2015年2月22日 受難節第一主日
皆さんがこの話しをよく知っているだろうと思います。イエス様はロバに乗ってエルサレムに入場しました。赤いカーペットを敷く事のように、人々は「自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」のです。新しいイスラエルの王様のようにイエス様を迎えました。イエス様が、平和と幸せを与える神様からの贈り物として人々は考えました。イエス様を送って下さった神様に感謝しました。叫びました、「いと高きところにホサナ。」「ホサナ」と言うヘブライ語の言葉を日本語にすれば、「万歳」が良い翻訳だと思います。その日、エルサレムの町に、興奮がありました。しかし、彼らが失望したのは、イエス様がただの王としてではなくて、メシアとして来られたからです。彼の王座は十字架で、冠は茨です。誉れは侮辱になります。しかし、このように、彼らが全然想像する事が出来ない方法で、イエス様は彼らに王として仕えて下さいました。
今日の与えられた福音書の日課は、受難節の第一の日曜日の福音書の日課です、即ち、イエス様の荒れ野での誘惑です。マルコの福音書はとっても短くて、一節だけです、「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(マルコ1:13)。マタイとルカの福音書には悪魔からの3つの誘惑が載っています:石をパンにする事、悪魔を拝む事、そして、神様を試して神殿の屋根から飛び降りる事です。色々の形で、この3つの誘惑がマルコの福音書のイエス様の宣教の働きの時に再び来ます。例えば、石をパンにする誘惑は、5千人を食べさせる時のようです。その時、5のパンで群衆の皆を食べさせました。食事の後、人々はイエス様を自分達の王にしようと思いました。王になる誘惑でした。そうしますと、十字架での苦しみを偲ばなくてもいいです。しかし、イエス様はその誘惑を乗り越えて、群衆を解散させて、独りで山に行って祈りました。
水の上を歩く事は、神殿の屋根から飛び降りる事のようでしょうか。自然を乗り越えて、地球引力(重力の法則)を否定する事です。しかし、神様を試す為にしないで、海の中で嵐に悩ませられていた弟子達を救う為でした。
又、神殿の屋根から飛び降りる誘惑とは、人々がイエス様を見る事が出来る時や場所で飛ぶ事でしょうか。即ち、神殿の境内には大勢の人がいるでしょう。空中で飛ぶイエス様を見るでしょう。そして、イエス様を神として拝んで、彼を自分達の王にするでしょう。勿論、イエス様は父なる神様を信頼したので、主なる神様を試す必要がありませんでした。しかし、ロバに乗って、エルサレムに入城した時、人々が「ホサナ!万歳!」と叫ぶ時、その賛美を受けて、彼らの王になる誘惑があったでしょう。十字架とその苦しみを捨てもいいでしょう。神様の御国を今もたらしましょう。そして、悪魔は勝ちます。私達の罪が赦されません。私達は死んで地獄に行きます。しかし、イエス様は悪魔を拝まないで、誘惑に陥りませんでした。
私達がこのマルコの福音書を読むのは、私達に話すからです。イエス様の栄光を見る時、私達も叫びたいと思います、「ホサナ!万歳!」聖餐式にもこの言葉あります、「いと高きところにホサナ。主のみ名によりて来たるものに めぐみあれ いと高きところにホサナ。」私達は、自分の神様の御前の罪を感じる時、私達の罪を赦す為に十字架上で死ぬメシアが必要であると分かります。しかし、自分の罪を無視して、ただこの世の重荷とストレスだけ感じる時、やさしい王が欲しいと思います。パンを初め、癒し、成功と幸せを与える王が欲しいと思います。この誘惑がサタンから私達に着ます。イエス様の本当の王座を否定する誘惑です。十字架を捨てて、ロバを受ける事です。馬鹿の事です。
信仰によって、聖霊の導きによって、私達に分かって来るのは、棕櫚shuroの日曜日の王様と、頭の上に「ユダヤ人の王」と書いていた札にある、十字架に掛けられたメシアと同じ者である事です。ポンテオ・ピラトは、それを冗談として書かせたでしょうが、それが本当の事として私達は信じます。私達はすぐイエス様の復活に飛びたいと思います。私達の王様がそのような苦しい死刑を、受ける事が恥ずかしいと思う時があります。それで、しゅろの日曜日から復活祭の日曜日に飛びたい思います。しかし、それは罪が大したものではない、罪を軽んじる誘惑です。罪が大きな問題ではないと思う事です。
聖金曜日、十字架のイエス様を見る時、「ホサナ、万歳」と言いにくいです。しかし、この王こそを拝みます。この王こそに祈ります。今日、イエス様を自分の心と自分の人生の中に迎え入れます。イエス様は私達にご自分の愛を現して下さったので、私達はその愛を他の人にも現します。私達を愛するには、イエス様にとって、危ないでした。時々、私達が他の人を愛しますと、危ないです。しかし、イエス様が教えたのは、その愛が自分の為にではなくて、その他の人の為です。それで、私達のイエス様と共に旅する受難節の旅の日に、勇気と希望と目標を与えます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会