私がある

2012年4月1日
しゅうろ主日、受難主日

ヨハネ18&19章

今日の長い福音書、ヨハネ18章と19章の中での、私の好きな箇所とは、イエス様がゲッセマネの園で逮捕される時です。その苦しい祈りを終えまして、兵士とユダヤ人達はイエス様を探しに来ました。御自分の身に起こる事、これからどうなるか、イエス様は何もかも知りました。逃げるチャンスがありましたが、進み出て彼を迎えました。「誰を探しているのか」と聞きました。「ナザレのイエスだ」と。そしてイエス様はこのように言われました。「私である」と。そう言われると、彼らは後ずさりして地に倒れました。何か、イエス様の中から大きな力か威力(いりょく)が出て、彼らを後ろの方に吹き飛ばしてしまったみたいです。どうしてそのようになったでしょうか。それは、イエス様が「私である」と言われたからです。

神様の名前とは、「私である」と言う名前です。モーセが燃える芝の所で神様と話した時、神様の名前を聞きました。その時、神様はこのように答えて下さいました、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出3:14)。ヘブライ語では「ヤーウェー」です。第二戒めはこれです、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」。その戒めを守る為に、敬虔なユダヤ人は、決して神様の名前を話しませんでした。それを避ける為に、「天国」や「主」と言いました。又、神様の名前を話す事を避ける為に、文法的に、受け身の形を使いました。例えば、「神があなたを祝福する」と言わないで、「あなたが祝福されるように」と言いました。それで、イエス様が神様の名前を言われますと、そのユダヤ人達にはびっくりで、彼等はショックを受けました。イエス様は言われました。「私である」と「あなたがたが探しているナザレのイエスは、私である」と。ナザレのイエスは主なる神様ヤーウェーです。この方こそは肉体となった御言葉であり、神が私達と共にいるイマヌエルです。イエス様を逮捕しようと思った人々が神様の名前を聞く時、後ずさりして、地に倒れました。それは彼らの計画ではありませんでしたが、それは祈りと礼拝の姿です。

ゲッセマネの園の中の出来事は大切です。イエス様がすべてをコントロールしている事を表します。彼を逮捕する為に人々を出迎えました。弟子達を「去らせなさい」、逮捕しないように命令しました。イエス様の為に戦おうと思ったペテロにその逮捕の邪魔をしないで、「剣をさやに納めなさい」と言われました。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われました。即ち、イエス様の逮捕、裁き、苦しみ、十字架に付ける事、又復活は、私達の救いの為の神様の御計画でした。

イエス様がすべてをコントロールします。裁かれている時も、イエス様はその告発者らをもピラトをも恐れません。ピラトがイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と聞いた時、イエス様はそれを否定しませんでしたが、『王』と言う言葉より違う言葉を選ぶでしょう、例えば『メシアか主か救い主』でしょう。18:37, そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

イエス様がすべてをコントロールします。再び、ピラトとの対話でそうです。19:9-11. 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

イエス様がすべてをコントロールします。弟子ヨハネが母マリアを大事にするように言われました。

イエス様がすべてをコントロールします。最後に「成し遂げられた」と言われ、頭を垂れて息を引き取られました。死ぬ時も、死ぬ瞬間をも選びました。イエス様がすべてをコントロールします。

今日、強調しようと思うのは、イエス様は全能の神様である事です。人間として生まれたのは、私達人間を罪や死や悪魔から救い出す為です。愛について素晴らしい教えがありましたが、死ぬ時、愛は本当に何であるか教えました。私達の為の愛の測りを見せて下さいました。

イエス様は彼を逮捕しようと思った人々に、「誰を探しているのか」と聞きました。「ナザレのイエスだ」と答えました。今日、あなたは、誰を探しているでしょうか。見付けたいのは誰でしょうか。救いと助けと力と癒しと平和とコントロールを与えるのは誰でしょうか。私達はイエス様の事をよく理解する時があります。イエス様が逮捕されたように、私達も誰かが私達を捕(つか)まえようとするものがあるように感じる時があります。イエス様が裁かれたように、誰かが私達のプライベートの事を調べて裁く事があるように感じます。イエス様と同じように、他の人の前で侮辱さあれて、恥ずかしくなった時があります。又、イエス様のように、私達も自分が出来なかった罪や、誤りの為に罰を受けた事があります。私達も体の上にも、心の中にも痛みと害を受けた事があります。又、自分の目の前で死を見る事があります。「誰を探しているのか。」救い主を探します。

イエス様は私達に聞きます、「誰を探しているのか。」そして、私達は信仰を告白して『救い主なるイエス・キリストです』と答えます。そして、イエス様は返事して下さいます。「私である」と。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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