第一日課 アモス 6: 1,4~7(旧1436)
第二日課 1テモテ 6: 6~19 (新389)
福音書の朗読 ルカ 16:19~31 (新141)
今日の3つの聖書日課は富の危険を忠告します。イエス様は金持ちとラザロの例えを話します。ここで神様の哀れみを見ます。「16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた《のです。陰府にいました。金持ちのふるまいが非難されていますが、この例え話のメインポイントは金持ちと父アブラハムの対話だと私は思います。
(16:27-31) 「27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』《
予言のように、甦られたイエス様の場合がそうでした。アブラハムの予言は、その通り成就joujuされました。イエス様が十字架上で死んで、3日目に甦りましたが、ユダヤ人達は、信じようと思いませんでした。どうしてでしょうか。それは、彼らは旧約聖書のモーセや預言者達を信じなかったからです。旧約聖書は、キリストと彼の死と復活を予言しました。もし、彼らがモーセと預言者達を信じましたら、彼らは公に神の国を述べ伝えるイエス様を信じたでしょう。ですから、復活されたイエス様は、ご自分をユダヤ人達に表されなかったのです。たとえ甦られたイエス様を見ても、信じようと思わなかったからです。
父アブラハムは言いました、「天国と地獄の間には大きな淵がある《と。実は、ラザロと金持ちがまだ生きている時、その二人の間には大きな淵がもうすでにありました。経済的や社会的に離れていました。嫌悪感(けんおかん)を込めて 金持ちはラザロを見下しました。
今日の第一聖書日課で、旧約聖書の預言者アモスは、自分の時代に、この同じ問題について書きました。アモスの時代、イスラエルの国が南国と北国に分かれていました。アモスはエルサレムの近くにあった小さな村の羊飼いで農家でした。しかし、神の御言葉を南の国の都エルサレム即ちシオンに対しても、北国の首都サマリアに対しても、告げました。今日の箇所で金持ちの人々を非難します。もしアモスが今現在の今日に生きていましたら、日本のも、アメリカの金持ちと権力者達の罪を裁くでしょう。
今日の使徒書の日課、テモテへの第一手紙6章で、聖パウロも、金持ちと権力者を非難します。彼の忠告の言葉は有吊です、(6:9-10) 「9金持ちになろうとする者は、誘惑、罠(わな)、無分別(むふんべつ)で有害なさまざまの欲望(よくぼう)に陥ります。その欲望が、人を滅亡(めつぼう)と破滅(はめつ)に陥れます。 10 金銭(きんせん)の欲は、すべての悪(あく)の根(ね)です。金銭を追(お)い求めるうちに信仰から迷(まよ)い出て、さまざまのひどい苦(くる)しみで突(つ)き刺(さ)された者もいます。《
テモテは金持ちではありませんでした。私達も金持ちではありません。私達の社会の中の問題について文句を言えます。暴力と悪を非難して裁くべきです。しかし、聖パウロはテモテがほかの人の事を心配しないで下さいと言います。その代わりにテモテ自身が良いキリスト者の人生を送るように勧めます。
(6:11-16) 「11しかし、神の人よ、あなたは[その(これら)]ことを避(さ)けなさい。[その代わりに]正義、信心(しんじん)、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前(めんぜん)で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。 14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟(おきて)を守りなさい。 15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者(しゅけんしゃ)、王の王、主の主、 16唯一の上死の存在、近寄り難(がた)い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配(しはい)がありますように、アーメン。《
テモテの時代の初代教会の中にも数人の金持ちがいました、今日もそうです。彼らの為に、聖パウロはこの忠告を進めます、(17-19) 「17この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢(こうまん)にならず、上確(ふたし)かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 18善を行い、良い行いに富み、物惜(ものお)しみをせず、喜んで分け与えるように。 19真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固(けんご)な基礎(きそ)を築(きず)くようにと。《
私達の社会の中には、いろいろの淵があります:金持ち・貧乏、上手な人・下手の人、頭が良い人・そうではない人、元気な人・病気の人、優しい人・いじわるな人、美人・ブス、僕達・お前達、国と国、人類(じんるい)と人類、宗教と宗教、宗派と宗派、創造主と創造物、など等等。罪深い人間はその淵をなおさらに罪によって大きくします。淵の向こう側に対する罪です。そして、罪の為に、神と人間の間に広い淵があります、天国と地上の間です。その淵を渡る方法が一つしありません。その淵を渡った者が一人しかいません:イエス・キリストです。
父アブラハムは、天国と地獄の間には大きな淵があると言いました。罪の為に、その淵は、グランド・キャンヨンほど深くて広いです。そして、罪の為に、私達と神様との間のへだたりは、天国が地獄から遠く離れているのと同じように大きいです。橋が必要です。私達と神様をつなぐ橋は、キリストの愛です。神様は、ご自分の愛する子、イエス様をこの世にお遣わしになりました。指先に付けた水だけではありません。洗礼の水、命の水を持って来られました。イエス様は、貧しい人にも、困っている人にも、金持ちにも、ご自分の手を伸ばして下さいました。その橋によって、天と地をつなぎました。その橋とは、十字架でした。そして、その十字架によって、私達は、その淵を渡ります。ここに、私達は神様の愛を見ます。私達の人生のすべての淵を渡る橋は、イエス・キリストの十字架です。別の人から私達を離す淵をも、私達の心の中にある神様の愛によって渡る事が出来ます。又、今、信仰と希望をもって、心の中で、もう既に、死から永遠の命に渡った愛する人を見ます。そして、信仰によって分かるのは、イエス様の後に従って、私達も渡る事が出来ます。《
最後に、私の古い神学大学の先生は、自分の書いたルカによる福音書の本で、いいます。「こじきは物乞いmonogoiする時、どこに座ったらよいか分かります。どこの街の角が良いか分かります。誰が気前が良いか分かります。ですから、誰かが、あなたに物ごいをしましたら、助けを頼めましたら、嬉しくなって下さい!あなたが親しい、やさしい人として、見られているからです。そして、自分に示した神様の愛を、さらに、他の人に示して下さい。その深いへだたりを愛で埋めましょう。その淵を神の愛と平和の橋で渡りましょう。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会