「十人のおとめ」の例え話し:
目を覚ましていなさい

2011年11月13日

マタイ25:1-13
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

今日の福音書は有名な個所です。イエス様の教えは簡単です。それは、ストリーの最後に言われているからです。即ち、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」しかし、この例え話しを読みますと、細かい所はわかりにくいです。

花婿(はなむこ)は、勿論、イエス・キリストです。花婿は世の最後の時、裁きの日に来られます。戸が閉められた事は最後の裁判です。婚宴(こんえん)の席に入る事は、天国の救いです。花娘は教会です。花婿の来るのが遅れた事は、イエス様が復活して、昇天されてすぐ後に、この世に戻らなかった事です。それで、教会は2000年間も待っていています。十人のおとめは教会の会員達です。しかし、すべての教会名簿に乗っている人が救われるわけではありません。戸が開くと救いですが、閉じると最後の裁判です。灯火(ともしび)は、「世の光」であるキリストを現すキリスト信者の人生です。解釈しにくい物は、ランプの油です。例えば、その油は信仰、愛、人間の魂、聖霊など。イエス様御自身がはっきり言われなかったので、説教する人々は、自由に解釈しても良いと考えます。キリストの栄光を現す神の律法と福音をよりよく現す為です。今日、私は、その油が「希望」(きぼう)であると言いたいと思います。そして、「キリストが再び来られる希望」がある限り、私達のランプが照らしています。その希望がなくなってしまうと、キリストが来られた時に、私達の準備が出来ていないでしょう。

例え話には、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまったのです。賢い者も愚かな者も眠ってしまったので、眠る事は別に悪い事ではありません。多分、寝る事とは、普通の人間には眠る事が必要であるので、普通の人生を送る事と思います。そうでしたら、キリストが再び来られるまでに、私達は普通の人生を送る事でしょう。又、別の意味とは、眠る事とは死ぬ事でしょう。キリストはまだ現れていないので、待っている多くのキリスト信者はもう既にその眠りに入りました。ですから、油を買う時期とは死ぬ前です。復活の日にキリスト信者に成る事はもう遅いです。

今日の20世紀の結婚式の習慣が違うので、私達はこの例え話しの細かい所の意味を理解する事が出来ないでしょうが、例え話しの意味がはっきりしています。最後にイエス様はこのように言われたからです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」実は、マタイ24と25章の中の5つの例え話しのテーマはこれと同じです。泥棒の例え(24:43)、賢い僕と悪い僕の例え(24:25)、十人のおとめ、タラントの例え(25:14)、と羊と山羊の例え(25:32)です。

事実いつイエス様がこの世に戻るか、だれも知りません。私はこの文書を話しおわらない内に来られるかも知れません。私達が生きている人生の間に来られるでしょうか。それとも、何百年後かも知れません。永遠と比べますと、私達の人生の長さは短いので、時間をむだに使いたくないでしょう。この現代の電気製品の時代の私達は、結果が早く出るように願います。「沖縄時間」と言う表現があります。ゆっくりした生活ぶりを現すはずですが、今ごろの使い方は、遅れている時の言い訳に過ぎないでしょう。今の時代の人々は、「沖縄時間」が大嫌いです。私達の霊的な人生も同じです。「神の時間」も嫌いでしょう:1000年は1日で、1日は1000年です。祈りの答えを早く見たいと思います。癒しを今ほしい、成功を今ほしい、成長を今ほしい、平和を今ほしいなど。ガラテヤ5章22節の「霊の結ぶ実」の一つは、「寛容(かんよう)」即ち、忍耐(にんたい)です。このような本当の寛容や忍耐は、本当に、聖霊からの実です、聖霊の奇跡です。待つ事は難しいです。ある時、待つ時間が長くなりますと、私達はあきらめます。交通が混んでいる時、我慢できないので、別の道を探そうと思います。又、あきらめて、家に帰ろうと思う時もあります。もし神様が私達の祈りにすぐ答えてくれなければ、私達は別の問題の解決方法を探します。世の終わりに来られるキリストを待つ事や今私達の人生に来られるキリストを待つ為に、私達のランプを照らし続けなければなりません。

私達の霊的な灯火を照らし続ける為に、何が必要でしょうか。その油は何でしょうか。希望でしたら、希望を与えるものは何でしょうか。いくつかのものがあるでしょう:例えば、信仰、信頼、聖書の勉強、暗記した聖句、クリスチャン達の交わり、礼拝、祈り、聖餐式、洗礼、罪の告白と赦しなどです。そして、その賢いおとめ達が別の壷の中に油の用意をしたように、私達のランプを希望でいっぱいにする神の御言葉と礼拝と祈りがあります。

しかし、ランプの中に、何でもかんでも入れる訳ではありません。ガソリンを入れたら、爆発します。ある化学製品を入れると、その煙(けむり)は毒です。又、コカコーラを入ると、火は全然燃えないでしょう。自分の霊的なランプを満たそうと思いましたら、変な物を入れると、だめです。偶像礼拝、人種主義、自分の自慢、麻薬、ヨガ、自己中心的な思いなどは、あなたの希望を支えません。あなたの灯火は消えます。神様の約束の御言葉だけがその灯火をともし続けます。

そして、その炎(ほのお)は何でしょうか。マタイ24と25章の例え話しの中では、その炎とは、キリストを証しをするキリスト信者の生活です。それで、24章の例え話の賢い僕は主人の家を上手に管理します。それで、乙女たちは友達の結婚式に出席します。僕達が上手に主人のタラントで上手に商売や貿易をします。そして、羊と山羊の例え話しの場合、キリスト信者の生活とは、飢えている人を食べさせ、渇いている人に飲み物を与え、旅をしている人に宿を貸し、裸である人に着物を与え、病気の人や牢にいる人を訪(たず)ねます。言い換えますと、キリスト信者達の炎とは、私達の普通の人生を送る事です。それで、いつイエス様が戻るか、心配しません。マルチン・ルターについての話しですが、もし明日が世の最後の日であると分かっても、今日、りんごの木を植えると彼は言いました。何故ならば、それは自分に与えられた仕事だからです。

私達が今日教会に来たのは、自分のランプを満たす為に、油の用意(ようい)をする為です。そして、その火が明くる照らすために、ともし火のしんを整えます。イエス様は言われました。「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)。十字架上にいる時、世界が暗くなりましたが、彼の愛と赦しが照らしました。3日目に、彼のかがやかしい復活は神様の愛と平和を宣言しました。そして、将来のいつか、その栄光に輝く光が戻ります。その時、天使の叫ぶ声がします。「花婿だ。迎えに出なさい」。ホサナ!

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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