2012年8月5日
マルコ 6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。 6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。 6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」 6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 |
今日の福音書の日課と次の2つの主日の福音書には同じテーマがあります、即ち、イエス様は言われます。「私が命のパンである」と。今日このイエス様の言葉を一つづつ見て、真面目にイエス様のみ言葉を見たいと思います。
最初の言葉は「私」です。イエス様はパンを与える事の名誉を、ほかの人と分かちあいません。荒れ野でパンを与えたのは、モーセではなくて、天の父なる神様でした。今度父なる神様は、私達に誠の天からのパンを与えて下さいます。即ちイエス・キリストご自身です。このパンとは、水辺で5千人を食べさせた5つのパンと違います。イエス様ご自身がこのパンです。イエス様以外のものを探してはいけません。ほかの先生や預言者の所を見てはいけません。栄養の為に、モーセの律法を見てはいけません。又、自分の命を支える為に、食事も見てはいけません。「私が命のパンである」と言われたイエス様を見なさい。
2つ目の言葉は「である」です。日本語の文書の最後の言葉ですが、聖書のギリシャ語や英語の場合には、2つ目です。文法で現在形です。救いは今です。将来の為に待たなくてもいいです。神様との命はもう既にあります。時々キリスト信者の頭は未来に浮いているみたいです。私たちが忘れるのは、神様からの呼びかけとは、今神様の為に生きる事です。イエス様は今私達の所に来られています。イエス様は命のパンである。今、イエス様は私達の人生の中で働いています。それで、私達は今、神様と共に働きます。
一つ目と二つ目の言葉を合わせますと、「私である」となります。「私はある」とは主なる神様、ヤーウェーの名前です。燃えている芝の所で、神様は御自分の名前を、モーセにこのように教えました。(出エジプト3:14)、「私はある。私はあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『私はある』という方が私をあなたたちに遣わされたのだと。」イエス様は命のパンである。主なる神様ヤーウェーは命のパンである。今朝、聖なる三位一体の神様の神秘について話したくありません。しかし、新約聖書はイエス様が神様であるとはっきり教えます。命のパンを与えるのは神様です。同時に神様はその命のパンです。イエス・キリストに於いて、神様は私達に御自分を与えて下さいますので、私達が命を得る事が出来ます。
3つ目の言葉は「the」です。日本語にはない言葉ですが、英語とギリシャ語には大切な小さな言葉です。その意味とは、パンが一つしかない事です。多くのパンの中で一つのパンの事ではありません、ほかのパンがありません、イエス様は命を与える、ただ一つのパンです。ほかの物があるでしょうが、イエス様はただ一つの誠のパンです。
「私はパンである」と。パンが小麦粉で作られた物です。小麦粉の特徴は、イースト菌と混ぜましたら、ふくらみます。別の物はそのようになりません。お米、大麦、トモロコシ、芋、別の穀物はそのようにふくらみません。イエス様の時代、パンは主食でした。日本でお米が主食と同じでした。ですから、イエス様は「私が命の食事である」と言われます。お腹がすいている時、私達罪人はほかの物を探します。精神的に飢えている時、退屈な時、より良い人生を与えるだろうと思うほかの物を探します。例えば:愛、教育、友達、薬、食べ物、飲み物、スポーツ、遊楽、エンターテインメントなどです。しかし、そのものが私たちを満足せせるでしょうか。心を満腹にするでしょうか。このものは神様からの贈り物であるので、主の祈りの「日ごとの糧」のリストに含まれているので、神に感謝していただきます。勿論。そして、サンドイチやおにぎりをいただく時、その食事の為に感謝しながら、本当の天からのパンであるイエス・キリストを下さった神様に感謝します。
最後に「命」です。イエス様は言われました、「私が命のパンである」と。では、命とは何ですか。色々の人に聞きましょう:哲学者、神学者、就職の指導カウンセラー、あなたの学校の先生、自分の友達、科学者、生物学者、冒険者、遊び人。今日、この定義はどうでしょうか。命とは神様と共にいる事です。命とは神様の愛です。神様がこの世を愛するので、命があります。植物や動物や人間の為の命があります。そして、イエス・キリストには永遠の命があります。この命が永遠のものであるのは、イエス・キリストが永遠のもので、御自分を私達に与えるからです。十字架上で死にましたが、3日目に甦りました。私達も生きる事が出来る為に、イエス様は死にました。イエス様は私達に永遠の命を与えるパンです。それは神様と共にある命です。神様の愛と共にある命です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会