テストを受けたイエス様

2021年2月21日、受難節第1主日B


マルコ1:12*13
1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


イエス様は完全に試みられました。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後に、聖霊はイエス様を荒れ野に送り出しました。40日間そこでサタンから誘惑を受けられました。

聖書の中には、「誘惑《と言う言葉は、「試み《又「テスト《とも意味します。実は、すべての誘惑は私達の信仰をテストします。サタンはイエス様が本当に神の子であるかどうかテストしたいと思いました。イエス様がただの普通の預言者、バプテスマのヨハネのような、旧約聖書のモーセやエリアのようなものでしょうか。又、イエス様は旧約聖書の勇士、ダビデやヨシュアのような者でしょうか。又、イエス様は政治的なメシア、社会的な改革者、イスラエルをローマの敵から救い出す者でしょうか。イエス様はどなたでしょうか。サタンはさぐりたいと思いました。イエス様が神の子であるという指摘(してき)がありました。天からの声はそう宣言しました。しかし、サタンは自分でそれを調べなければなりませんでした。この「イエス《と吊付けられた人をテストしなければなりませんでした。イエス様はそのテストに合格するでしょうか。聖霊は、イエス様が合格する確信を持っていました。それで、イエス様がサタンと会うように、イエス様を荒れ野に送り出しました。

マルコ1:13を読みますと、イエス様が40日間、最初から最後まで試みられたようです。40日間の最後の3回だけではないようです。私たち説教者がマタイとルカの福音書から説教する時、イエス様がその誘惑に抵抗する為、聖書の言葉を言われたので、私達も聖句を暗記したら、誘惑された時役に立つだろうと説教します。しかしマルコの福音書の箇所では、私達に自分達の事を考えさせる所がありません。試みられたのはイエス様だけです。このテストはこの個所から始まり、マルコの福音書の最後まで続きます。それを説明しましょう。

サタンに誘惑された後、多分数日の時、マルコ1:24で、会堂の中に汚れた霊に取りつかれた人がいました。その汚れた霊は叫んで、イエス様の権威をチャレンジして、言いました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。《イエス様の権威をテストして、イエス様にその汚れた霊を追い出す権威と力がありました。そして、そのすぐ後に、イエス様はペテロの義理の母を始め、多くの人々を癒して下さったので、癒す力がテストされました。そして、2章7節で律法学者達は、イエス様には罪を赦す事が出来るかどうか疑いました。言いました、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。《イエス様は、その中風の人を癒す事によって、御自分には罪を赦す権威があるという証拠を与えました。もし、罪を赦す事が出来る者が神様だけでしたら、イエス様が神であると意味します。その後、ファリサイ人はイエス様を何回もテストします。習慣について、宗教的な儀式について、安息日の律法についてなどです。

今度、イエス様は弟子達をテストします。マルコ8:27「あなたがたは、わたしのことを何者だと言っているか《と言われました。ペテロの答えは正解でした、「あなたは、メシアです。《しゅろの日曜日に、イエス様はエルサレムの神殿を調べました。ひどかったので、イエス様はその神殿を清めました。境内(けいだい)から商人(しょうにん)や両替人(りょうがえひと)を追い出しました(11:15)。

又、イエス様がゲッセマネの園で祈る時にも試みられました。次に、イエス様が逮捕され、裁かれ、ユダヤ人の指導者やピラトにテストされました。又、十字架上にいる時にもテストされました。(15:30-32) 

15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。《15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。《一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

(マタイ27:40)  「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。《 勿論、このテストに合格する為には、十字架上で死ぬ事が必要でした。

最後のテストはイースターの朝でした。(マルコ16:3)  彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか《と話し合いました。トマスはイエス様をテストしました。「その釘後を見なければ、信じません。《「わが神よ。わが主よ!《

イエス様をテストするのは、サタンだけではありません。イエス様が本当にどなたであるか知りたいと思うのは、サタンだけではありません。私達もそうです。私達の信仰の生活は、いつも神様にチャレンジします。たえまなく、いつも神様をテストします。神様は私を愛するでしょうか。神様は私を助けて下るでしょうか。どうしてあのひどい災害が起こったでしょうか。どうして私と私の愛する人が苦しむでしょうか。神様は本当に存在するでしょうか。それとも、存在しても存在しなくても、何か違うでしょうか。

私達が神様をテストしながら、神様が私達をテストします。私達の信仰をテストします。私達のモラルや道徳をテストしません。私達の生き方や振る舞いは、勿論大切です。しかし、私達のモラルや私達の道徳によって、私達は救われていません。私達の信仰を見る神様の恵みによって救われています。神様は私達の信仰を見ます、私達の忠実さを見ます。私達と神様の間には縁があるかどうかを見ます。サタンがイエス様を誘惑した時、このように言いました、「もしあなたは神の子なら、この石をパンにして、また十字架から降りてこい《と。イエス様の行動によって自分が神の子である事を表わしてもらいたいとサタンは思いました。しかし、神様は私達にこのように言われます、「もしあなたは神の息子や娘でしたら、私はあなたを愛します《と。即ち、私達が神様の子供達である証拠は、私達がする行動によってではなくて、イエス様の行動によってです。十字架上で死んで甦る行動です。このことだけで、私達が合格する事が出来ます。

神様は私達を裁く時、私達は誰であるかによって裁きます。私達は彼の子供達です。同じように私達は神様を裁きます。神様はどなたでしょうか。私達の父です。あなたの信仰がテストされた時、誘惑を受ける時、疑いがある時 -- 自分は誰であるか、即ち、自分が洗礼を受けた神の子供であることを思い出して下さい。そして、イエス様が誰であるか思い出して下さい。彼は神の子です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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