イエス様は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。《
しかし、その事を本当に行った人と出会った事がありません。又、キリスト教会の歴史上で、私が知るかぎれ、誰も、桑の木に命じて、その木が自分で根を抜け出して、海に根を下ろした事がありません。それで、私の結論とは、イエス様は例え話のように話しました。その意味とは、人に最も小さい信仰があれば、辛子種ほどの小さい信仰が有っても、大きい奇跡が出来ます、上可能なものを可能にする事が出来ます。
しかし、そのような信仰がありましたら、馬鹿な事をしないでください。海の塩水に椊えたら,桑の木が死ぬからです。それで、信仰を利用して、辛子種ほどの小さい信仰でしても、それを利用して大きい事をしましょう。イエス様の弟子達は言いました、「わたしどもの信仰を増してください《と。イエス様の弟子達にとっては、大きい信仰が必要な事とは、兄弟を赦す為でした。その兄弟は七回以上でしょう、絶えず、兄弟に対する罪を犯したでしょう。イエス様の12人弟子達の内に、二組の兄弟がいました:ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネです。イエス様は彼らに向かってその言葉を言われたでしょうか。兄ヤコブは弟ヨハネをいじめたでしょうか。とにかく、家族の者や仕事の仲間は、とっても うるさい時があります。桑の木よりも、その罪人を海に捨てる事が出来たら「いいな《と思う時があるでしょう。イエス様はある場合には、そのような事を勧めるみたいです。そして、海に捨てる前に、首に大きくて重いひき臼、又、錨のような重い物をつけて、海になげます。そのようにしたら、そのやかましい兄弟やうるさい姉妹を処分する事が出来ます。
私は真面目です。人を死刑に裁く事は大変です。それをする必要な時があるでしょう。小さい者の一人をつまずかせないようにです。その小さい者とは、子供もキリスト教会の新しい人もです。信仰が成長する時期で、信仰が弱いのです。正しくない、迷わせる異端から守る為です。
イエス様は赦しなさいと命令しましたが、私達がキリスト信者であるので、人を赦したいと思います。イエス様は、私達を赦す為に十字架上で死んだので、私達は他の人を赦したいと思います。それを主の祈りで祈ります。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。《それは、キリスト者の生き方です。人を赦したいと思います。ある罪や無礼を赦す事が上可能みたいでしても、それを赦したいと思います。例えば、もし誰かがあなたの家族の一人を殺しましたら、その殺人者を赦す事が出来ると思いますか?そして、もし、その人が悔い改めなければ、どうでしょうか。その人が、「すみません・ごめんなさい《と言わない、いや言いたくない時、どうでしょうか。もし私達が赦しの言葉、「大丈夫だ。心配しないで。オーケイです、赦してあげます《と言ったら、その人が本当に赦されているでしょうか。神様のみ前で、赦されているでしょうか。イエス様は「悔い改めなさい、福音を信じなさい《と言われたので、悔い改める事や自分の誤りを認める事が必要です。でも、決して自分の罪を感じないし、決して「すみません《と言わない人がいます。私達に対して悪い事や無礼をしたと感じない人がいます。
私達が、無礼な人を赦す時、自分の肩から重荷を下ろします。自分の心や思いに平和を与えます。何故ならば、仕返しなくても良いし、その人を罰しなくても良いし、神様に任せるのです。ローマ12:19,「12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる《と書いてあります。《私達は個人的に人を赦す事が出来ます。警察や裁判はその人を赦さないかも知れません。それを主なる神のみ手にゆだねます。
他の人の交わりの中で私達が人生を送るので、自分に対する、個人的な無礼と誤りと罪があります。その人があやまらなくても、私達の心の中には、個人的にその人を赦す事が出来ます。それは主の祈りの中で願う事です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。《キリストの弟子達、教会、すべてのキリスト信者、あなたと私の働きとは、罪を赦す事です。
キリスト教会のシンボルとは、十字架です。十字架とは、赦しのシンボルです。復活した日の夕方、イエス様は弟子達に現れて、彼らに罪を赦す命令、権利と力を与えました。ヨハネ20:21*23。
『21 イエスは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。《22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。《』
私達一人一人には、「万人祭司《のメンバーであるので、罪を赦す為に、同じ命令と権利と力があります。即ち、キリストの十字架を述べ伝える事です。それは、ただ、クリスチャンとして活きる事です。
桑の木を海の中に投げる事のように、海の中に罪を投げる事がふさわしいです、何故ならば、それが洗礼の海でしたら、その海に溺(おぼ)れる事は、赦しと永遠の命の復活になるからです。
大きなミッション、大きなチャレンジですが、それをする時、私達は素晴らしい事をしますが、誇(ほこ)ってはいけません。私達は言います、『私どもは取(と)るに足(た)りない僕です。しなければならない事をしただけです』と。大きい事をしませんでした。からし種一粒ほどの信仰の働きしかありませんでした。イエス様は、十字架上でその大きな仕事をして下さいましたからです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会