主の洗礼主日、2017年1月15日
ヨルダン川に来られた時、イエス様とヨハネには、この対話がありました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」 人々の罪を赦すために、ヨハネはユダヤ人達に洗礼をほどこしました。しかし、イエス様には罪がありませんでしたので、自分の為に罪の赦しが必要ではありませんでした。しかし、十字架上で死んだ時、世の罪を取り除く為の犠牲になりました。イエス様の浸礼は、このコンテキストにあります。
私達は罪人であるので、私達には洗礼が必要です。私達の場合には、洗礼は本当に私達の罪を赦します。そして、生きている間、いつも私達の罪を赦し続けますので、洗礼は一回限りのもののようではありません。勿論、カレンダーに書く事が出来ます。自分が洗礼を受けた日付hizukeをおぼえていますか。私の場合には、1949年11月6日です。しかし、先に申しましたように、洗礼は一回限りのものではありません。洗礼は、私達が誰であるかを変えます。自分が誰であるか、どのものであるかを変えます。化学的な変化henkaみたいです。洗礼盤は試験管のようです。しかし、これは霊的な変化です。H2Oの水 + 神のみ言葉+私達の信仰です。新しい人に生まれ変わります。その人は神様との間に、正しい関係を結びますので、イエス様の表現で、「ふさわしいことです。」神様とのふさわしい縁を結びます。洗礼は、水プラス神様の約束のみ言葉です。その約束とは、マルコ16:16です。「信じて洗礼を受ける者は救われる」と。そして、信仰を持ってその約束をおぼえる時、私達の罪が再び赦されて、神様の約束が尚更に確認する事が出来ます。私達が救われています。自分のする行いによってではなくて、救われているのは、洗礼の中にある神様の約束によってです。そして、その約束は私達の信仰より強く、全世界の海の水より強いです。洗礼は一回限りのもののようではありません、イエス・キリストによる私達の新しい存在です。
洗礼は、入会式、入門式のようによく考えられています。人が正式にクリスチャンになることです。公の信仰の証しです。赤ちゃんの時に洗礼を受ける場合、それはその赤ちゃんの親の公の信仰の証しです。大きくなると、自分でその証しをします。堅信式はそうです。又、その証しをよくします。教会に来るたびに、自分の罪を告白し、ざんげして赦しを受けるたびに、また祭壇の前に立つたびに、献金をするたびに、言葉や業によって福音を分かち合うたびに信仰の証しをします。
洗礼式の中で自分の信仰を告白し、悪魔を否定して、クリスチャンとして生きるように約束します。洗礼は、契約、約束のようです。私達も神様も約束します。私達は神様の民になると約束して、神様は私達の神になると約束します。神として、私達を養yashinaって、私達を守って、私達を救って永遠の命を下さるように約束します。私達は、神様の民として、神様に恥をかけないように約束します。洗礼は一回限りするものですが、その影響が続きます。約束の始まり、父と子と聖霊の三位一体の神様にある人生のはじまりです。
洗礼は罪の赦しの為ですが、洗礼を受けても、私達人間が罪を犯し続けます。どうして私達が罪を犯すでしょうか。聖パウロの為にも不思議なものでした。神様の民でしたら、どうして罪を犯すでしょうか。聖パウロは聞きました、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」聖パウロは言うのは、洗礼は新しい人生を送る力です。何故ならば、私達が素晴しい方法で、キリストと結musuばれているからです。どのようにキリストと結ばれているかと言いますと、キリストの死と復活が自分の死と復活になるほどです。私達も十字架上に死んで、私達も3日目に復活した事のようです。聖パウロが言いました。「6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」これは私達の新しい人生の生きるための力を教えます。罪に対して死んで、キリスト・イエスによって神様に対し生きるのです。これは、私達の人生の道徳の力です。聖パウロが言います、「6:7 死んだ者は、罪から解放されています。6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」私達がもう罪の奴隷ではなくて、キリストにあって自由なものです。キリストは、私達の人生の新しい生き方です。
洗礼は、入会式、入門式のようによく考えられています。わりに簡単な入会式です。ある宗教やカルトや団体には、とっても不思議な,又は、とってもひどい入会式があります。入れ墨irezumiなどです。あるカルトは、入会しようと思う人から、すべてのお金や持ち物をそのカルトにささげる事を要求します。ヤクザは指を切ります。キリスト教は簡単です。ただ水をかける事です。川の中に身体全体を水に入ることがあっても、めんどうくさいかも知りませんが、痛みがありません。洗礼は、体にいつまでも残る傷を付けません。洗礼の変わりに、私達の額hitaiに十字架の入れ墨があれば、どうなるでしょうか。クリスト信者の生き方が簡単になるでしょうか。ただし、この世の中のある所では、そのような刺青irezumiがあるとそれで尚更に危ないでしょう!しかし、洗礼は目で見る事が出来ないものです。キリスト教は心の宗教です。しかし、自分の洗礼をおぼえる時、信仰によってキリストのみ名を呼び求める時、再び水が自分の上にかけられているようです。聖霊は私達の心を動かします。海の波を起こすようです。私達の魂が再びぬれています。このようにして洗礼は一回限りのものではありません、継続的な状態です。文法的に言うと、「洗礼を受けた」と言うよりも「洗礼を受けている」と言ったらよいでしょう。自分がキリストと共に死にました。洗礼の時、溺oboれました。私達の罪が洗い、流されています。今、キリストにあって、生きています。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会