“主の家”

2022年1月2日


2022年1月2日の説教の動画をYouTubeで視聴できます。
YouTube の説教
( https://www.youtube.com/watch?v=73hP2T6ToHc )
また、YouTube で「沖縄ルーテル教会《を(日本語の漢字で) 検索する事が出来ます。
喜屋武さんはこのビデオを制作しました。ありがとう。



“主の家”ルカ2:40-52
2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。《
2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。《2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に紊めていた。2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


今日の福音書の日課について考えます。

先ず、12歳のイエス様は、ご自分がどなたであるか知っていました。即ち、神の子です。言われました、「私が自分の父の家にいるのは当たり前だという事を、知らなかったのですか《と。イエス様は神様がご自分の本当の父であると知りました。母マリアに告げた天使ガブリエルの言葉を確認します:「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる《と、ルカ1:35。イエス様が洗礼を受ける時、もう一度確認されます。「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者《という声が、天から聞こえました、ルカ3:23。ですから、悪魔は荒野で彼にチャレンジしました:「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ《ルカ4:3。これこそはキリスト教の中心です:即ち、イエス様は神の子です。それで、ご自分の父である神と同じように、イエス様も神である事です。ですから、ご自分の死と復活に、私達の罪を赦す、私達に永遠の救いを与える力があります。ですから、私達の祈りに聞いて答える力があります。ですから、いつも私達と共にいます。

また考えます。エルサレムの神殿は父の家です:ご自分の本当のホームです。ベツレヘムで産まれ、ナザレで育ったのですが、本当のホームはエルサレムの神殿です。神殿とは、言葉を定義しましたら、神が住む所です、それで、イエス様が神であるので、そこに住むべきです。その同じ定義によって、イエス様が住むどこでも神殿になります。それで、私達がイエス・キリストを自分の救い主として信じる時、キリストがいつも私達と共にいますので、私達と共に住んで下さいます。聖パウロはコリント人への第2手紙にこのように書きました、6:16、「私達は生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。『私は彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らは私の民となる。』《聖パウロが言いますのは、神殿が聖なる物であるので、私達が神殿である自分の体をも聖なる物として守って、聖なる生活を送る事です。

ルカによる福音書で、今度イエス様が神殿に来られる時は、棕櫚(しゅろ)の日曜日です。このように読みます、ルカ19:45-46、「イエスは神殿の境内(けいだい)に入り、そこで商売(しょうばい)をしていた人々を追い出し始めて、 彼らに言われた。『こう書いてある。《私の家は、祈りの家でなければならない。》ところが、あなたたちはそれを強盗(ごうとう)の巣にした。』《イエス様は同じように、私達の心や生活を清めたいと思います。聖なる人生、祈りの家のように、毎日に過ごすようにしてほしいと思います。洗礼の水と罪の赦しによって私達を清めます。キリスト教に対する新しい人は、よく考えるのは、キリストが自分の心の中に入る前に、自分の人生をかえって、自分の努力で自分を聖なる者にしなければならない事とおもうことです。実は、逆です。クリスマスのメッセージとは、イエス様がこの汚れた世に来られた目的は、この世を聖なる物にする為です。罪を赦す事が出来るのは神様だけです。それで、私達を聖なる者にするのは神様だけです。もし、自分の心が汚れていると思って、イエス様の為にふさわしくないと思いましたら、この事を考えて下さい:イエス様は馬小屋に産まれた事です。このメチャメチャな世に来られました。メチャメチャである私達の所にも来られます。罪を犯す時、イエス様が私達からさって行ってしまわないで、私達を愛するので、何があっても、私達と共に住んで下さいます。

イエス様はマリアとヨセフに言われました、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だという事を、知らなかったのですか《と。もしあなたがイエス様を探せば、今日どこで見るでしょうか。教会である神の家に見つけられます。御言葉の中でイエス様を見つけられます。読んだ、歌った、教えた、説教した御言葉の中でイエス様を見ます。バプテスマと聖餐式の礼典の中です。私達の教会が完全に完璧なものではありません、私達は罪深い聖人だからです。しかし、それなのに、イエス様は私達と共に住むようにしようと思います。私達の小さい教会の誤りを見逃(みのが)す訳ではありません。キリスト教会の宗派や教団の誤りをも見逃す訳ではありません。代えて、私達が神様に必要であるのをご存知です。イエス様が私達と共にいる事が必要であると神様が分かります。それで、馬小屋に生まれる事がふさわしいと思い、私達の教団や沖縄ルーテル教会の中にも、私達の家族の中にも、私達の心の中にも住む事がふさわしいと思います。

アーメン。

この新しい年に主の平和があなたの心に住むように。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト

Michael Nearhood, Pastor
Okinawa Lutheran Church


Sermon Index