと愛のためでした。ある時、マルコ6章では、12人の弟子達を送りました。良い知らせを述べ伝えながら、神の愛を表わすために、人を癒すように言われました。マルコ6:7、「 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け《たのです。

今日の福音書の日課には、弟子達は権能を果たそうと思いましたが、その男の子を癒すことが出来ませんでした。その悪霊を追い出すことが出来ませんでした。テキストに書いた説明を読めば、現代の人は、その子にはテンカンがあると言うでしょう。

まず、お父さんの愛も彼の死に物狂い(しにものぐるい)の状態を見ます。両親は、自然に自分の子供達を愛して、元気で、幸せになるように願います。両親は、自分の子供を癒すために、お金が沢山必要でしても、何でもやってみたいと思います。それで、私達はそのお父さんの気持ちを理解することが出来ます。

又、私達は弟子達のフラストレイションも見ます。彼らは頑張りました。イエス様から与えられた働きをすると思いました。私達はその気持ちを理解します。何故ならば、私達も教会の働きをして、結果を見ない時、私達もフラストレイションを感じます。私達は現代のイエス様の弟子達です。癒しや悪霊を追い出すことだけではなくて、伝道や他の教会の活動もそうです。

イエス様が私達の所に来られましたら、弟子達に言われた事を私達にも言われるでしょうか。19節「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。《先ず、私達の時代も信仰のない時代でしょうか。いつまで、イエス様が私達の事と私達の失敗に我慢するでしょうか。しかし、イエス様には解決もありました。「その子を私のところに連れて来なさい。《実は、最初からそうすればいいです。最初から私達の問題をイエス様の所に持って行くべきです。

そのお父さんは自分の息子を愛します。多くの事をやってみたでしょうが、もう希望が消えそうです。弟子達は子を癒す事が出来ませんでしたが、イエス様が出来るでしょうか。イエス様に頼んで言いました、「おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください。《そして、イエス様の次の言葉は、すべての時代のキリスト信者に偲ぶ事が出来る希望を与えます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。《そして、お父さんの叫びは、すべての時代のキリスト信者達の信仰の祈りです、「信じます。信仰のない私をお助けください。《

その答えは、矛盾のように聞こえます、「信じます。信仰のない私をお助けください。《人々は祈りの中で、「主よ、もっと強い信仰を下さい。主よ、もっと大きい信仰を下さい』と言います。しかし、実は、ほんの少しの信仰があれば十分です。小さいからしだね程の信仰があれば、山を動かせるとイエス様は言われました。

それで、信仰は何でしょうか。どのように信仰を説明する事が出来るでしょうか。どのイメージや例えが良いでしょうか。次のイメージを考えて、今日、役に立つかも知れません。

神様との信仰は、神様につながれている事です。縄のようです。天国から下がる縄があり、私達の縄がそれに結ばれています。それで救いがあります。しかし、の結び目はどのようなものでしょうか。しっかりした船に使う「舫(もや)い結び《 [もやいむすび] {noun}(bowline)でしょうか、それとも、簡単に解く「ひっこき《(slipknot)の結びでしょうか。もっと強い信仰の為に祈るのは、もっとしっかりした結び目があるように祈る事です。もちろん、私達は自分自身でその結び目を結ぶ事が出来ません。洗礼を受ける時、聖霊はそれを結びます。私達は祈るたびに、礼拝するたびに、その結び目がしっかりしたものであると見えます。何故ならば、イエス様は私達人間をご自分と結ぶ時、それはひっこきの結びではありませんでした。釘でした。抜けられないものでした。お墓も、封印され、ガードがいた抜けられないものでした。それで、イエス様は私達の死と結ばれました。そのようにして、私達はイエス様の死にもイエス様の復活にも結ばれています。この結びこそが、地獄や罪は壊す事も解く事も出来ません。

イエス様はその男の子を完全に治して下さいました。弟子達は、どうして自分達も出来なかったかと、イエス様に聞きました。イエス様は答えました、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ《と。私達には、人を癒す力がなくても、祈る力があります。もしかしたら、弟子達は、自分達だけの力によって出来ると思ったでしょう。しかし、何でも間でも、すべてが祈りによって神様によってしなければなりません。それで、私はこの福音書の話が好きです。というのは、私達は全部を、祈りによってイエス様に持って行く事が出来ると分かるからです。又、イエス様の約束があります、「信じる者には何でもできる。《けんそんを持って、又、自分の経験から分かってきて、そのお父さんの言葉を私も言います、「信じます。信仰のない私をお助けください。《その意味とは、「主よ、希望がありますが、その希望を失わないように助けてください《と。自分の信仰を強くする為に、奇跡や癒しや特別なしるしが必要ありません。時々見てもいいでしょうが。

それで、今日のテーマとは、すべてを祈りによって神様に持って行く事です。そのお父さんのように、自分の子供をイエス様につれて行く事です。希望と夢をイエス様のところにつれて行って祈る事です。祈りは、最後に思い出すもののはずではありません。何も出来ない、全部が失敗して、別の希望がない時に最初に祈る事よりも、最初から祈るべきです。祈って、神様からのすべての祝福を利用します。その祝福とは、薬や道具などです。それで、山を動かす為に、ブルドーザーなどを利用します。それで、多くのキリスト信者達と共に「いつくしみ深き友なるイエスは《を歌います。『祈りにこたえて いたわりたまわん』からです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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