私達はユダと違います

2023年4月2日、棕櫚主日・主の受難主日



マタイ26:1-27:66
マタイ27:1-10
27:1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。
27:2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました《と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ《と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
27:6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない《と言い、27:7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑《を買い、外国人の墓地にすることにした。27:8 このため、この畑は今日まで「血の畑《と言われている。27:9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。27:10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。《

来週の日曜日は、復活祭です。 それで、今週の日曜日の聖書日課は、イエス様の受難です。

ゲツセマネの園での接吻によって裏切られました。逮捕され、最高法院で裁かれました。十字架につけるために、ピラトに渡されました。マタイによる福音書のイエス様の受難の話の中には、ユダの自殺の話があります。最高法院の長老達の中の喜びに対するユダのショックとおそれがあります。    

最後の晩餐の時、イエス様は予言しました。弟子ユダは彼を裏切る事とペテロは彼を否定する事です。(マタイ 26:21-25; 26:34)その通りになりました。ユダはゲツセマネの園での接吻によってイエス様を裏切りました。そして、鶏が鳴く前に、即ち、その同じ夜の内に、ペトロは3回もイエス様を知らないと言いました。二人とも罪を犯しました、同じ罪ではありませんでした。ユダがイエス様の逮捕を願いました。ペトロは自分自身の逮捕されたくありませんでした。ユダはイエス様に害を与えたいと思って、ペトロは自分自身の害を逃れたいと思いました。そして、二人は自分の罪を理解したので、その次の行動は違います。どうしてユダがイエス様を裏切ったかよく理解する事が出来ません。もしかしたら、逮捕されたら、バプテスマのヨハネのように、ただ牢屋に入れられるだろうと思ったかも知れません。しかし、イエス様が十字架上で死刑になると分かる時、自分の誤りが分かりました。恐ろしくなって、ユダは、立ち去って、首をつって死にました。ペトロは、自分が何をしたか分かった時、ひどい罪を犯したと感じました。恥と後悔をもって、外に出て、激しく泣きました。(27:5; 26:75)。

ユダは、自分の手で物事を支配したいと思いました。裏切る事も自殺もそうです。それは彼の大きい間違いです。イエス様を信じませんでした。イエス様は、自分が逮捕され、殺され、3日目に甦ると言われました。しかし、ユダは待ちませんでした。もしペトロのように待ちましたら、私個人が思いますが、イエス様はユダさえも赦すだろうと思います。ペトロを3回も赦しました。信仰を3回も告白しました。(ヨハネ21:15ff)。「私を愛しているか。《「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。《「私の小羊を飼いなさい。《

イエス様はユダをも赦す事が出来るでしょうか。するでしょうか。するべきでしょうか。十字架のメッセージは何でしょうか。十字架のメッセージとは、罪の赦しです。ご自分の上に、世の罪を取りました:大きい罪も小さい罪も、否定の罪も裏切りの罪をもです。罪の為の犠牲になった神の子羊でした。復活されたので、その犠牲は成功だったと証明します。罪が赦されています。

十字架上でイエス様は叫びました(マタイ27:46)、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。《これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか《という意味です。父なる神様は御自分のみ子、イエス様を裏切ったのですか。 父はイエス様を否定したのですか。私達の場合はどうでしょうか。イエス様が私達の罪の為に死んだと信じる私達を、神様は見捨てて裏切るでしょうか。そのみ吊によって洗礼を受けた私達を否定するでしょうか。

復活の明確なメッセージとは、御自分のみ子を見捨てなかった神様は、私達をも見捨てない事です。私達を裏切りません。旧約聖書の歴史全部には、主なる神が,選ばれた民イスラエルが罪を犯しても、最後に彼らを忘れないで、裏切らないで、見捨てなかったです。それは新約聖書のメッセージでもあります。最後の晩餐で、このようにいわれました(マタイ26:28)、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。《契約の約束です。神はいつも罪を赦す事です。決して私達を裏切りません。

イエス様はユダをも赦す事が出来るでしょうか。するでしょうか。するべきでしょうか。イエス様は私達をも赦す事が出来るでしょうか。するでしょうか。するべきでしょうか。答えは:「はい、はい、はい《です。何故でしょうか。それは、神様は神であるからです。無限の愛をもって私達を愛するからです。それは完全な赦しです。自分の恐れやプライドなどの為に、私達がイエス様を否定したり裏切ったりしても、完全な赦しです。私達の心と人生に平和と慰めを与え、恐れと惜しみを取ります。

神の愛は、決して私達を裏切ったり見捨てたりしません。これは聖金曜日や復活祭の日曜日の福音のメッセージです。私達はユダと違います。私達は救い主イエス・キリストの無限の哀れみと赦しに信頼するからです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト

Michael Nearhood, Pastor
Okinawa Lutheran Church


Sermon Index